知をいのちの世界に呼び戻そう ヘレナの言葉
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- 20 時間前
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前回に続いて、AIについて考えたい。いやもうこれからは、何を考えるにも、AIの存在を意識することなしに、ということが難しくなるだろう。
前回も触れたように、海外でAIに対する抵抗運動が盛んになっている。それに比べて、日本における抵抗感のなさがかえって不気味なくらいだ。
8月9日の新聞記事(朝日新聞)の見出しにはこうあった。「若者に反AI感情のうねり 止まらぬ開発競争、ブームの震源地で何が」。そこにはこう書かれている。
「米調査会社ギャラップのZ世代を対象とした調査で、この1年間でAIに対する前向きな感情は減り、「怒り」を抱いている割合が大幅に増えた。仕事で「AIのリスクはメリットを上回る」と答えた割合が、その逆の3倍を超えている」
「Stop the AI Race(AI競争を止めろ)」という名の組織を立ち上げた元AI研究者のマイケル・トラッジ(30)によれば、競争で敗れる恐怖から、AI企業は「ブレーキの壊れた車」のように開発スピードを上げ続けている。デモの先頭に立つ彼は、「安全性が確保できるまで開発競争を一時的に止めることを」を求めているという。こうした平和的な抗議の一方で、AI企業や企業家を狙ったテロも起こっているという。
ここでもガンディーのことを思い浮かべる。暴力は暴力を生むといった彼のいうとおり、抗議の暴力化が、よい方向へと向かうことはありえない。
さて次に、前回予告しておいたヘレナ・ノーバーグ=ホッジの論考(全訳)を紹介したい。前回ぼくは次のガンディーの言葉を引用した。
「機械は少数の人間が大多数の人を踏みつけにして栄えるのを助けているに過ぎません。これらすべての背後にある動機は労働を軽減しようとする博愛精神ではなく、欲望です。私が力の限り闘っているのは、世の中のこの仕組みに対してです」(『ガンジー 自立の思想』)
その最後の部分を受けて、ぼくはこんなふうに言い換えておいた。
「ガンディーは、機械そのものというより、その背後にある、こうしたグローバル貿易システムという仕組みに対して闘っていたのだ」
ぼくがそこで「こうしたグローバル貿易システム」と言ったのは、次のような当時の帝国主義システムのことだ。
「産業革命で紡績紡織の機械化を成し遂げたイギリスが、植民地であるインドの手紡ぎ・手織りの文化を破壊し、工業製品としての綿布をインド人に買わせることで大儲けしていた。そこには、アフリカからアメリカ大陸に送り込まれた奴隷たちの労働によってつくられた綿花も使われていた」
それに続けてぼくは、こう言っておいた。
「これはヘレナ・ノーバーグ=ホッジがA Iについて書いた最近の文章の中で論じていたことと響き合う。これは今後ぼくたちがA Iについて辛抱強く考え続けていく上で、極めて重要な視点だと思う。ぜひ読んでほしい」
それが下にその全訳を載せる論考「知をいのちの世界に呼び戻そう」だ。このタイトルには、おそらくヘレナの、おそらくはこの論考の中に収めきれないほど深い意味が込められているのだと、ぼくに思える。AIとはアーティフィシャル・インテリジェンス(人工知能)の意。そこで言うインテリジェンスとは、そもそも、人間的、生物的、そして地球的な計り知れぬ膨大な知の世界を、機械的で、左脳的な知の一側面へと切り縮められた概念に過ぎない。次回は、その点をさらに掘り下げてくれるイアン・マッギルクリストの論考を紹介しよう。

知をいのちの世界に呼び戻そう
ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ
(「リサージェンス&エコロジスト」2026年7〜8月号)
人工知能(AI)は、現代の危機に対する解決策としてしばしば称賛されています。作物の収穫量を予測することからエネルギー利用を最適化することまで、期待が膨れ上がっています。しかし、このテクノロジーに何ができるのかを問う前に、まずもっと根本的な問いを立てたほうがよいでしょう。いったいどのような経済システムがそうした技術の発展を生み出したのか。そして最終的に、それは誰の利益に奉仕することになるのか。
過去50年間、私は20を超える文化圏のコミュニティと深く関わることになりました。現地の言語を話し、ヨーロッパの農村部からヒマラヤのラダックやブータンに至るまで、実にさまざまな場所で長期間暮らした経験によって、グローバルな経済システムが、人々の暮らし方、働き方、互いとの関わり方、そして自然界との関係をどのように形づくっているのかを、長い時間軸の中で見ることができました。
私が何度も目にしてきたのは、生態系と社会の崩壊を引き起こす最も大きな要因は、個別の技術にではなく、システムそのものにあるということです。そしてテクノロジーは、それが導入される経済システムの価値観を増幅するということです。もしそのシステムが、資源の収奪や富の集中を重んじるものであれば、そこで開発されるテクノロジーもまた、そうした経済的な流れをさらに加速するものとなるでしょう。
人工知能(A I)もまた、同じ搾取的な力学を強力にあと押しするものです。規制緩和によって大企業を優遇する今日のグローバル経済の中では、AIは疲れを知らない収奪のエンジンとなり、かつてない速度と規模で富の集中を加速させる危険があります。大陸をまたぐサプライチェーンが最適化され、その結果、地域の生産者はさらに追いつめられるでしょう。監視システムを深化させて権力を中央に集中させたり、金融投機を増幅して、少数のエリートが大儲けする一方で、多くの人々はますます不安定な状況に置かれることになります。
人類史のほとんどの期間、コミュニティが必要とするものの大半は、地域経済によってまかなわれてきました。食料は家の近くで育てられ、建物は周囲の土地から集めた材料でつくられ、知識は地域社会の日々の営みを通して世代から世代へと伝えられていました。こうした社会は完璧には程遠いものだったとしても、構造的には今よりエコロジカルなものです。なぜなら、社会の存続の基盤である自然生態系にしっかり根ざしていたからです。
私が1970年代初頭に初めてラダックを訪れたとき、このような地域に根ざした経済はまだ、まさに生きた形で存在していました。ヒマラヤの高地の村々では、食料のほとんどすべてが人々の家から歩いていける範囲でつくられていました。家族は氷河の雪解け水によって潤された段々畑で、大麦やエンドウ豆、その他の野菜を栽培し、近隣の人々と一緒になって植えつけや収穫を行っていました。家は日干しレンガと地元の木材で建てられ、外部のエネルギー源に頼ることなく、長い冬の寒さの中でも暖かさが保てるように設計されていました。
知識もまた、日々の暮らしと、それを取り巻く自然の中に織り込まれていました。子どもたちは畑仕事を手伝い、牧草地で動物を追い、家を建てる作業に参加しながら学びました。技能は、文脈から切り離されて教えられる抽象的な科目ではなく、何世代にもわたる土地への注意深い観察によって形づくられた、実践的な知恵だったのです。
私がラダックで目にしたものは、世界中に広く見られた社会のあり方の一例でした。しかし、そのあり方は現代のグローバル経済の台頭によって、徐々に崩されていきました。大企業が支配する貿易システムが拡大するにつれて、多くのコミュニティは、地域独特の生業から切り離され、遠く離れた市場向けに特化した生産へと向かわせられます。多品目栽培を支えていた土地は、しばしば綿花、砂糖、茶など輸出用の商品作物を生産する単一栽培へと転換されました。こうして、富は地域の外へと流れ出し、地域社会のもつしなやかな抵抗力は少しずつ弱まっていったのです。
こうした経済的変化と並行して、拡大するグローバル・システムを支えるための新しい体制がつくり出されました。世界の多くの地域で急速に普及した教育制度は、地域固有の知識体系を強化することをではなく、工業化する経済に参加できる労働力を育成することを主目的とするものでした。その過程で、ほとんどの場合、人々が何世代にもわたって培ってきた実践的な知識は脇に追いやられてしまったのです。
こうした変化の過程で、テクノロジーが重要な役割を果たします。鉄道、産業機械、化学農業、そして後にはデジタル・インフラが、進歩の象徴として称賛されました。しかし同時に、それらは資源の採取を容易にし、膨大な距離にわたって商品を移動させ、経済的権力をより少数の手に集中させることにもなったのです。
第二次世界大戦後、この過程はさらに加速します。国際通貨基金(IMF)や世界銀行のような組織、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)などの制度は、世界貿易の拡大、工業的農業、大規模インフラの拡充を中心とする開発モデルを後押ししました。中小規模の農業は、化石燃料、合成化学物質、そしてますます大型化する機械に依存する工業的農業にとって代わられます。その一方で、伝統的な建築材料も、セメント、鉄鋼、プラスチックといったエネルギー集約型の素材へと置き換えられていったのです。
デジタル技術は、この流れをさらに強化しつつあります。中立的な道具として紹介されることの多いアルゴリズムですが、実際には、ますます効率的に富や影響力を少数に集中させる仕組みとなっています。金融市場では、実体経済からかけ離れた投機の高速化を可能にしています。ソーシャルメディアにあっては、利用者の関与と広告収入を最大化するように設計されているため、しばしば分断を増幅し、社会の結びつきを弱めます。こうしたデジタル環境が、若い世代の社会的交流や、世界観の形成にも影響を与え、以前は直接的だった人間関係を、媒介された間接的関係へと置き換えてしまうことにもなります。
またA I(人工知能)がいかに多くの資源を必要とするかにも驚かされます。大規模なAIモデルを訓練するには、膨大な電力と水によって稼働する巨大なデータセンターが必要です。それに加えて、世界各地の生態系やコミュニティから採掘される希少鉱物も必要になります。それ以前の工業システムと同じように、AIを支えるインフラも、それを利用する人々のほとんどが気づかないうちに、どこか別の場所で自然環境や社会に重大な影響を与えるのです。
同じテクノロジー・システムは、世界経済の中でもっとも利益の大きい分野の一つである戦争でも、中心的な役割を果たしています。高度な監視技術、データシステム、そしてA Iによって、軍事活動の規模と自動化の度合いは急速に変化しています。大企業や金融投資家にとって、軍事技術は長年にわたって収益性の高いビジネスでしたが、その一方で、人間と生態系への被害は、それらが設計され、資金調達される場所から遠く離れたところで生じているのです。
これが私たちが向かうべき唯一の未来なのでしょうか。いや、そんなことはありません。私が暮らしてきたさまざまな文化の中で、私は繰り返し目にしてきました。コミュニティが自分たちの必要とするもののかなりの部分を地域でまかなえるときには、近隣の食料システム、地域の企業、強い社会的ネットワークなどを通して、同じ人間のうちに、まったく異なる人間性が育まれるのだということを。そこでは、顔と顔を合わせた協力がより多く生まれ、世代を超えたつながりがより強くなり、生命を支える生態系への深い配慮が育つのです。
私はこれを、例えば、1980年代に夫と私が暮らしていたアンダルシアの村で、鮮やかに目にしました。夕方になると、人々は地元のバールに集まります。そこでは、幼児から曾祖母まで、誰もが知っている歌に合わせて一緒に踊る光景も珍しくありませんでした。ティーンエイジャーは年長者と踊り、赤ん坊は人から人へと抱き渡され、世代を越えて会話が自然に流れていました。このような環境では、子どもたちは生きた人間関係に囲まれて成長します。彼らの「自分はここに属している」という感覚は、スクリーンによってではなく、コミュニティの一員として日々を生きるという経験によって形づくられていたのです。
今日、世界各地で、主流メディアによる経済報道からは見えにくいところで、コミュニティはより地域に根ざした、人間的な規模のシステムを再構築しようとしています。ファーマーズ・マーケットは今も盛んに行われ、コミュニティ支援型農業(CSA)の取り組みは、人々と近隣の農場とのつながりを取り戻しています。地域の企業連携やコミュニティ・バンキングは、富が遠く離れた金融センターへと流出するのではなく、地域内で循環することを助けています。
こうした取り組みは、主流の経済とは別の道を示しています。それは、際限のない成長と収奪を基盤とする経済ではなく、生きている地球の限界の中で、コミュニティが自らの必要を満たす能力を高めることで支えられるものです。この新しい経済という文脈では、テクノロジーも、これまでとまったく異なる役割を担うことができるでしょう。
地域に根ざした経済を支えるために設計される“道具”は、グローバル化したシステムの中で開発されてきたのとは、かなり違ったものになるでしょう。規模拡大と加速を何よりも優先するのではなく、それぞれの生態系やコミュニティの現実に寄り添うものです。より小さな規模で、よりゆっくりとしたペースで、その土地に暮らす人々の知識によって形づくられるのです。
しかし、こう主張する人もいるでしょう。デジタルツールは地域の食料ネットワークを強化したり、小規模生産者を支援したり、生態系の再生に取り組むコミュニティ間で知識を共有したりするのに役立つはずだ、と。また、こういう意見もあるでしょう。AIは農家が気候変動に適応するのを助け、地域社会が地域のエネルギーシステムを管理するのを支援し、協同組合型の経済活動を支援したりできるはずだ、と。確かにそうかもしれません。ただ、それも、そうしたテクノロジーの社会的、生態学的、経済的なコストを勘定に入れた上で、考えてみるべきことです。しかし、もしもテクノロジーが生命を損なうのではなく、生命に貢献することを望むのであれば、私たちは最も厳密に精査し、世界全体への影響を把握しながら、テクノロジーを形づくっていかなければなりません。
心強いことに、こうした問題への認識は高まりつつあります。多くの国で、人々は長大なサプライチェーンの脆弱性、地域経済の空洞化、そして極度に中央集権化されたデジタル・プラットフォームがもたらす社会的コストについて問い始めています。本当の意味での強靭さは、ますます複雑化するグローバル・システムに依存するより、ローカルとグローバルとの間のバランスを取り戻すことにかかっているのではないか、という認識が広がっています。
私が今も希望を抱いているのは、人間には互いに協力する能力が常に備わっていて、条件さえ整えばそれを発揮できるのだということを、この目で見てきたからです。山村や農村のコミュニティで、そして人々が今なお自分たちが住む土地をよく知り、お互い同士をよく知っている地域社会で。土地との、そして人々とのつながりを取り戻したとき、人間の創造性と思いやりの心はしばしば驚くべき形で花開くのです。
もし私たちが、その同じ知恵を駆使して、経済システムとテクノロジー・システムを運営することができるなら、気候危機と激変のこの時代のただ中にあってもなお、より穏やかで優しい未来は私たちの手の届くところにあるのです。




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