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執筆者の写真ナマケモノ事務局

序文:よきことはカタツムリのように



本書のタイトル「よきことはカタツムリのように」は、マハトマ・ガンディーの言葉から来ている。彼はこう言った。

Good travels at a snail's pace.

(よきことはカタツムリのように、ゆっくり歩む)

でも、その肝心の「よきこと」は一体どこにあるのか、とあなたは言うかもしれない。そう、確かに、よきことが見えづらい世の中なのだろう。

でもゲーテはこう言ったそうだ。「見よ、よきものは身近にある」と。身近でゆっくりと、よきこと、よきものは進行している。それがぼくたちにとって見えない、見えにくいとすれば、それはどうしてなのだろう、と問うてみるべきなのだ。

友人で、環境運動家としてのぼくにとっての師でもあるカナダの科学者デヴィッド・スズキの数多くの著書の中に「グッド・ニュース」という変わったタイトルの本がある。原題のGood News for a Changeは、「変革のためのよい報せ」と、「たまにはよいニュース」と言うふたつの意味をかけた言葉遊び―—一種の駄洒落なのだった。そこにも表現されているように、ぼくたちの社会は悪いニュースに満ちあふれている。ニュース・バリュ―という言葉があるように、価値があるのは、戦争、凶悪犯罪、たくさんの死傷者が出るテロ(特に先進国での)、大事故、大災害、権力の乱用…。もちろんよいニュースもあるにはあるが、悪いニュースに数の点でも、バリューの点でも、到底かなわない。

ぼくのように環境や平和というテーマに関心をもつ人なら誰でも知っているように、メディアからのニュースの中で、よいニュースは十に一つも見当たらない。だから、スズキのように、ちょっと皮肉をこめて「たまにはよいニュースを」と言いたくもなるのだ。

ニュース・バリューという価値の核にあるのは「新しさ」だ。ニュース(news)という言葉自体がそれを示している。こう言ってもいい。そこでは「新しさ」こそが「よきこと」である、と。残酷な事件を伝える悪いニュースも、それが最新情報である限り、よきことだ。

平和や民主主義やエコロジーを求める者たちでさえ、悪いニュースばかりに慣れっこになって、いつの間にか、それに依存し始める。そしてしまいには、どちらがより悲観的かを競い合うような有様だ。

新しさの裏面は「早さ」と「速さ」だ。十分早いタイミングで、迅速な報道をすることで、新しさは保障される。

こうして、伝える側も受けとる側もますます新しさという価値に傾倒していけば、「古さ」と「遅さ」は看過され、無視され、その価値は忘れられていく。

もし、「よきことはゆっくりと」というガンディーの言葉が正しければ、ぼくたちにはもう「よきこと」が見えなくなっているのではないか。ぼくたちが危機の時代を生きているというのは、まさにこのことなのではないか? 世界の危機は、ぼくたち自身の危機でもあるのだ。

この危機から脱け出すためには、何はともあれ、ゆっくりと進行するよきことに目をとめ、しっかりと向き合うことだろう。そしてそのためには、まず、ぼく自身、あなた自身が、立ち止まり、スローダウンしなければならない。

あの東日本大震災以降、日本で、いや世界中で危機は深まっていると、ぼくは感じてきた。そんな中、世界の片隅で静かに、ゆっくりと生起している「よきこと」や「よきもの」たちに、ぼくは自分なりのやり方でしっかりと目を向けたいと思った。  本書は、そんなぼくのスローな旅の記録である。


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