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新スロー・イズ・ビューティフル序論 (3)




ワン・ヘルス(一つの健康)

二〇二〇年三月十八日、科学者で環境運動家でもあるインドのヴァンダナ・シヴァの「ワン・プラネット ワン・ヘルス(一つの地球、一つの健康)」という記事がネット上で公開された。それはこう始まる。


私たちは“ひとつの地球”に暮らす地球家族だ。その多様性と互いにつながり合う関係性こそが、私たちの健康を保障する。地球の健康と私たち人間の健康とは切り離すことができない。

私たちは二つの方法で世界中とつながることができる。他の生物種のすみかに侵入したり、金儲けや貪欲のために動植物を操作したり、単一栽培を広げたりすれば、コロナウィルスのような感染症を通じて世界中とつながることになる。一方、生態系の多様性を守り、生物の多様性を守り、不断に自己創出する「オートポイエーシス」としてのいのち(その一種が人間だ)を守りながら、健康としあわせ(well-being)を通じて世界とつながることもできるのだ。


「ワン・ヘルス」という言葉でシヴァが表現しようとしているのは、人間の健康と生物の健康、そして地球生態系全体の健康とは、切り離すことができない一体だ、ということである。そして、その「ワン・ヘルス」の裏面は、人間の病気が、他の生物の病気や地球生態系の衰弱と分かちがたくつながっているということに他ならない。とすれば、コロナ感染症という新しい病気と、それが引き起こした“非常事態”も、生物種の絶滅と消滅、気候変動という非常事態と同じ根っこをもつものに違いない。


では、我々のなすべきことは何か。シヴァは特に、他の生物を単なる資源と見なして、生命操作を繰り返し、その生息圏への侵略を続ける、グローバル経済システムに歯止めをかけることこそが、問題解決への道筋だ、と訴える。


霊長類学者でやはり環境運動家として名高いラッセル・ミッターマイヤーの「コロナ・ウィルスとヒューマン・ミート・マーケット」という記事が公開されたのは、4月3日だった(これを基にした文章が翻訳されて、『世界』8月号に掲載)。あえてタイトルに「ヒューマン・ミート・マーケット(人肉いちば)」というショッキングな表現を使ってミッターマイヤーが強調したのは、人体そのものが、寄生虫、病原菌、ウィルスという捕食者からしてみれば巨大な食料資源だということだ。それを彼は、生肉の塊を並べて売っている市場のようなもの、と表現した。


だが、問題は「人肉」だけではない。微生物という捕食者にとっては、家畜こそが人肉よりもさらに大きな“餌場”となっている。ミッターマイヤーによると、家畜化された哺乳類は、地球上のすべての哺乳類のバイオマス(生物量)の60%を占め、人類は36%、野生の哺乳類はわずか4%を占めるに過ぎない。今回のコロナ危機の背景に、人類による過剰な肉食という大きな問題があることも浮かび上がってくる。


そう考えれば、ワクチンといった対症療法だけで、問題を解決することができないのは明らかだろう。ミッタマイヤーによれば、コロナ危機を克服する道筋は、次の三つである。その第一は、生態系と生物多様性の保護こそが私たちの身を守るということ。第二に、野生生物を保護し、ブッシュミート交易を含め、人間の都合で野生生物を生息地から連れ出さないこと。そして第三に、肉の大量生産と大量消費に歯止めをかけて、植物を基本にした食生活へと移行すること。


ウィルスのメッセージ

あれは3月上旬だったと思う。ある動画が、カナダの先住民ハイダ族の友人から送られてきた。人工衛星から見た地球の画像にかぶせて、女性の声がイタリア語で語り始める。「ウィルスからの手紙」と題されたダリンカ・モンティーコという人の詩だった。


同じ時期、他にも、新型コロナウィルスから、自然界から、あるいは「天」から、人間宛てに送られた手紙という形をとったメッセージや動画がいくつも発信され、ネット上で拡散されていたらしい。ぼくもそのうちのいくつかを見たが、特にぼくのこころに響いたのがこのイタリア語の — いや、“ウィルスから”の手紙だから、イタリア「経由の」と言うべきか — 「手紙」だった。当時のイタリアの緊迫した状況を思うせいだったかもしれない。以下は、その詩の前半を動画の英語字幕から訳したものだ。


<ウイルスからの手紙>

止まれ 動くな。 

これは依頼ではない 義務だ。

私はあなたを助けに来た。 


あなたの超音速ジェットコースターの先にレールはない。

飛行機も電車も学校もショッピングセンターもイベントもない。

空を見ることさえ あなたに忘れさせていた

幻想と狂乱の嵐を 私は止めた。


見よ 星を 

聴け 海の音を

鳥が鳴き 草原が囁くの。

木からリンゴをもいで 

森の中の動物たちに微笑み

深呼吸して 自分自身の声に耳を傾ける


そう、あなたは止まるしかなかったのだ

神になり代わることはできない

私たちには共通のつとめがある

いつの世もそうだった 

あなたがそれを忘れてしまっただけ

だから今 このメッセージを伝えるために

恐るべき分断と放心と混乱の“感染症”を止めることにした


私たちの誰にとっても状況はよくない

みんなが苦しんでいる 

去年いたるところで森を呑み込んだ火事は

地球の肺を焦がした

それでもあなたは止まろうとしない

氷山が溶け落ちても

町が沈没してもあなたは止まらない

6番目の種の大絶滅を引き起こしたのが自分だと知っても

あなたは私の声に耳を傾けたことがない


それもそのはず 

快楽の階段をてっぺんまで登るのにあなたは忙しすぎる

あなたの貪欲のせいで社会の土台が崩れつつあるというのに


 全体をとおして、三つの動詞−−「止まる」、「見る」、「聞く」が繰り返し現れる。後半にも、「さあ、聴け」や、「止まれ 静まれ 耳を澄ませ」といった句があり、また、次の一節では、たたみかけるように、「見よ」が繰り返される。「海を見よ どう見える? 川を見よ その姿は? 大地を見つめよ その変わり果てた姿を。そして自分自身を・・・」。 たまたまネット上でぼくの目にとまったいくつかの詩やメッセージにも、同じような命令形が散りばめられていたのは、単なる偶然ではないだろう。


 またこの詩は、コロナ・パンデミックを、こころの病、森林火災、水害、生物多様性の破壊、温暖化といった現代世界の病理と一体のものとしてとらえている。


ウィルスが、あるいは自然界が、警告を発している、というのは、もちろん、メタファーなのだが、「単なる喩え話に過ぎない」として片づけられない、それ以上の何かが働いて、人々をリアリティの深層へと導いているようだ。それをぼくは「神話的な知性」と呼びたい。思えば、“天”からの、“神々”からの、そして“大地”からのメッセージを感じとる力は、かつて何も珍しいものではなかった。その神話的な思考や感性が、パンデミックのかなり早い時期から、世界のあちこちで、特に若い世代のあいだに、一斉に蠢いて共鳴を起こしていた、と考えてみよう。


「ディープ・エコロジー」という言葉がある。環境汚染や資源の枯渇などへの懸念から生まれた従来の環境運動やエコロジー思想が、人間中心主義的なものにとどまっていたという反省から生まれたこの言葉は、生態系におけるあらゆる存在が固有の内在的価値をもっているとする、より“深い”自然観を表現している。これを最初に提唱したノルウェーの哲学者アルネ・ネスによれば、全ての存在が網の目のように相互に関係し合っているこの世界では、個々の生命は全体と、全体は個々の生命と、切り離しがたくつながっている。


こうした“深い”感性や思考によって世界をとらえれば、「環境」とはもはや単なる「資源」ではなく、守るべき「所有物」でも、「遺産」でもない。どこからどこまでが人間で、どこから先が環境か、といった区別を超えた一体性の感覚は、しかし、何も新しいものではない。遠い過去へと辿るまでもなく、この現代世界に生きるぼくたち自身の存在の“深み”に息づいている。それが、パンデミックに伴って、様々な表現の形をとって現れ始めたのではなかったろうか。(続く)

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