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新スロー・イズ・ビューティフル序論 (1)

去年の今頃書いていた原稿を読んでいただきたい。これは、延期になってしまったある雑誌の連載企画『新スロー・イズ・ビューティフル』の最初の3、4回分の原稿である。連載をまとめて一冊の本にするという計画だったのだが、連載が延期になったことで、主にコロナ禍をめぐる時期的なことを書いているこの冒頭部分をそのまま使うことができなくなってしまった。でもせっかく書いたものなので、このブログに掲載しようというわけだ。


新しい情報を日々追いかけながら、ぼくたちは、あまりにも忘れっぽくなっているのではないか。ぼくたちが生きてきたコロナの時代を改めて振り返るための一助にしてほしい。もう一度、コロナの時代を、深い学びの機会としてとらえよう。また世界中が求める価値観と社会の大転換の只中に生きていることを思い出そう。



 

パンデミックと想像力

この連載を「新スロー・イズ・ビューティフル」と呼ぶことにしよう。拙著『スロー・イズ・ビューティフル』から20年目の今年、「遅さ」の意味を、そしてそれについて語ることの意味を、改めて考えてみたい。 


今、ぼくがこれを書いているのは二〇二一年一月。だがぼくの暮らしのモードも思考も、去年からのものを重たく引きずっていて、新年という気分ではない。世界を見回してみても、新政権が誕生したばかりのアメリカを含めて、二〇二〇年の枠を越えて、新しい地平に歩み出たという清々しい空気は感じられない。世界中の人々のこころの中には、この一年間に感じたことや考えたことが雑然と詰め込まれ、からだのうちにも、ようやく慣れ親しんだ習慣が染みついていて、まずは頭を少しずつ整理しながら、おずおずと手探りに歩みだすしかないと感じている。ぼくにはそんな気がする。


この一年とは、言うまでもなく、“コロナの時代”に突入してからの月日のことだ。コロナ・パンデミックは、一年たった今も世界をすっぽりと覆い続けている。一年前の今ごろ、こんな世界の状況を予測できた人はいない。大きな変わりようだ。それはそうだとしても、では、世界のありようが根本的に更新されたのかというと、世界は全体としてあまりにも旧態依然として、その土台にまでめざましい変化が起きているようには思えない。では、これから一年後はどうだろう。パンデミックは収束に向かっているだろうか。経済的な打撃はその後、世界にどういう結果をもたらすだろう。東京オリンピックはどうなっただろう。もちろん、わからない。何もわからない。そんなことを言い出せば、自分自身が生きているか、どうかさえ、わからないのだ。しかし、そうではあっても、一年後の視点というものは確かにある。予想を立てる、ということを言っているのではない。ただ、そういう視点を、「今・ここ」に生きている自分のうちにもっている、というそのことが大事なのだ。二年後でも三年後であってもいいだろう。十年後、三十年後、百年後の視点をもつことも大切だ。


ぼくは現代が「大転換」の時代だと信じている。そして、その大転換の意味をぼくなりに考えて、この本に記していきたいと思う。ぼくがいうのは、コロナ禍によって強いられた変化のことではない。そういう規模のことではなく、百年、五百年、いや、千年(ミレニアム)に一度というスケールの人類史的で、根本的な転換のこと。ということは、つまり、そのくらい長い歴史的な時間の流れの中に、「今・ここ」を生きている自分たちを置きなおしてみるということだ。


過去から未来へと続く千年、万年単位の歴史の中では、感染症の大流行は決して珍しいことではない。とはいえ、それが往々にして、歴史の流れを大きく、時には根本的に変えるきっかけになったのは本当のことらしい。現代のパンデミックもまた、歴史的な大転換の、一つの重要なきっかけとなるということは大いにありうるだろう。大転換の時代は、危機の時代である。コロナ禍もまた危機と呼ばれるものの一つだ。でも間違ってはいけない。コロナとともに危機の時代が訪れたのではない。コロナ禍が去れば、経済が復興し、危機が去るのでもない。


コロナ禍は危機の時代にやってきて、他の数々の深刻な問題に並ぶもう一つの問題となった。そして、ここが大切なところだが、この一連の諸問題は互いに密接に関係し合っている。その意味で、コロナ禍は偶然やってきたわけではない。「持続可能(サステナブル)」という聞き慣れない言葉を、今ではだれもがわかったような顔をして使い始めている事実にも示されているように、ぼくたちはうすうす、この世界がこのままでは持続不可能であると気づき始めている。でも、持続不可能というのがどれほど大きな危機を意味するか、またその持続不可能を持続可能に変えることがいかに大きな転換を意味するかということについては、まだほとんどの人々が、それを語ろうとも、認めようともしないし、それに向き合おうともしていない。


コロナ禍だけでも手いっぱいなのだから、あれこれ、暗い話をしないでくれ、という気持ちはわからないでもないが、ぼくたちが危機の時代に向き合えずにいたのは、今に始まったことではないのだ。むしろ、コロナ禍をきっかけとして、ぼくたちはやっとのことで、「持続不可能」な世界のありように、いやいやながらであっても、向き合い始めているのではないだろうか。そして、「持続可能」ということの意味を自分なりのやりかたで理解しようと模索し始めているのではないか。


カナダ出身のジャーナリストでライターのナオミ・クラインが、アメリカ下院議員に二十九歳の若さで当選したばかりのアレクサンドリア・オカシオ・コルテスと組んで制作した短編アニメ動画、「未来からのメッセージ」が発表されたのは、二〇一九年春だった。時は今から数十年後、年配になったオカシオ・コルテスが、二〇一九年当時を振り返る、というストーリーだ。翌二〇年の大統領選と議会選に民主党が勝利し、彼女たちが提案していた“グリーン・ニューディール”の政策へと大きく舵をきったおかげで、アメリカは急速に地球温暖化対策と持続可能な経済への転換を成し遂げる。そして未来の人々は、危機を脱して、豊かで、幸せな社会を実現している。


もちろん、ここにはコロナ禍は出てこない。ここでの想像どおり、民主党政権は成立したものの、オカシオ・コルテス議員はじめ、グリーン・ニューディール派は、経済界や共和党はもちろん、民主党の中からも、激しい抵抗を受けている。現実には、多くの人々がコロナ禍と経済的な苦境のなかにあって、気候変動どころではない、と感じているようだ。しかし、それでも、千二百万人の視聴者を得たというこの動画が描いてみせた、未来の視点からの想像がもつ力とその可能性は、コロナ禍のなかの今だからこそ、ますます光を放っているのではないか。動画の発表にあたってこれは「思考実験」だと、クラインは言っていた。そしてコロナ危機がやってきた後の二〇二〇年秋には、「未来からのメッセージ−−パート2、修復の年月」という第二の思考実験が発表された。ナレーターの一人は俳優のエマ・トンプソン。冒頭のナレーションはこうだ。「パンデミックのただなかで植えられた苗木が、育って、こんなに大きな木になるなんて!」


さて、ぼくが本書で描こうとしている大きな危機の時代の本質を、一言、「分離(セパレーション)」という言葉で表したい。そして、その危機の時代からの大転換を、「分離(セパレーション)からつながり(リレーション)へ」と表したいと思う。


やはり、この一年間を振り返ることから始めるのがいいだろう。ちょっと不思議で、いろいろな意味で辛く、悩ましく、でも知的な刺激に満ちた一年だった。コロナ危機をきっかけにより鮮明な姿を現した「分離」というモンスターをじっくり観察しよう。世界のあちこちで多くの人々が語ってきたように、ぜひ危機を好機へと転じたいものだ。


パンデミックの一つの特徴はそれが人々のあいだに引き起こすパニックである。そして、一見それと矛盾するように、一度過ぎ去ってしまうと、それが人々の記憶に、そして記録にさえ、残りにくいということだ。パニックと忘れやすさに共通しているのは、切り離されて断片化した時空間のありようではないか。


だからこそ、時空間のある想像上の地点から、俯瞰するように物事を見たり、全体的(ホリスティック)に考えたりする、<スロー>な思考が、特に今、このコロナの時代に生きるぼくたちに求められているのだと思う。今、「たった一つの正解」と思われているものが、数年の間に間違いだとわかるかもしれない。絶対だと思われたことが、相対化されて、「いくつもの解の一つ」にすぎなかったということもあるだろう。


「スローとはつながりである」と、ぼくは二十年前から言い続けてきた。関わり合うことはすなわち面倒なこと。関わり合いには時間がかかる。つながることには時間がかかる。とすれば、本書のテーマである「分離」は「ファスト(速さ)」に、「つながり」は「スロー(遅さ)」に対応する。そして、「分離からつながりへ」の転換は、「ファストからスローへ」の転換であるとも言えるだろう。


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