私はヤギたちのために生きたいー大学を卒業して村に戻った若き羊飼い、ツェリン・ラドルさんのインタビューから
- ナマケモノ事務局

- 2 日前
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9月1日~9日まで、ナマケモノ倶楽部とジュレー・ラダック共催で、「"懐かしい未来"の故郷で、豊かな自然と文化の未来をみつける旅」を開催しました(ツアー詳細はこちら)。
数回に分けて、旅の日記と、貴重なインタビューなどをこの「ナマケモノしんぶん」でシェアしていきます。私たちが実際に目でみて、村に身を置き、人々の話から感じた学び・気づきをみなさんが受け取り、これからのローカリゼーション運動の知のツールとして活用いただければ幸いです。(事務局)
ツェリン・ラドルさんインタビュー
於:キュンギャム村・ツェリン・ラドルさん宅にて、2025年9月5日午前
通訳:スカルマ・ギュルメット、辻信一 文字おこし:木下桃歌

都会で学んだ私が村に戻った理由
スカルマ:ツェリン・ラドルさんを紹介します。21歳のラダッキー(ラダック人)で、ラドルという名前は、ラー「神の子」、ドルはたぶん「ドルマ・タラ菩薩」にちなんでいると思います。
ラドル:私の家族はこのキュンギャム村でお店をやってたんですが、2013年にそれをやめて、畑仕事で生計を立てるようになりました。2020年に家族で話し合ってヤギを飼い始めることになりました。
スカルマ:その時、ラドルちゃんは11年生、日本でいうと高校2年生ぐらいですね。
ラドル:当時、私は学校に通うために、ここから遠く離れたレーに暮らしていました。そして、そこにコロナがやってきたんです。パンデミックで学校が閉鎖されたので、仕方なく村に戻り、一年間家で過ごすことになりました。それがちょうどヤギを飼い始めたタイミングでした。
実は私は最初は乗り気でなかったんです。「なんで今の時代にヤギを飼い始めるの」って。羊飼いで成功するイメージを持てませんでした。でも、コロナで外出もできず、することもないので、毎日、妹と一緒に山の上のほうに羊たちを放牧に連れていきました。最初はただ家族の仕事を手伝っている感じだったのですが、1年間、朝から夜までヤギたちと過ごすうちに、だんだん彼らの魅力に引き込まれていきました。
翌年の2021年、ラダックを出てインドの大学で3年間学びました。専攻は商科です。そして、2024年の4月、大学を卒業して村に戻ってきました。放牧を中心とした農的生活に戻ったわけです。
なぜ、大学で学んだ私が村に戻ったのか? 私自身、私と動物たちとの間に一体何が起こったのかうまく説明できません。とにかく、彼らに強く惹かれて、彼らが私にとって家族以外の何ものでもなくなったということです。
ヤギたちとの濃密な時間
現在、130頭のヤギを飼っています。子どもは4、5月に100頭ぐらい生まれます。人間と同じで、一匹一匹、鳴き声や毛の色が違います。だから、私は全員の区別がつきます。お母さんヤギ、兄弟どうしもそうです。彼らにも感情があり、家族という感覚があるんです。5歳になっても母ヤギと一緒にいるヤギもいます。
お母さんヤギと赤ちゃんは、お母さんが乳房炎にならないよう、授乳期間中は分けて管理します。離していても、お母さんは匂いで赤ちゃんヤギをすぐに見つけることができます。離乳して、一緒に放牧に出かける際も、鳴き声で自分の子どもを探すことができるんです。
ヤギたちと時間を過ごせば過ごすほど、私の心は彼らにより近づき、親しみを感じるようになりました。たとえば、母親が子どもを失ったとき、お母さんヤギは悲嘆にくれ、完全にうつの状態になります。逆に、母親がユキヒョウに殺されてしまったとき、自分を温めてくれる親がいない子どもの寂しい気持ちもひしひしと感じるようになりました。
人によっては、いらなくなったからといってヤギを簡単に手放してしまいます。そして彼らは食肉用に殺されてしまう…。でも、私はヤギを殺したくない。だから、私たちはオスも売らずに飼っています。彼らがヤギの一生を十全に過ごし、その生を終えるまで付き合うことを決意しました。


春から夏は、私にとってとても嬉しい季節です。冬中、ずっと干し草だけで生き延びてきたヤギたちが、ようやく大地から生えてきた緑の草を食べることができるのです。彼らの喜びようったらもう。喜びのあまり草の上で踊るほどです。羊やヤギたちを山に連れて行き、彼らがお腹いっぱい草を食べる。その光景をみると、私も本当に満たされた気持ちになります。
私と動物たちは多くのことを深く共有しています。家族にも伝えることができないぐらい、私の中にたくさんの想いがつまっていて、それぞれのシーンを思い出すたびに泣けてきてしまいます。何よりも私の心を捉えたのは出産です。
ヤギと魂を通わせる
こんなことがありました。冬のある日、放牧から戻ってきたときに、いつもなら真っ先に留守番をしていた赤ちゃんの元に来るお母さんヤギが見当たりません。夜が明けるのを待って、みなで捜索に出かけました。そうしたら案の定、お母さんヤギはユキヒョウに襲われていました。母親を失った赤ちゃんヤギは、悲しみのあまりみるみる衰弱して、腕や足が動かなくなってしまいました。そのとき私は「私が母親になって絶対にこの子を育てる」と心に決めました。
私は人間ですが、赤ちゃんヤギと魂の部分では通じあえると信じているんです。他のお母さんヤギのミルクをあげたりして、赤ちゃんヤギの面倒をみました。ところが、次のシーズンになっても、赤ちゃんヤギの前足は麻痺したままでした。専門家に連絡して症状を説明したところ、ビタミン不足だろうとのことで、治療を受けることができました。今ではすっかり元気になり、走り回っています。

また、こんなこともありました。ある時、オスの赤ちゃんを草の上で遊ばせたいと思って、まだ草が食べれないぐらいの赤ちゃんヤギを連れて山に登ったとことがありました。そうしたら、帰ってきたときにその赤ちゃんヤギが見当たりません。私はパニックになってしまいました。
家族でも大騒ぎになり、すぐにみなで山に探しに出かけました。1日目、その次の日、どんなに探しても見つけることができません。私は「あの子が自分にさよならを言わずに死んでしまうことは絶対にない。必ず生きているはずだ」と信じていました。
3日目かな、トレッキングから戻ってきたツーリストが、赤ちゃんヤギの声を聞いたと話してくれました。それは赤ちゃんヤギが行方不明になったのとは反対側の谷間でした。さっそくヤギの群れを連れて山に登り、赤ちゃんヤギを捜索しましたが、やはり見つけることができません。悲嘆にくれてヤギたちと帰ってきたのですが、そのお母さんヤギのお乳がなくなっていることに気づきました。
「え!?」と思ってよく見ると、赤ちゃんヤギの鳴き声が聞こえます。なんと、その群れにちゃんとその子が入っていたんです! 赤ちゃんヤギが2日間、獣に襲われずにいのちをつなぎ、自分でお母さんを見つけ、群れに戻った。まるで奇跡のようなできごとでした。


過疎化する村で
昔は100世帯ほどありましたが、みな都会に出てしまって、今は45世帯くらいです。空き家も多い。私の家は5人兄弟と両親の7人で住んでいます。叔母のところには祖母が一緒に暮らしています。
昔は、冬の期間にみなで暮らす家がありました。寒さが厳しい冬の間は畑仕事もないので、もう少し標高が低いところに降りるのです。村のみんなでいろいろな儀礼をしたり、手仕事を一緒にする時間でした。人口が少なくなってしまい、今では冬の期間も移動せず、1年間ここで過ごしています。
スカルマ:町に出ている人や学校に行ってる人たちも含めれば400人ぐらい。現在、いつも住んでいる人は100人ぐらいだと思います。
ヤクがいなければ山ではない
89歳の父方の祖母に話を聞くのが大好きです。昔の話を聞くたびにインスピレーションを受け取ることができます。祖母の名前はオルガン・ドルマン。彼女が紡ぐ言葉は、若い人たちのようにヒンディー語や英語が混じったりしない、昔ながらのラダック語です。私にも意味がわからないことが時々あって、「それってどういう意味?」というような言葉をまだ話す人です。祖母は、昔は村人がみんな同じことをやっていて、非常に楽しかったと話してくれます。
印象に残っているのはヤクの話です。祖母ともう一人の羊飼いは、山に小屋を建てて、80頭くらいのヤクを放牧して面倒をみていました。ある日、そこにインド軍が測量にきたのですが、祖母たちは軍隊なんて見たことがないから、自分たちを捕まえにきたのかと恐くなって山に登り、岩の間に隠れて一晩を過ごしました。翌朝、そっと小屋まで戻り、インド軍の足跡がないのを確認してとても安心したのを今でもよく覚えているそうです。けれども、祖母たちが避難している間に、ヤクたちは谷にいってしまい、ユキヒョウに襲われてしまいました。今ではヤクは30頭にまで減ってしまいました。
祖母の話を聞いて、私も心は当時に飛んでいきます。昔のようにヤクや牛がもっといたらなあと。山の風景としてヤクや牛は不可欠です。彼らなしでは山ではないという気がします。

崩壊していく村をどう立て直すか
辻:近代化していくラダックで、大学まで行った若い世代が村に戻って羊と暮らす。こういう生き方を選ぶ人はほとんどいないですよね。なぜあなたはこういう選択ができたのですか?
ラドル:生き方というか…、私が動物たちを好きすぎるんです。両親は年をとってきて、羊飼いをやめたがっています。確かにこれを続けていくのは大変です。でも、どうやって経済的にやっていくかという問題よりも、ヤギたちへの愛を貫くという、違うレベルに達してしまいました。
辻:大学で商科を専攻し、他の生き方、ビジネスや生計の立て方を知っているわけです。葛藤はありませんか?
ラドル:そういう葛藤を超えて、私はヤギたちのために生きていく。そういう心境です。
辻:同世代の人たちは次々に村を出ていきます。その先にあるのは村の崩壊です。それについてどう思いますか?
ラドル:レーにいる人たちも、週末に村に戻ってきて畑のお世話をして、また月曜にはレーに戻って仕事をする人もいます。ここよりも便利な暮らしに慣れている人がいるのもわかります。それでも、週に一度でも帰ってきて、つながりを保っていくことだけは続けてほしいと思っています。
もちろん、若者たちには村に帰ってきてほしいです。少なくとも、この羊たちとの生活を続けていけばいいことがあるのではないかと思っています。年寄りたちも減り、寂しくなりましたが、村の儀礼は続けています。そこに若者が帰ってきて村を存続させることに希望を託しています。
辻:周りから「好きでやってるんでしょ?」と趣味みたいに見られませんか。これで生計を立てられる、ちゃんとした経済になるというモデルを示さない限り、若者たちもそれに続こうと思わないのでは?
ラドル:まさにその通りです。今は近所の人からも「今時ヤギをやってるの?」と見下されている状況です。けれども、私は真剣にプロジェクトとして取り組んでいます。そしてそこから何かを紡ぎ出したい。

パシュミナヤギでローカル経済を起こしていく
私のヤギたちは「パシュミナヤギ」という、とても貴重なヤギです。この子たちの毛を刈りとって売ることで、現金収入が生み出されます。1年で10kgから15kgぐらいの重さで、4万ルピーぐらいの収入です。
毛のグレードは、正確にはわかりませんが、たぶん5段階の3ぐらいかと思います。標高が高いほど、そして、山にずっと放牧しているほどクオリティが高くなるのですが、私はヤギたちを愛しているので、毛の質をよくするために彼らの命を危険にさらすことをしたくありません。
現在は、未加工で原料のまま売っています。私たち羊毛の生産者は原材料費をもらうだけで、その後、その何十倍、何百倍の値がつけられて、遠いどこかで「パシュミナ製品」として売られるわけです。私たちも原料の提供だけではなく、加工して商品にしていくまでのプロセスをこの村で実現させたい。そのためには、地域で経済が回るような仕組みをデザインしていく必要があります。
また、オスを屠殺場に送らないと採算がとれないという、これまでの羊毛産業の常識も超えていきたいです。パシュミナの羊毛を流通させていく道筋ができれば、オスを売らずに済みます。だんだん村に若者たちが戻ってきて、女性たちはまた糸を紡ぎ、付加価値のある商品を作っていく。地域に根差した産業が復活し、村が元気になります。
このプロジェクトをすすめるには、一人ではできません。ボランティア、研修生を含め、様々な人たちとチームをつくり、そこからビジネスを起こしていきたいです。それを見て、村を離れた若い人たちや村人たちも参画してくれることを願っています。私はオープンな気持ちでチームのメンバーを募ろうとしています。
これはまだ私自身の夢ですけれど、小さくてもそういう、ローカルで経済を回していくシステムを作りたいです。そうしないと、私が死んでしまったらおしまいでしょう? システムがあれば続きます。

心の平和を体験できる場所
ここから5キロくらい山を登ったところで羊やヤギたちを放牧します。そこには放牧期間中に暮らす小屋があるんです。実は私がそこに住みたいぐらいすてきな環境です。草が多いから3ヶ月ぐらいは滞在できます。草がなくなると、その後また別のところにいきます。去年は1ヶ月ほど滞在しました。
というのは、家の畑もやらないといけないからです。家と山の往復です。人手が足りません。だから先ほどのチームができれば、山の住まいを拠点にしてもいいと私は考えています。
絵本の世界とは違って、ロマンチックなことばかりではありません。厳しさの連続です。たとえば、山に放牧に連れていき、ヤギたちと急峻な崖を登るときに、今、ここにユキヒョウが現れたらどうしようと、気が休まる暇がありません。
逆に、たまにレーに出かけて、いろいろな集会やミーティングに参加すると、心身ともに本当にくたびれてしまいます。エネルギーを吸い取られるような気がして、早く村に帰りたいと思ってしまいます。ここでヤギたちと一緒にいると、彼らの持っているエネルギーが本当に特別で、心から癒されるんです。
都市に暮らす人たちは、お金があっても精神的に病んでいたり、幸せじゃないという話を聞きます。そういう人たちにこそ、ぜひここに来て、滞在してほしいです。ここで羊やヤギたちと過ごすことで、心を癒し、本当の平和を体験してほしいです。















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