巻頭コラム17

皆さん、新年明けましておめでとうございます。

未来の人たちが過去を振り返ったときに、ああ、あの年が大きなターニングポイントだったんだね、と思うような、そんな年になればいいなあ、と夢見ています。悪いニュースに比べればグッドニュースはまだまだ少なく見えるし、絶望の多きさに比べれば希望はあまりに小さく見えます。でも、友人の宇宙塵が教えてくれたように「希望」とは「希な望み」って書くぐらいで、小さいからこそ希望なんでしょう。

明日、ぼくたちの仲間、アンニャ・ライトとその子どもたちがオーストラリアに帰ってゆきます。日本でのツアー、ご苦労様、アンニャ。あなたたち3人の一年が素晴らしいものでありますように。

GNHのキャンペーン中にこんなことがありました。ブータンのゲストが仏教の中道の教えについて語った時です。中道というと、それはどっちつかずの曖昧でいい加減な態度のことだなどと思っている人も多いのですが、アンニャは「私は中動とは2つのDの間にある道だと思うの」と言ったんです。ひとつのDはDenial(否認) のD。

例えば地球温暖化が進んでいることを否定したり、そこから目を背けて、まるで何事もないかのように生きていくという態度。もう一つのDはDespair(絶望)のD。環境危機や戦争や貧困といったあまりに大きくて暗い問題を前にして絶望のあまりあきらめてしまうこと。アンニャによれば、この2つのDの間には、よく見れば細い道が通っている。踏み分けるようにしてその小道を歩いていこうよ、私たちは、と彼女は言うのです。思えば、ハチドリのクリキンディっていうのは、「燃えている森」という現実を前にして、否認とも絶望ともちがう、つまり、2つのDの間の道をゆくトリなんですね。

アンニャは今年、オーストラリアの国会議員選挙に、みどりの党から立候補することになっています。ぜひ、ぼくたちもできることをして応援したいものです。

さて、今年のぼくのテーマは「後ろ向きに生きる」です。
ぼくにとって去年最大の出来事は母親の入院と手術でした。彼女は8月15日のお盆の日、そう、あの世とこの世の間の途が通じる日に、大手術をして、一旦はあの世の入り口まで行って還ってきました。以来、誰もが驚くほどの順調な回復振りで、ぼくは本当に幸せなのです。でも、その一方で、去年というのは、多くの友人や知人、敬愛する人々が亡くなった年でした。

冬の休日をスローに過ごしていると、昔のことをよく思い出すものです。休日とは思い出を呼び戻すためにあると思えてくるほどです。確かに、スローであることと「思い出す{リメンバー}」こととの間には相関関係があるらしい。ゴロゴロもブラブラも、そういう意味では単なる活動停止なのではなく、むしろ「思い出す」ことを活発に行うという活動的な状態なのかもしれません。英語のリメンバーとはもともとリ・メンバー、バラバラになった部分をつなぎ合わせて全体像を取り戻す、という意味です。 

久しぶりに仕事も用事も怠けて、静かな休日を過ごす。好きな音楽を聴くともなく聴きながら(考えてみるとぼくの聴いている音楽のほとんどはもう死んだ人たちのものばっかり)。

そんな時には、亡くなった人たちのことをよく思い出すものです。ぼくたちは生きているから、どんどん先へ先へと進んでいるような幻想をもったり、進歩なんていう怪しげな宗教にはまったりする。いつも「前向きに」とか「がんばろう」を合言葉に、後ろを向かないどころか、わき目もふらずに、前へ前へと。だけど、死んだ人たちは前へなんか進まない。だから、彼らはもうずっと後ろの方に取り残されている。

彼らのことを思い出すそうと思ったら、こちらの方がスローダウンするしかないんです。そして、忙しい日常の中では、細かいかけらとして散らばっている死者たちの思い出を、ゆっくりゆっくり寄せ集めてゆくしかない。ぼくは思うんですが、ぼくたちがなんとかこうして正気を保って生きていられるのは、死者たちのおかげかもしれない。まるでぼくたち生者たちが後ろを振り向くのをずっと待っていてくれたかのように、彼らが相も変わらずそこにいてくれるおかげなのかもしれないぞ、と。
もうひとつ、一昨年、去年とぼくの周囲にはますますたくさんの子どもが生まれてくるのです。ナマケモノ倶楽部の内外にもあちこちでオギャーという産声が上がっています。で、忙しくしているとなかなか、その子たちひとりひとりの、またその親たちひとりひとりのことを考えたり、祈ったり、手紙を書いたり、贈り物をしたりする余裕がない。でも、休日ともなると、彼らがスローな時間の流れにのってぼくの心のうちへと続々と訪ねてくる。

近所の子どもたちも、冬休みになるとまるで湧いて出たように姿を現しますね。休日とは、後ろを振り向いて、そこにいる子どもたちと再会する日のことなのかもしれない。いや、もっと正確に、こう定義しましょう。休日とは、振り向いて、いつも後ろにとり残している自分より遅い人たち――生きている者も死んでいる者も――を再発見する日である。

スピードにとり憑かれたこの時代について、ミラン・クンデラというチェコの作家は、忘れるためにこそ人々は加速するのだ、と言いました。なるほど、きっとそのせいで、ぼくたちは休むことが怖いんです。休んでいると、ふり払い、忘れようとしていることさえ思い出してしまうから。思い出すとスピードが鈍る。スピードが鈍ると後ろを振り向きたくなる。だから一層、遅くなる。それでは「はやい者勝ち」をルールとするこの経済社会が成り立たなくなる。そして「国際競争力」が落ちるじゃない
か。だから、後ろをふり向くな!

やれやれ。どうりで、この社会には「前向きに」という標語が溢れているわけですね。でもぼくは今年一年、天邪鬼のように「後ろ向きに」生きてみようと思うんです。「お前は過去に戻れというのか!?」。これまでも時々そう言われましたが、そんなことはもちろんありません。戻ろうにも戻れません。「お前は未来を否定するのか!?」。もちろんそんなことはありません。否定するもしないも、未来はやってくるのですから。読んで字の如し、未来とはまだ来ていない今であり、ほっておいてもこれから来る今です。未来をつかむために前に向かっている必要なんかありません。

だいたい未来は前にあると誰が決めたのか。未来は上にあるかも、横にあるかも、足元にあるかもしれない。後ろにあるかもしれないでしょ。

だいたい、未来はいまだ来ていないんですからいくらそっちの方を見ても、何も見えません。予見、予想、予測っていうのが、人間という動物の特殊能力のように言われているけれど、今の環境危機を見れば、人間が実はいかにお粗末な予知能力しかもっていないかは明らかですよね。

人間が未来へと生き延びていくために必要な大切なものはだいたい後ろの方にあるものだ、とぼくは思っています。母親の病以来、健康についてあれこれ勉強していますが、健康の秘訣は前の方、つまり、先端の科学技術の方にではなく、後ろの方、つまり、昔ながらの食事とか身体や心の習慣にこそあるようです。一時が万事で、GNHのH=幸福度を高める秘訣はだいたい後ろの方にあると考えれば大きな間違いはないでしょう。いい空気、水、土、生物多様性、共に生きる(コンヴィヴィアルな)コミュニティ、伝統的な文化の中で育まれたスローな知恵・・・。GDPは無限成長ですから、今を否定して、よりより未来へ、とばかりにいつも前へ前へ、と空しく突き進んでいく。まさに橋本治のいう「悲しき経済」です。

以前、尊敬する武者小路公秀さんが先住民族の人々とともに舞台にたって講演をした時、こう言っていた。彼にとって進歩のイメージとは過去の方を見たまま、後ろ向きに後ずさりながら未来の方へ進んでいく。そして彼は実際にそれを舞台の上でニコニコしながらやってみせていました。ぼくは思わず拍手してしまいました。いくら後ろ向きでもやっぱり未来が一定の方向にあって、そっちの方へ進むことを想定している点は変わりませんが、でもこれはこれで素敵なイメージですよね。後ずさりだとスピードはあまり出ないので、この方がずっと持続可能でしょうし。

そういえば北米のインディアンがつくった『スモークシグナルズ(狼煙)』という劇映画に出てくる風変わりな人々の中に、ふたりの女性がいて、彼女たちはいつも居留地の埃っぽい道を、ギアが壊れていて後ろ向きにしか走れない車で、バックミラーを頼りに行ったり来たりしているのでした。これは、後ろ向きに走るギアもなければ、ブレーキも壊れたまんまの車に乗ってアクセルを踏み続けているような現代文明に対する痛烈な風刺だったのでしょう。

というわけで、皆さん、今年はぼくと一緒にゆっくりと、後ろ向きに生きていこうじゃありませんか。