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執筆者の写真ナマケモノ事務局

オンライン座談会「コロナの向こうを 照らす明かり」(6/1前半)



6月1日 オンライン座談会 「コロナの向こうを 照らす明かり」

出席:枝廣淳子、竹村真一、辻信一、藤田和芳、マエキタミヤコ、

記録・コーディネータ:馬場直子

文字おこし:阿部泰子(アトリエ・ミゥ

辻信一 今日はそれぞれ、最近感じていること、考えていることを報告しあえたらいいな、と思っています。


まず、今回の言い出しっぺでもあるぼくが、少しだけ話します。「100万人のキャンドルナイト」が2003年から10年経って、一区切りになった後も、自分なりに夏至と冬至のキャンドルナイトはずっとやってきたんですけど、今年はコロナ危機の中で、4月くらいから、今もう一回キャンドルナイトをやりたいな、という感じがしたんです。


キャンドルナイトの面白さは、とても気軽に、誰でも参加できる。非常にバリアが低いんです。これが今までのムーブメントと違うところじゃないかと感じていて。一方、コロナ危機で、世界中がほぼ同じ状況でつながっている。


たとえば、ぼくが行ったこともない、会ったこともない、言語もわからないような国の状況を想像してみると、ぼくらと大体同じ語彙で同じようなことを話したり、考えていて、同じような意識で、似たような行動をしている。そういうことって、実はとても珍しい。


グローバリゼーションを通して、市場経済の言語が世界中に広まり、ITとかAIとかハイテクも世界中に広まり、多くの人々の意識を変えてきた。しかしその一方で、世界はメチャクチャに、かつてないくらいに分断化され、断片化されてもいるわけです。グローバリゼーションが進めば進むほど、実は分断は深くなっていって、格差もグロテスクに巨大化していく。


それに対して、コロナもある意味でのグローバル化だけど、このウイルスは世界中をあっという間にフラットにした。同じような言語や意識や行動様式を世界中に共有させてしまった。こういうのは今まで経験しなかったような経験ですよね。


そんな時に、キャンドルを灯すという、非常に単純で小さな行為だけど、それをポロッと誰かが言い出した時に、世界のどこにいる人も、「うんうん。わかる、その気持ち」という反応が起こりうる。何一つ、余計なことを言わなくても。


もちろん、コロナをめぐってみんなが抱えている状況はさまざまです。非常に大きな困難を抱えている人もいるし、ぼくみたいにとても平穏で、むしろ退屈で困っているくらいの人もいる。時間の感覚も大きく変わったんじゃないかな。ほんの数ヶ月前のことがすごく昔のことに思えるけど、毎日がすごく早くて、取り付く島がない、という感じでもある。


それでも、いろんな状況の中にいる人たちが、具体的な日々の経験が大きく異なっていても、このパンデミックが、人類全体が一つの船に乗ってるんだ、という意識で世界をつないでいることは確かで、人々は、物理的な距離としてはとても遠いはずなのに、意識的には非常に近い所にもいる。不思議な距離感の転倒と言うか、とても遠いけどとても近い。とても近いけどとても遠い。


以上、キャンドルナイトの出番かな、と思ったというぼくの話はそこまでにして、バトンを渡していきましょう。枝廣さん、どう? バトン受け取ってくれますか。


枝廣淳子 はい。バトンを受け取りました。今日、メールニュースでキャンドルナイトをもう1回呼びかけますというのを出しました。メールニュースを準備しながら、17年前に呼びかけたこととか、色あせるどころか、もっと大事になってきているなと思っています。逆に言うと、17年間あまり変えることができずにいたのかなとも思いつつ。

コロナの状況下で、今世の中がガタガタしている。「これまで通り」が続けられないということの中で、ある意味、「変え時」だと思っていて。コロナがなくても変えなきゃいけなかったこと。だけどこれまでは、平時には物事は変えにくいので、変えにくかったところが、コロナということで、物事が変えやすくなっているところもある。


もちろん、辻さんがおっしゃったように、人によって非常に大変な状況に置かれています。たとえば3.11とか阪神淡路とかは日本の一部が被災地で、あとはそれを支える側に回ったけど、今は全国が被災地です。その中で自分に何ができるだろうとか、みんな気がついたり、ちょっとずついろんなことをやっている。そういう新しい気づきとかあり方が日本中に起こっている。


たとえば、食べ物を生産者と消費者が直接つながるという動きです。今、ネットがあるからできるようになっていることもある。これまで普段はスーパーに行って当たり前に買っていたのに、生産者の人が苦労して作っているのに、流通が止まって手に入らないということに気がつく消費者が増えている。それが新しいやり方を生み出す。それはコロナが収束しても続くんだろうなと思っています。


私は、今回、コロナの状況下で、コロナの先につながる、そこで残しておきたい、もしくは持続可能で幸せな社会につながる糸口になるような動きを、できるだけ拾って発信するということをやってきています。


今、熱海に住んでいるんですけど、地元のメンバーと一緒に、キャンドルナイトを呼びかけようと話しています。熱海は熱海で時々やっていたみたいだけど、今回は一緒にやろうということになっていて。福祉作業所と組んで、そこに人たちにキャンドルの入れもの、ガラス瓶とかを集めてもらっていて、そこにロウソクを入れて、熱海は海岸があるので、ロウソクで絵を描こうと、仲間と一緒に企画しています。福祉作業所の人たちも来てくれるはずです。「三密」は避けないといけないですけど、安全確保できる範囲で、いろんな人たちがつながれたらいいなと。


私自身、「地元」が見つかったというのも、コロナのおかげだと思っています。そういう人たちは、ほかにも多いんじゃないかな。この危機が、コミュニティや地元ということについての、自分が何に支えられているのかとか、これまでとは違うあり方があり得るのではないか、という問いかけの、きっかけになればいいと思います。


キャンドルナイトでは、そういうことをしみじみ感じたり、考えたり、できるといいな、と。では、竹村さん、お願いします。


竹村真一 基本的には、今度の危機で、これまでの3つのソーシャル・ディスタンスが問われたと考えています。都市に集中しているという、過密性という距離感だけではなくて、遠いエネルギーとか遠い食料に依存してきたという感覚ですね。例えば、遠い福島の電力をずっと使ってきた。キャンドルナイトの原点の一つも、原発問題にあるわけですし、今回、改めてそこがクローズアップされたということです。

もう一つ、人間と生態系との距離感。例えば、鳥と共生していたウイルスがなぜこれだけ感染症を引き起こすようになってきたかと言うと、われわれの宅地や工業施設などの開発で、鳥の住処である湿地が50%減ってきている。


東京東部の江東区とか墨田区とかには湿地、蘆原が広がっていた。戦後、人口60万人だったのが、今では300万人ぐらいですよね。人口が5倍になっている。そこに集積している資産も、住宅から何から膨大ですから。カスリーン台風(1947年)の時の被害総額は60億円ぐらいだったのが、今なら、5000倍くらい、つまり30兆、40兆というレベルが想定されます。


本来、野生動物の生息地みたいな所を人間の世界にしてきたために、われわれ自身も災害に対するリスクを高めている。またそれが同時に新型感染症みたいな形で表れてきたということです。人間と地球環境との距離感が根本的に問われた。これが今回のコロナの大きなメッセージだと思っています。ソーシャル・ディスタンスといっても、決して人と人との距離感だけの話ではない、いろんな意味での距離感が問われているんだ、ということが、最初に言いたいことです。


もう1つ、辻さんの話を聞いていて面白いなと思ったのが、みんな同じようにこの不都合を世界中の人が共有していると。まったくその通りですけど。


一方、ロボットとかAIとか、新しいパートナーがわれわれの社会に参加しつつありますよね。キャンドルナイトを始めたころは、まだあまり存在感がなかったんだけど。これから5年後、10年後、それがますます入ってくる。この地球上にほかの動物・植物と人間だけだったのに。


このロボットとかAIというのは、考えてみると、感染という不都合を持たないわけです。コロナで、われわれはみんな感染のリスクにさらされているんだけど、われわれがこれから新たなパートナーだと考えているAIとかロボットというのは、そういう不都合を持たない。逆に言うと、感染症といった不都合を共有できるのが人間とか生命の条件なわけですけど、そういう不都合を共有しないロボットとかAIに、人間の社会のあり方や、未来を、託せるだろうか。託せるわけはないです。


今、AIに仕事を奪われるとか、逆に、ロボットが仕事を代替してくれることで人間は解放されるとか、と議論されている。そこでは、主に「人間にしかできないことって何?」とか、「AIに負けない子どもに育てよう」とか、と問われているんだけど、コロナは逆に、不都合を共有し、共感できる存在同士として私たちがあるんだということを、クローズアップしてくれたという感じがします。


また逆に、そういう不都合を共有できるコミュニティを超えたところにいる存在に、意志決定を任せられないじゃないか、という点がクローズアップされていく。


そういう意味でも、これからどういう形で私たちがロボットとかAIと距離感を持っていくかということについて考える上での、これまでとちょっと違う補助線を、今回のコロナは引いてくれたなという感じを持っています。それが今日の僕の最初の発言です。

次はマエキタさんかな。


マエキタミヤコ 周りにずっと一緒にいた人が急に、数日でいなくなってしまうということを体験すると、浦島太郎になるような、時間の流れ方が変わるような感じがします。

コロナなのか、たまたま重なったのか、よくわからないけれど、最近、叔父が亡くなりました。深海の乗組員だったんです。母が亡くなった時にも増して大きなインパクトなんです。1カ月くらい前だけれども、入院する時にすごく元気で、「戻ってくるよ」と。これだけは伝えなくちゃと思ったのか、すごく急いでしゃべって、「ミイちゃん、自然はいいよね。生き物はいいよね。生き物にとって、自然にとって、コロナは良かった」と。そう言いながら入院して、そのまま1カ月後には帰らない人になってしまった。


その言葉がすごく気になっていて。ほんとにそうだなと日々思うし、不思議だなとも思うんです。コロナがこのタイミングで来て、人間にいろんなことを教えてくれているような気がして。


最初に気になっているのは、「ウイルスは生き物じゃない」と、一生懸命テレビが言っているんです。生き物ということになってない、と。でも、どう考えても生き物だし。意志を持っているとは言わないけれど、このタイミングでこの広がり方で来ているというのは、神とは言いたくないけれど、とても不思議な誰かの意志を感じる。


あと、そのタイミングでヘイトも出てくるし、寛容性が大事だよねと改めて思う。逆に、ウイルスにとっては国境なんて関係ないし、人間の間の境も関係もない。だからこそ、いろんな国があるのねということが、より目に付く。「この国ではこうしました」「うちの国ではこうしています」というのが日々見えるので、1つのウイルスというものに貫かれて、人間のいろいろなことがあからさまになるし、あからさまになるのと逆に、隠そうとする人もいるし。目から鱗というか、お目々がパッチリというか、すごく不思議な体験をしている気がしてならないです。


寛容性のことで言うと、チベットのことが気になっていて。若いころ長くいたものだから。ダライ・ラマが84歳だと。コロナで歳とった人が急にいなくることがあるからと、みんなとても焦っていて。伊勢崎賢治さんが面白いことを言うには、「人権というのは内政干渉だと言われてもひるんじゃいけない。人権は内政干渉を上回るんだから」


国を越えて人権を、お互い口を出して守らせようとする意志は、今までは良くないと言われていたけど、今は逆に進めるべきことだという流れになってきているらしくて、いろいろ規準が変わっていくんだなと思いました。大きく言えば寛容性のことかもしれないし。

生活で言えば、人恋しさって何だろうと。人に会えないと人恋しくなる。しゃべる機会が少なくなると。これは慣れなのか。いいものなのか、改めるものなのか、どっちだろうと思います。キャンドルナイトは、人恋しさに対しても温かいから、欠けている分を埋めてくれるようなものだなと思っています。


藤田和芳 久しぶりにみんなの話を聞くと、懐かしいし、心が洗われる気がします。2003年に始まったキャンドルナイトの時は、ぼくなりの思いは、人類はこのままでいいんだろうか、自分たちは、これからどういう生き方をしていったらいいんだろうか、それぞれの場所でそれぞれの人が考えるきっかけになってくれればいいなと。


原発の問題があったり、イラク戦争への自衛隊派兵とか、環境問題とか、いろいろあったけど、それを総じて、自分たちがこれから、次の時代、子どもや孫の時代にどういう地球やどういう社会を残すかということを、短い時間でもキャンドルを灯しながらそれぞれ考えよう

と。


そういうことに思いを同じくする人たちが、人と人がつながっていくことが1つの大きな力になると考えて、キャンドルナイトをやりましたし。それは今でも、ぼくの心の中では続いていることです。


マエキタさんの話で、亡くなった方が言い残したこと、ぼくも同じような思いがするんです。コロナの問題が起こって、「世界中の空がきれいになった」とか、「海や川がきれいになった」といろんな所で言われていますよね。コロナのおかげで人間の経済活動がストップしたり、行動制限が起こったりした瞬間に地球はきれいになっていった。


実は、われわれはいつも人間を中心に考えているけれど、地球という立場から考えると、環境を破壊したり放射能をいっぱい出したりして地球を困らせていたのは、実は人間だったんです。ですから地球にとっては、人間こそがコロナ・ウィルスだったんです。


その人間の周りに飛び出してきて、その活動をストップさせて、空を美しくしたり、海をきれいにしたコロナは、実は、地球にとってはワクチンだったんです。もう一度地球をよみがえらせなければいけないというこの非常に大事な局面でそういうことが起こっているような気がする。


ぼくは、農業問題からいろいろなことをいつも考えてきたんですけど、私たちが、「農薬や化学肥料を使わないで農業をしよう」と言った時には、「微生物とも共存しよう」ということをスローガン的に言っていた。畑や田んぼの中にいる微生物や小動物を農薬で全部殺してしまって、畑や田んぼにある果実は人間だけが独占する。他の生命体には何ひとつ渡さないで、自分たちだけが取るということでは、未来に、子どもたちや孫の時代に、しっぺ返しが必ず来るぞという思いから、「微生物とも共存できるよな、ミミズとも共存できるような農業をしようよ」ということを言ったんです。


それは、コロナのことでも、同じようなことが言えているんです。虫にも微生物にも果実を与えないというやり方は、結局、効率や生産性だけを求める社会をつくり、競争に勝ち抜いた者だけが幸せになる競争社会をつくり上げた。モノやお金がたくさんあえば、それが幸せなんだというアメリカンドリームみたいなものを、みんなで一斉に追っていくというたり方と、畑や田んぼに農薬をまき続けて、他の生物や微生物や小動物には何ひとつ与えないという思想に、非常に近いわけです。


そういうことではない社会をつくらないと駄目だというのが、農業からスタートした私の原点です。コロナの問題も、そういうことをかなり強烈に、今、人類に教えているんじゃないですか。


それと、「みんなでコロナを克服しよう」と言っていますけど、日本だけで克服できないですよね。アメリカだって、単独でコロナの問題は解決できない。そのうちアフリカにも、アジアの途上国にもどんどん時間差で広がっていくと思いますけど、そこが収まらないとまた日本にも帰ってくるわけで。


「世界中の人々が幸福にならにうちは個人の幸福なんかないんだ」という宮沢賢治の言葉のとおり、世界中が一緒になって、医療の問題にしろ、人々との関係の問題にしろ、協力して一生懸命やらないと、今私たちが直面している問題は解決できないということを思い知らされます。ぼくはこれからも、食べ物や農業という分野でも、互いにやさしく助け合いながら、コロナとも最終的に共存できるような社会に向かって、何かできるかなと思っています。

ミツロウキャンドル:akarizm

 ありがとうございました。これで一巡終わったので、これからはお互いにコメントをうったりしながら、自由に話ができたらいいなと思います。


(後半につづく)

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