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冬至のキャンドルナイト:大地の再生を祈り、祝う



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明日は冬至。北半球で最も日の短い日。特に北ヨーロッパでは、太古の昔から、それは衰えて死に向かっていた太陽が、またその日を境に蘇っていく日、つまり、太陽の死と再生、自然界のリジェネレーションを祈り、また祝う祭りの日だったのである。クリスマスの原型だとも言われる。


冬至と言えば、ぼくにとってはキャンドルナイト。2001年の夏至の日にぼくと仲間たちが始めた暗闇ナイトは間もなくキャンドルナイトとなり、2003年にはさまざまな団体や個人とつながって、「100万人のキャンドルナイト」へと成長し、その年の夏至にはある調査による500万人の人が参加してくれたという。


明日冬至の夜、ぼくたちはイベントを行う。文字通りの「電気を消してスローな夜を」とはいかないが、ま、そこは自分に寛大であろう。何しろ、新刊『リジェネレーター 土に恋する大地再生者たち』(辻信一訳、ゆっくり堂刊)の出版を記念するリジェネレーションの集いなのだから。 


次に読んでいただくのは、2006年に西日本新聞にぼくが書いたキャンドルナイトについての記事。その次は、2003年に仲間たちとつくったばかりの小さな会社、「ゆっくり堂」から、第一回の「100万人のキャンドルナイト」に間に合うように出した『ピースローソク』から、100万人のキャンドルナイトというムーブメントを一緒に進めた仲間である、大地を守る会の藤田和芳さんと環境学者でアクティビストの枝廣淳子さんの言葉を紹介しよう。

 

(ついでに一言。『ピースローソク』という変なタイトルについて。この本のあとがきにぼくはこう書いていた。「『ピースローソク』という言葉には、ピースとスローとローソクという現代の三つのキーワードが入っています。こんな説明までしないとわからない駄洒落を考えついたのは中村隆市。彼も彼ですが、それを本のタイトルにしてしまったゆっくり堂もたいしたものです」)


日本の夜は明るい。高度成長の時代、まるで人々は闇を恐れ、目の仇にするかのように、家を、公共の場を人工的な明りで照らし続けた。ぼくたちのまわりから闇が消え去って久しい。


失われた暗闇。思い出すのは一昨年(2004年6月)亡くなった作家の松下竜一さんのことだ。70年代はじめ、松下さんが、自分の住む大分県中津市に予定されていた火力発電所の建設反対運動にとり組んでいた頃のこと。ある冬の夜、彼は家の電気を止めてしまったことがある。「火電建設反対などと生意気な運動をしながら、お前んとこの電気はあかあかとついちょっじゃねえか」。こんな匿名の嫌がらせ電話を受けて、「ふと冗談みたいに家中を暗闇にしてしまった」と彼は言うのだ。


冷たくなった電気ごたつに一家3世代5人が寄り添っていると、まずひとりの子が問う。

「なあ、父ちゃんちゃ。なし、でんきつけんのん?」

松下さんが答える。

「うん。窓から、よう星の見えるごとおもうてなあ」


松下さんはこの夜の「冗談みたい」な「自主停電」がきっかけとなって、大まじめに「暗闇の思想」ということを考えるようになったという。

 「冗談でなくいいたいのだが、「停電の日」をもうけてもいい。・・・月に一夜でもテレビ離れした「暗闇の思想」に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないのかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか」(松下竜一『暗闇の思想を』)

 

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確かにぼくたちは蛍光灯の明るさに幸せを求めてきたらしい。照明を落としている者は「貧乏くさい」と叱られた。電気の消費量が多ければ多いほど、夜が明るければ明るいほど、その社会は豊かで進んでいる、という奇妙な思い込みにぼくたちは囚われていたかのようだ。


一方、欧米では今でも家族や恋人や親しい友人たちとが夕食を共にする時には、照明を落としたり消したりしてローソクを点すことが多い。世界の様々な場所に散らばったユダヤ人の多くは今も、毎週金曜日の日暮れ、ローソクの火のもとに集って「安息日{ルビ:サバト}」の始まりを祝う。


聖書の創世記に「神は第七日目を祝福し、それを聖なる日とした」とある。『休息日』(未邦訳)という本を書いたユダヤ学者A. J. へシェルによれば、週に一度の安息日の意義は、空間的なモノに支配された日常から解放されて、時間の聖域に憩うことにこそある。


ヘシェルは言う。「技術文明とは人類による空間の征服である。その勝利はしばしば存在のもうひとつの本質的な構成要素である時間を犠牲にすることによって達成されてきた」。彼によれば「空間」の世界が所有、支配、征服などによって特徴づけられるのに対して、「時間」の世界は贈与、分かち合い、合意などを特徴とする。空間では“もつ”ことが目標となるが、時間では“ある”こと自体が大切だ。

 

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「安息日」という伝統をもたないぼくたちにも、しかしかつては、人生のあちこちにモノに支配されない「時間の聖域」があって、そこには安息が、静けさが、遊びが、楽しい語らいが満ちていたはすなのだが・・・。


「電気を消してスローな夜を」という合言葉を掲げ、毎年夏至と冬至に行われる「100万人のキャンドルナイト」は、そんな懐かしい時間を呼び寄せる試みだといえる。プラグを抜く。それは単なる省エネやCO2削減ではない。闇の中で沈思するのもよい。あるいはローソクを灯す。ローソクの炎は闇を際立たせる。闇は炎を輝かせる。その光の中で、語らい、食事をし、愛し合う。それは、経済成長ばかりを追い求めるモノの世界をぬけ出して、ふと「時間のくに」へ浮遊すること。


現代世界の時間はますます加速していくようだ。みんな忙しそうだ。待つこと、待ってもらうことが不得意になってゆく。「時間がない」と誰もが不平を言っている。なぜだろう。それは多分、「時は金なり」というルールが支配するこの世界で、人々が時間を金やモノに変えてしまうからだ。この時間をめぐる競争は必然的に、生態系や伝統文化や人間関係を犠牲にせざるをえない。


金やモノの量だけで社会の豊かさや人間の幸せが測れるなどという、バカげた思い込みからそろそろ抜け出そうではないか。そして、ぼくたちが節約という名のもとに切り捨ててきた時間を少しづつとり戻していこう。キャンドルナイトの灯りが、ぼくたちの故郷でもある「時間のくに」への道筋を照らし出してくれるかもしれない。

 

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そうそう、ふと電気を切ってしまったあの晩、松下竜一さん一家はどうしたろう。松下さんは子どもたちに「マッチ売りの少女」の話をしてあげたそうだ。話が終わりに近づき、凍えた少女が売れないマッチをする場面で、松下さんは実際にマッチを一本すってみせる。すると暗い部屋に、「思いがけないほど美しい炎」が点る。そしてその炎は、驚きの目を見張っている子どもたちの「瞳の中にも、小さくキラキラと燃えた」という。

 

 

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『ピスローソク 辻信一対話集』所収、「電気を消して、スローな夜を」より

 

 我々三人は(夏至や冬至の日の夜)、電気を消して、もう一度いろいろなことを考え直そうよ、という「一〇〇万人のキャンドルナイト」の呼びかけ人代表を一緒にやっているわけですが、枝廣さんはどんな思いでこのキャンペーンに関わられているんですか。

 

枝廣 私、ローソクってすごく好きです。イメージとしてはマッチ売りの少女。あれはマッチの火なんですけど、その火を通して大事なものが見えるんです。私がローソクを好きなのは、完結性があるからです。コードがついてない。それだけで火が灯り、そして消えていく。娘のひな祭りのぼんぼりにあかりを灯すんですが、もちろんローソクは危ないというので電気です。コードがついている。それを見るたびに、延命治療している病人のようなイメージを持ってしまうんです。何かに支えてもらわないとあかりがつかない。その点、ローソクは自立している。そのひとつひとつが、今ここで燃え、燃え尽きていく。それに向き合う私たちは、「今、ここ」を生きることになる。先ほど辻さんが言われた「異質な時間」をきっと味わえる。


 この今は今しかないんだっていう。

 

枝廣 そうなんです。スローライフってそういうことだと思うんです。今ここにある時間を過ごしていくということ。


私、よく、「そんなにいろんなことをやって忙しいでしょう」って言われるんですけど、自分では全然そう思わないんです。確かにいろんなことをやっているけど、多忙ではなくて多用なだけ。何をしていても、その時その時に自分はそこにいてうち込んでいるので、その時間をフルに楽しんで次に移っていくという感じです。忙しいっていうのは、人から急かされる時です。「一〇〇万人のキャンドルナイト」は、そんなことに気づくいいきっかけになればいいなと思います。

 

藤田 私は、啓蒙主義の時代はもう終わったという気がしています。何で日本の政治家の言っていることが信用できないか。それは、彼らが一段高い位置にいて、「こうあらねばならない」ってしゃべっている気がするからです。彼らに、あなたの生き方はどうなのかっていうことを聞きたいのに、それは全然伝わってこない。借り物の言葉を発しても、何の説得力も持たないんです。


大根一本を東北の農村で生産するという小さな営み、それを東京に運ぶこと、それを費者の方が食べる

ということ。それらを政治家たちは、日本の政治や社会の問題からすれば、とるに足らない些細なことだと思っているわけです。運動家や知識人も、そういう小さなことに着目しないまま、大きな農業問題とか世界情勢とかを語ってきたところがある。しかし、それは空虚だったんです。例えば、「日本の農村が廃れるから米の自由化には反対だ」と言いながら、平気な顔をしてアメリカ産のオレンジジュースを飲んでいる。


「一〇〇万人のキャンドルナイト」でやることは、きわめて些細なことです。ローソクの光でお母さんが絵本を読んであげるとか、ローソクの光でお風呂に入るとか、ローソクの光で食事をしながら愛し合うふたりが将来を話し合うとか。こんなことは、啓蒙主義の立場から見れば、此細なことかもしれない。でも、庶民の些細な営みの中にこそ真実があり、力があると思うんです。

現代社会では、自分の家庭で起こっているような小さな物事は、互いに何の関係もない、何の力もないことだと思われています。自分たちのささやかな行動が、世界に、地球に、つながっているという回路がなかなか見えないんです。


ひとりひとりの想いを、ただローソクを灯すという行為で表現する。別に、大きなテーマを大上段に掲げるわけではない。そのひとつひとつの場では、ひとりであっても、ふたりであっても、家族だけであっても、その行為は世界中とつながっている。それを実感として味わうことができるのは、とても大事なことだと思うんです。


今まで見えなかった回路が見えてきて世界とつながった人は、その時から全く違った行動ができるようになるはずです。そして、それが世界を変える大きな力になります。

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