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キュンギャム村へ・その1~ラダック・ツアー2026年9月旅の日記より

14 時間前
読了時間: 14分

9月12日から8泊9日で、インド北部ラダック地方に”懐かしい未来”エコ・カルチャーツアーを、NPOジュレー・ラダックとナマケモノ倶楽部の共催で開催しました(旅の詳細はこちら)。


日本各地、アメリカ、オランダから、辻信一さんを含め11名が参加、ジュレー・ラダック代表、スカルマ・ギュルメットさん案内のもと、グローバル化の波に押されつつあるラダックの今を自分の目で見て、感じて、学び、遊び楽しむ貴重な時間を共にしました。


旅のメンバーたちの協力のもと、今回は訪問地ごとの日揮や旅の感想をランダムに連載していきます。


1日目:キュンギャム村へ

担当:saika


キュンギャム村。ラドルたちが暮らす夏の家から見える風景
キュンギャム村。ラドルたちが暮らす夏の家から見える風景
自室にみなを招き、話しをしてくれるラドル
自室にみなを招き、話しをしてくれるラドル

今朝、私たちはシャラ村からキュンギャム村に移動した。最初に私と数名が乗っていたスカルマさんの車が着いたので、私がラドルさんに最初に挨拶することになった。家から橋を渡って駆け寄ってきた彼女は、想像していたよりずっと静かな人だった。


「あなたが有名なラドルね」と言いながら手を差し出すと、彼女も両手で握手のために手を差し出し、同時に会釈した。少し恥ずかしそうだった。


「あなたはこの旅のハイライトよ」と付け足すと、彼女はまた恥ずかしそうに視線を逸らし、「こちらへどうぞ」と言い、橋を渡って家へと案内してくれた。家に着くと、インド人の女性が客室に案内してくれた。道中、この旅で一番息が上がっていることに気がついた。


ラドルの家は昨日泊めていただいた家より小さかった。入ると二つの部屋に分かれていて、片方の部屋は少しだけ扉が開いていた。中ではどうやらラドルのお母さんが私たちのために朝食を用意してくれているようだった。右側が客室で、厚みのある四角い座布団が壁に沿って敷かれていた。


私は誘導されるがまま、角の席に腰掛けた。冷たい風が首の後ろに感じられるので、振り向くと、山々とその谷に広がるキュンギャムの段々畑が見えた。ゾーや牛も何頭か見える。窓はいくつかガラスがなく、そこから冷気が直接首に当たった。夏でここまで寒いなら、冬はどうなんだろうと考えた。そこへインド人の女性が入ってきて、声をかけてくれた。私が一人でいるのを心配したのかもしれない。


「寒いですね」と私は微笑んだ。彼女も寒そうにジャンバーの袖口を引っ張って、手を隠した。

「寒いです。でも彼らにとっては、これが夏みたいなものなのよね。皆、暖かいって喜んでるもの」彼女も微笑んだ。彼女は元々ケララ出身でデリー在住であること、今回は夫と共に五日間だけラドルのところでボランティアをしていることを話してくれた。


そうこうしているうちに、ツアーのメンバーも少しずつ到着し、それぞれ席に着いた。ラドルはせっせと朝ごはんやチャイを運びながら、時々、毛布が積まれた机の上に腰かけて話をした。辻さんは何度かラドルと言葉を交わした後、私を紹介してくれた。私が修論でハチについて書いたと言うと、ラドルはラダック語でハチは「ブランブ」といい、よく壁の穴などに住んでいると教えてくれた。


ラダックに来てからハチを見ることはあるが、マルハナバチが多く、ミツバチは見ていない。きっと寒すぎるのだろう。私は、ラダックでよく聞く「春の谷」や「冬の谷」という言葉がどういうことなのか尋ねた。ラドルは、冬は夏に伸びた草が乾いて残っている冬の谷に移動するのだと説明してくれた。ずっと同じ場所にいると草がなくなるので、季節によって移動するのだそうだ。


朝食後、ラドルと一緒に、彼女の170頭の山羊と羊がひしめき合っている檻に向かった。彼女は私たち皆に、彼らを抱っこさせてくれた。それが終わると、彼女の姉とボランティアの男性が先頭に立って、ドアを開けた。羊と山羊が走り出た。それを見送ってから、私たちはラドルにインタビューをした。



羊と山羊とラドル



家の前の草原に私たちは座った。ラドルのお父さんがグリーンピースの枝をたくさん切って持ってきてくれて、ラドルが「どうぞ」と勧めてくれた。皆でグリンピースのさやを剥いては、中の豆をいただいた。豆は少し青臭くて甘かった。


「癖になるね」と参加者の一人が私に言った。私は頷いた。辻さんがちょうど良い場所に座り、カメラがわりのスマホを構えると、皆は静かになった。辻さんが質問を始めた。


ラドルはインタビュー中、繰り返し「愛が中心」と語った。彼女は山羊と羊を愛していて、彼らへの愛によって羊飼いを続ける決意をしたのだという。もともと南インドにあるバンガロール大学で商学を勉強していたが、コロナ禍で実家に帰り、羊と山羊と関わっているうちに、彼らとの関係性ができたそうだ。その後、大学を卒業してから、実家に戻って羊飼いになる決断をした。


彼女は自分のインタビューであるにも関わらず、立膝を抱いて、よく下を向いていた。それを見てか、今ボランティア中のインド人女性のスリニディが、「ひとことよろしいですか」と割って入った。三十代の彼女は、話し慣れているようだった。


「ラドルは本当にすばらしい子です」と切り出し、まだ滞在二日目にもかかわらず、多くのことをラドルから学んでいると言った。

「ラドルは羊と山羊の言葉が喋れるの」と彼女は笑った。ラドルも微笑んだ。

「山で山羊が言うことを聞かないと、ラドルは『私の言うことを聞かないなら、殺すわよ!』って脅したりもするの」


ラドルは恥ずかしそうに手で顔を覆って笑った。それが本心でないのは見てとれた。『なんだか母親みたいだな』と私は思った。その後、ラドルは、本当は自分はとても内向的だけど、山羊や羊たちの保護区を作るというプロジェクトのためには、人前に出て説明をする必要があると話してくれた。




愛が中心


ラドルもだんだん熱意を持って語り始めた。なぜ羊飼いになる決意をしたのか聞かれると、彼女は「私たちはあまりにも簡単に動物を手放してしまってるの」と、村の現状について語った。これほど長い間共に生きてきたにもかかわらず、世の中が変わったと言って、動物を次々に手放す人が増えている。これは他の村で聞いた話と同じだ。また、動物をすぐお金に換算して考える人も増えてるという。たとえば羊一頭は何千ルピー、というように。


「でも、おじいちゃんとおばあちゃんの時は違った。彼らは、動物をとても大事にしていた」とラドルは言う。

「おばあちゃんは山羊や羊を殺さないといけない時は、そのあと泣いていた。」

また、命をいただいた後は、お経を読むそうだ。このお経の本は、彼女の放牧地のテントに置いてあった。青い表紙で長く使われたのがわかるよれよれの本を、スカルマさんが私に渡してくれた。殺生をする自分を許してもらうよう祈るお経らしい。


「私は動物工場には完全に反対よ」とラドルは語尾を強めて、私の目を見ていった。彼女自身はビーガンだ。私は自分と彼女との差を感じた。私は、感じることはあっても肉は食べるし、牛乳も飲む。ただし、『伝統的な暮らし』をしている人が皆ビーガンかと言えば、必ずしもそうではない。私が滞在したエクアドルのアマゾン地方では、むしろ肉を食べない人は一人前の大人ではないと言うおじいちゃんもいた。それでも、一つ確かなのは、今のように、殺す側が痛みを感じずにすむ殺し方をしているのは、とても特殊だということだ。食べる側が手を少しも汚さず、きれいに処理された肉をプラスチックのパックから取り出すのは、とても特殊である。私はある時、「生肉を触るのは手が気持ち悪くて嫌」と発言した人にとても衝撃を受けた。そのことに、本当に気持ち悪さを覚えた。生肉のヌメヌメした感触も忘れてしまったら、私たちには何が残るのだろう。




先祖の木と申請書


インタビューの後、ラドルは先祖が植えた大きな木へと案内してくれた。大きくて、枝が入り組んでいた。「あの木以外は、私の両親が全部植えたのよ」と彼女は誇らしげに言った。皆が木に見とれている間、彼女は岩に腰掛け、隣に立っていた辻さんに真剣な様子で質問をした。今日はある助成金の申請の締め切りらしい。そのためには、羊飼いをすることが環境にとってどのように大事であるかを書かないといけないのだという。


「あなたの方がそういうのに詳しいでしょう?なんて書けばいいんでしょう?」と彼女は辻さんに聞いた。

「そりゃあ、羊飼いは環境にとってとても大切でしょう」と辻さんは答えた。彼女は少し安心した表情になった。


「たとえば、羊や山羊がフンを落としてくれるのは、土にとってとても重要だよね」と辻さんが付け足す。この辺りは元々土が薄いので、農業をするにもフンが不可欠だと教わった。だから、羊飼いがいなくなるということは、農業もしづらくなるということなのだ。半農・半遊牧の生活は、こうしてお互いを支えてきた。


「君はなんて書こうと思ってたの?」と辻さんが聞く。

「たとえば、ユキヒョウの数をコントロールしてるとか」とラドルは答える。

「なるほど!」辻さんは面白そうな顔をする。


「あとは、知恵かな?薬草の知恵とか。羊飼いをしなくなったら全て忘れてしまうわ」とラドル。私も色々考えてみたが、知識がなさすぎて、何も浮かばなかった。


一方で、こうした申請書そのものはとても馴染み深いものに思えた。大学の課題で、研究やプロジェクトの申請書は何度も書いたことがある。今こうして書きながら考えてみると、羊飼いが環境に及ぼす影響がすぐに浮かばなかったのは、それ自体の複雑さもあったのかもしれないと思う。長い間、環境保護というのは、人間を除外することを前提に行われていたからだ。


在来種・外来種という枠組みにも、その複雑さがある。私のイメージにすぎないかもしれないが、山羊は他の場所では、むしろ環境に悪い影響を及ぼす動物というイメージがある。草を根こそぎ食べてしまう生き物。きっとこのイメージにはかつてガラパゴス諸島で、増えすぎた山羊を大規模に「駆除」した出来事も影響していると思う。一方、ラダックでは、山羊は長い間、人とともにこの山々で生きてきた。同じ「山羊」でも、置かれた歴史や土地によって、その意味は全く違う。この違いを単純化せずに語ることが大切なのに、今の私たちの語彙(在来か外来か、守るか駆除するか)では、それを表しきれない。





変わらなくてもいいのなら


私たちはそれから車に乗り、保護区にしたいという放牧地、カムチャールに向かった。車を停めてから、いくつかの崖(ラドルにとっては近道)を上った。その道中、ラドルは私に、エコツーリズムをやりたいと話してくれた。今は他に村の若者四人と、保護区設立のプロジェクトを進めている最中らしい。そして、その難しさも話してくれた。


「今から本当に正直に言うね」ラドルは私の目を一瞬見て、また地面に視線を送った。私は何を言われるのだろうと、少し覚悟した。

「本当は、仲間は、私がこうやって人を連れてくるのも良く思わないの。人がたくさんカムチャールの草花を踏んで、荒らしてるって」

「うん、理解できるよ。エコツーリズムって難しいよね。変化しないように守るためのものなのに、結局変化を起こすこともよくあるからね」。


私は、自分たちのことも言われているように感じた。私たちは一体、他の観光客と違うと言えるのだろうか。羊飼いの生活を時には理想化して、「体験」して。


「そう、だから、それを批判する人もいる。でも私は人によると思うの。本当に私たちの暮らしを学びたくて、山羊と羊たちを知りたい人たちなら大丈夫だと思うの。むしろ知ってもらうことはとても大事だと思うの」とラドルは言う。私たちのことも気遣って、補足してくれたのかもしれないと感じた。


「そうだね」と私は返す。

「もし、観光客のために私たちが変わらなくてもいいのなら、いいと思う」とラドルは付け足す。「だって、本当に知りたい人は歩くでしょう?」


とはいえ、今回のグループもどうにか歩いて辿り着いたくらいだ。現地に住む彼女と観光客とのあいだに大きな差があることを、彼女は完全には理解していないのかもしれないと思った。カムチャールに辿り着く道は、車が通れるようにすでに整地されていた。辻さんがそれを見て嘆く。こうして「発展」は訪れるのか。この道路は軍隊のために整備されたのかもしれないと辻さんは説明した。だが、道があって便利なのは軍隊だけでなく、観光もそうではないだろうか。観光客を通すということは、少なからず彼らのために道を用意するということでもある。そのバランスはどこにあるのだろう。私たちはラドルのようには走れない。




カムチャールの昼食


やっと青いテントまで辿り着いた。テントには、ラドルのお父さんがすでに昼食を用意してくれていた。インタビュー中に、ラドルのお父さんと、私たちのドライバーをしてくれている二人、ドルジェとカリックが、上まで調理器具と具材を運んでくれていたのだ。羊と山羊はまだ来ない。草を食べながら、ゆっくり上がってくるのだ。


標高4800mのこの場所は、息がすぐに上がる。ラドルは、冬の間の数ヶ月、両親とこのテントに泊まったと話してくれた。夜はユキヒョウやオオカミに羊が襲われないよう、深くは眠らないようにするらしい。石を投げて音を立てると逃げると教えてくれた。テントの中は絨毯が敷かれていて、とても暖かい。他の皆も辿り着き、テントの中は賑やかになった。昼食をいただいた。辻さんを含め何人かは外で食べていた。ラドルのお姉さんと一緒に羊と山羊を連れて出発したインド人の男性、キショールも辿り着き、昼食を食べにテントに入ってきた。


「とても追いつけないので、途中まで車で送ってもらったよ」。息を切らしながら、彼はつばの広い帽子をとった。

「きついですか?」と私は分かりきったことを聞く。

「とてもきついよ。僕はまだ高山で活動をしたりするから歩けるけど、妻は下に残ってる」とキショールは言う。羊飼いになってみたいなんて、簡単には言えないなと思った。彼は普段はデリーで企業弁護士をしているらしい。




英語しかない世界


昼食を食べ終わって外に出ると、風は確かに冷たいが、日差しは強かった。何人かは平地になっている小川の方へ歩いて行き、足をつけたりしていた。やがて羊と山羊が辿り着いた。何人かが写真を撮りに近づく。羊と山羊は波のように人を避けながら移動する。外は気持ちが良かった。小川の方に行って水を触ると、凍るように冷たかった。


しばらくして、私はテントの近くに戻った。スカルマさんが石に腰かけているので、その隣に座る。ドルジェとキショールが近くに立っていて、三人はヒンディー語で何やら色々と会話している。


「失礼、ヒンディー語で話してしまってた。英語で話すね」とキショールが言うので、「おかまいなく、英語だと今度は話せない人がいるから。私はここで聞いてるだけでいいの」と私は返した。申し訳なさそうに、キショールは英語で話し始めた。彼が高い教育を受けていることが、英語の流暢さや言葉選びに表れる。だが、自然と会話はまたヒンディー語に戻る。『ヒンディー語ができたら、ラダック語ができたら』と私は願った。


この旅では、英語を話し慣れているから、と何かと通訳をすることも多かったが、その度になんとも言えない気持ちになる。なぜ私たちには、英語しか共通語がないのだろう。インドに英語がこれほど浸透している歴史を思うと、特にやるせない。英語ができるなんていうのは、誇るべきことではない。むしろ、それだけ単一化された世の中なのだと嘆くべきだ。


もし、私たちがペルシャ語なんかで会話していたら、どれほど面白い世界だろう。ラダック語ができない自分がもどかしかった。シルクロードの時代、人々は何語で会話していたんだろう。何ヶ国語を話していたんだろう。まだ英語が狭い島国の一方言だったころ、世界はどんな景色だったんだろう。羊たちと山のながめを満喫して、私たちはまたゆっくりと、車のある場所まで歩いて行った。



橋と『発展』


帰りに、ラドルの家に寄った。皆が車へと帰って行った後、辻さんとラドルが、家の前の橋の側で会話しているのが見えた。


「どうしたの?」と、私は無遠慮に割って入った。二人は、木の上に鉄板を敷いてできた今の橋の横に建っている、コンクリートの大きな橋脚について話していた。私はそれに、そのとき初めて気がついた。


「もう、ここまで建ってしまったの。村中で、こうすれば車を家の前まで持ってこられるって勧めてる人がいるの。でも私たちはいらないわ。ここまで建ってしまったらどうしたらいいの?」ラドルは辻さんの方をむいて、悲痛な様子で尋ねた。


「そうだね。何かはできるはずだよ」と辻さんも悔しそうに言う。

ラドルに「また明日」と言って別れ、二人で車に向かって歩き始めた時、辻さんが言った。

「ひどいね。あんな橋、高速道路ではあるまいし。」私はもう一度橋の方を振り返った。


確かにとても不自然だった。必要のない橋だった。それに気がつけなかった自分に驚いた。橋がとても薄気味悪く思えた。大きなダムや道路のような目立った開発ではない。けれど、とても大きな暴力性を持って、そこに不完全に建っているように思えた。

(続く)


左手奥にみえるのが建設中のコンクリート製の橋梁
左手奥にみえるのが建設中のコンクリート製の橋梁

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