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執筆者の写真Aya Wada

エクアドル:海岸地方への旅 前編

 普段私が住んでいるのはエクアドルアンデスの麓。山のど真ん中です。海からは車で約8時間と、海から遠く離れたところで生活をしています。直線距離ではそんなにないのですが、直行で行けるバスもないし、いくつもの山を越えて、クネクネガタガタの道を延々と行かないといけないので、簡単に行ける場所ではないのです。


友人が教えてくれた秘密のビーチ、カブヤル。人が全然いない!


 頻繁に行ける場所ではないけれど、私がエクアドルに初めてきた1999年に訪れたマンタ県にあるバイーア・デ・カラケスという海辺の街は私にとって特別な場所です。バイーア・デ・カラケス沖は、南極から流れてくるフンボルト寒流とガラパゴス諸島からの流れてくるエル・ニーニョ暖流がぶつかるためプランクトンが豊富なところで、鯨が集まるところでもあります。またそのおかげで大陸でも、寒流の冷たい乾いた空気と暖流の温かい湿った空気がぶつかるため、熱帯乾燥林と熱帯雨林という二つの生態系を生んでいます。また海岸沿いにはマングローブ林が広がり、これまた独特の生態系を育んでいます。ちなみに熱帯雨林やマングローブ林はともかく、熱帯乾燥林とはなんぞや?と思いませんか?これは後述しますが、乾燥した大地を生きる植物たちの生命力をものすごく感じる場所です。


高台から見渡したバイーア・デ・カラケス


 しかし1998年のエル・ニーニョ現象による大雨、大地震、エビ産業の伝染病による被害、この三大被害により、バイーア・デ・カラケスの町は大きな被害を受けました。エビ産業や開発により大量のマングローブの伐採により生態系が破壊されたことも大雨やエビの伝染病の被害をさらに大きくしました。住民はこの街を立て直すために、従来と同じではなく、環境に配慮した町づくりを選びました。その決意表明がバイーア・デ・カラケスの「エコシティー」宣言だったのです。私は幸運にもその宣言の場にいさせてもらうことができました。


2003年9月にナマケモノ倶楽部スローツアーで訪れたときの写真。Bahía Ecociudadとは、エコシティー・バイーアの意。マングローブとそこに棲むグンカンドリと街の建物が一緒に描かれている。


 当時、バイーア・デ・カラケスはたくさんのことに取り組み始めていました。町中のお店、特に市場では、買い物にはビニール袋ではなく、バスケットを使うことを推進していました。エコタクシーと呼ばれる乗り物は、自動車ではなく、足で漕ぐ三輪車。町中の廃紙を集めて女性たちが作るリサイクルペーパー(エコパペル)プロジェクト。化学飼料を使わない、またマングローブを伐採しない有機エビの養殖。この地方特有の熱帯雨林や熱帯乾燥林やマングローブ林、有機農園の訪問、マングローブの植林などを含むエコツーリズム。これらのプロジェクトを推し進めていたのが、ダリオさんとニコラさんのカップルでした。そして彼らが取り組んでいたのが、有機農園と環境学校の運営でした。ダリオさんに初めて会った時に彼はこう言っていました。「この国の二大問題は、農業と教育だ。こんなに豊かな大地なのに、その森を伐採し、考えられないほどの量の農薬を使っている。そしてそれをよしとするメンタリティーが問題だ。だから自分は農業と教育をなんとかしたいと思って、有機農園と環境学校を作ったんだ。」


ツアー時に訪れたエコパペルの工房。地域の草花の押し花もたくさん使っていた。


 またバイーアの丘には、セロ・セコという保護林もありました。前述したように、この辺りには熱帯乾燥林という森が広がっています。乾季はとても乾燥していて、葉もほとんどなく、遠目には、ただのハゲ山があるという感じですが、雨季になるとその乾季を生き延びた森が、一斉に芽吹き、緑の山になります。そこにある木々も独特で、セイボという木などは幹が緑色で、乾季の間、葉がなくとも幹で光合成を行うのです。幹には棘が生えていて、蔦などのつるが幹を覆ってしまわないようになっています。生命の生き延びる能力には感嘆します。さらにセイボの木には綿がなり、枕や布団の中身に使えたり、あるいは糊の代わりになる木の実があったり、整髪料の代わりに使えたり、と私たちが使えるものがたくさん生えていて、それ等を商品化するバイオ・コマース(森の資源を森を破壊しないように使って経済活動をする)動きが始まろうとしていました。森を燃やして畑にして慣行農業を行う代わりに、こうして収入を得ることで、森を守ることにつなげていました。


セイボの木から取れる綿








木の幹で光合成をするため、幹も緑色。


セロ・セコの説明をするマルセロ・ルーケさん。訪れた人々に熱帯乾燥林の多様性、重要性を伝える。


 私たちナマケモノ倶楽部はツアーを組んで、このバイーアを何度も訪れ、海で遊び、エコタクシーに乗り、マングローブの植林をし、エコパペルの工房を訪れ、有機農園で美味しいごはんを堪能しました。


夕方のバイーアをエコタクシーで大名行列のように練り渡るナマケモノツアーご一行様。


 その最初に訪れた時から、もうすぐ25年経とうとしています。以来ツアーを組ませていただいて何度も訪れたバイーア・デ・カラケスでしたが、ここ15年ほどはツアーを組めず、滅多に訪れることはなくなっていました。その間、ちょうど日本で熊本大地震があった直後にここでも大きな地震があったのです。エコパペルが入っていた建物は崩壊。有機えび農園を経営していた人もバイーアを去り、エコツアーをやっていた会社は観光客が激減し、立ち行かなくなってしまいました。環境学校も運営を断念し、閉校。何より数年前、セロ・セコ・プロジェクトを始めたマルセロ・ルーケさんが若くして亡くなり、私にはバイーアを訪れる理由がなくなってしまいました。


 が、先々月、実に久しぶりに訪れることができました。そして唖然…。バイーア・デ・カラケスのバイーアは湾という意味です。その一方から逆側のサン・ヴィセンテに行くためには湾沿いに60kmもの道のりを行かねばならず、湾の端と端を最も効率的に行くのに、大きな船に頼っていました。約20〜30分で対岸に着くので、人々はそれを利用していました。しかしそこに大きな橋がかかったのです。実に10年ぶりくらいにバイーアに行った私は、その橋を目の当たりにして本当にびっくりしました。おまけに橋のすぐ横には大きなショッピングモールとシネマコンプレックスができていました。橋を渡るたくさんの車。人力のエコタクシーもなくなり、ベトナムのトゥクトゥクのようなバイクに荷台がついているようなものに。これがあのバイーア?バイーア・エコシティーはどこへ行ってしまったんだろう…。

 

バイーアとサン・ヴィセンテをつなぐ大橋。


 でもそこではたと気づきました。Happily ever afterな物語なんてない。予定調和的に勝手に物事が進んでいくわけじゃない。一度始めても、不断の努力で続けていかなければ物事はなし得ない。傍観者の私に批判する権利はない。私自身、山岳地方のコタカチというところに住んでいます。コタカチは2001年に環境保全郡宣言をしていますが、実際に住んでみると、ここのどこが…?と言いたくなるくらい、環境に気を遣っている気配がない。環境保全郡に住んでいますなんてとても言えない。でも、だったら?自分で、例え一人でも環境保全郡になるべく取り組むべきじゃないか?一つでも自分のできることをやるべきじゃないか。それが答えを生きるということ。誰かが何かやってくれるわけではない。誰が何かやってくれたとしても、それでハッピーエンドではない。前とは変わってしまったバイーアから帰る途中、そんなことをつらつら考えていました。


 さて、続きは後編で。



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