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執筆者の写真信一 辻

マーク・ボイルの言葉(2)

以前、ぼくが書いたマークの二つの著作についての文章(いわゆる書評)を読んでもらいたい。


まずは『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(2011)





次に、『無銭経済宣言』(2017)についてぼくが書いた文章である。


世界に自分を、自分に世界を取り戻す方法


 マーク・ボイルの新刊『無銭経済宣言』を読みながら、ニヤニヤしたり、大笑いしたりしていたぼくが、ふと目をそらすと、同じテーブルの上に置いてあった新聞の一面記事が目に飛び込んできた。「GDP 内需が後押し―—年率4% 個人消費堅調」(注1)

 それは八月十五日、第二次大戦が終結してからちょうど七十二年の日。これ、その日の新聞の一面ですよ。やれやれ。

 この同じ新聞の中にある社説をぼくは切り抜いておいた。それによると、日中戦争が始まったばかりの一九三七年、つまり八十年前の八月、作家の永井荷風は日記にこう書いたという。

「この頃東京住民の生活を見るに、彼らは相応に満足と喜悦とを覚ゆるものの如ごとく、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、むしろこれを喜べるが如き状況なり」(注2)

 さらに社説はこう教えてくれる。「軍需産業の隆盛で日本はこの年、23%という経済成長率を記録。世は好景気にわいた」。え、23%!戦争がお金を生む。そう、そして、こちらも忘れてはいけない———お金が戦争を生む。

 さて、『無銭経済宣言』に目を戻すと、そこには確かに「お金が戦争を生む」ことが書かれている。しかも、その「戦争」は単に国家間戦争ばかりでなく、今この瞬間に世界中で行われている、個人レベルの争い、そして社会レベルの争い、そして人間が自然界に対して仕掛けている戦争まであって、どれもこれもお金が絡んでいる。

 それだけのことなら、類書は他にいくらでもあるだろう。でも、この本はひと味もふた味も違うのだ。

 まず、著者であるマーク・ボイルという男を紹介したい。実は、ぼくは以前、彼の前著『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(2011年、紀伊国屋書店)を読んで感銘を受けた。それはボイルが敢行した一年にわたるカネなしマニレス生活と、彼の言う「贈与経済ギフトエコノミー」の実験の記録だ。あの東日本大震災と同じ年の末に、海の向うから届いた贈り物のように、それはぼくの心に沁みた。

 その本のクライマックスは、彼が友人たちと一年間のカネなし生活の完了を祝おうと企画した、無銭パーティだった。それが、当事者たちの予想をはるかに超えて人気を呼び、メディアにも注目され、結局大がかりな“フリー・エコノミー・フェスティバル”となった。

 同じ頃、彼が書き溜めていた文章をまとめた本の出版が決まり、その契約金の支払いが近づいていた。“カネなしマイク”にそれなりの大金が転がり込むという“危機”だった。彼は悩んだ末、四つの案をつくり、ブログを通じて問いかけた。五百以上の反応があり、その95%によって支持されたのは次の案だった。

「現実のフリー・エコノミー・コミュニティーを築く土地を購入するため、信託基金を設立」。ただし、マークは土地を所有せず、コミュニティーの合議制で運営するというものだった。(注3)

 もうひとつ、その本の最後には、一年間のカネなし生活が終わろうというのに、一向に気が晴れないマークが、延長を決めたことが書かれている。結局、その後二年、合計三年間、マークの冒険は続くことになった。

 というわけで、すっかり彼のファンになったぼくは、今、こうして二冊目となる『無銭経済宣言』を手にしたわけだ。

 一読して、ぼくには確信できた。マークのカネなし生活の三年間は、彼を単に器用にブリコラージュをこなす生活者にしただけではなく、彼を一流の人類学的フィールドワーカーにし、偉大なる思索家にしたのだということが。

 この本は二つの部分からできている。パート1は、人間とカネの関係を再考察する理論編。パート2は、金銭への依存をなくす、あるいは減らすための方法を幅広く紹介する実践編だ。どちらも、前書に比べて、さらに充実し、深まっている。それは、個人レベルの無銭生活から社会や生態系のレベルにおける無銭経済へという深化だけでなく、マークという人間自身の深化をも表現している。

 「カネは諸悪の根源」という言い方がよくされる。しかし、マークによると、そうではなく、「まちがった自己認識こそが、現在の多くの個人的・破壊的・生態学的危機の根源だ」(40頁)

 これだけ深刻な危機が世界を覆っているというのに、なお、多くの人々はなお今までのように振舞うことをやめられないのか。その根本原因は<自己>に関する「錯覚」にある、とマークは考える。お金とはこの錯覚を温存し、強化する道具立てなのだ、と。(74頁)

 地球上いたるところで上がっている人間たちの、そして他の生命たちの、さらに自分自身の悲痛な叫びが聞こえないのだろうか。いや、そんなはずはない。ただ、カネという分断の道具をつかまされたために、「孤立分離の幻想」(ティク・ナット・ハン)に囚われているだけなのだ。

 実は、誰もが、自分の内に、原野=野生(ウィルダネス)をもっている、とマークは確信している。それは、ぼくたち一人ひとりの中にある本質的要素なのであり、「これと指さすことはできなくても、その存在を感じとることができる」。しかし、「この体感を徹底的にじゃまだてする」のがカネなのだ。(44頁)

 カネに邪魔されて、世界から、そして自分自身からも“分断”されているぼくたちは、自分が今生きているはずの「今・ここ」からも隔てられている。マークはダライ・ラマのこんな言葉を引用している。

「将来の心配ばかりして現在を楽しもうとしない。そういう人は結局、現在も将来も生きてなどいないのだ。あたかも死ぬことなどないかのように生き、本当の意味で生きることなく死んでいく」(45頁)

 マーク・ボイルの無銭生活とは、内なる野生と「ワンネス(自分と全世界との一体性)」を取り戻すための道であり、人間がもう一度人間らしく生き生きと、「今・ここ」を生きることのできる無銭経済社会への小さな、しかし偉大な一歩だ。本書は現代の『人間宣言』である。


辻信一


(注1)朝日新聞、2017年8月15日朝刊

(注2)同上「社説」

(注3)『ぼくはお金を使わずに生きることにした』252頁

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