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イスラエルを私たちのユダヤ教から破門する (2)

ユダヤ戦士 vs スピリチュアル弁証法


実際、ガザに対するイスラエルの戦争によって体現された戦士の文化は、伝統的なユダヤ文書の中に見出すことができる。イスラエル人はカナンを征服したとき、地元の部族に対して大量虐殺を行ったのだ。ダビデとサウルはどちらも戦士の王だった。旧約聖書の「エステル記」には、ユダヤ人に対して陰謀を企てた家族を無慈悲に根絶した様子が描かれている。これこそ、イスラエルという国家が迎え入れたユダヤ教だ。それはイスラエル入植者がパレスチナ人の村を焼き払い、果樹園を破壊し、家畜を殺し、農民を殺害するときのユダヤ教だ。彼らユダヤ戦士たちはまた、イスラムの聖地「神殿の丘」にあるアル・アクサ・モスクを破壊し、それを動物の生贄を燃やす煙の充満するユダヤ寺院に置き換えようとしている。これが戦士のユダヤ教というものだ。

 

この戦士の文化は、ユダヤ的伝統における弁証法の一方の極だ。ローマに対する二度の反乱の失敗も、その結果に違いない。二度目の失敗は、ユダヤ国家の滅亡とローマ帝国全域へのユダヤ人の離散をもたらした。西暦70年から、ほぼ1000年後にシオニストが帰還するまで、ユダヤ人は戦いを避け続けた。「戦いの文化」の代わりに、ユダヤ人は弁証法のもう一方の極、つまり「ディアスポラ(離散地)文化」へと向かったのだ。彼らは離散した先々でコミュニティ、シナゴーグ、学校などを建設した。そこには警察がなかった。軍隊もなかった。彼らには伝統と価値観があった。戦闘組織の代わりに共同体の組織があった。ディアスポラ文化がユダヤ国家にとって代わった。


ガザを煙の出る廃墟に変えたイスラエルは、戦争と戦闘の時代への回帰を目指している。それはディアスポラ・ユダヤのスピリチュアルな価値観を拒否し、裸の権力を支持するのだ。


2枚の写真が、“新スパルタ”としてのイスラエルの本質を表している。1枚目では、ガザのイスラエル軍兵士がトーラ{律法書}を読んでいる。トーラを読む者は、伝統的に、細い金属製のヤド(指、または手を意味する)と呼ばれる細い棒で、今読んでいる箇所を指し示していた。ヤドは神聖な巻物を人間の接触による汚染から守っていた。神聖な物体に触れることは禁じられていたのだ。しかし、この写真では兵士がヤドの代わりにコンバットナイフを使用している。写真をツイッターで投稿した人は、「私たちの神聖な伝統を嘲笑している」とコメントした。




もう一つの写真では、イスラエル軍の狙撃兵がガザの学校の床に横たわっている。かつて教室だった場所のドアの割れたガラス越しに彼の姿が見える。彼は入植者が編んだらしいキッパ・スルガと呼ばれる帽子をかぶっている。これはパレスチナ人を殺そうとしているユダヤ戦士だ。すべては戦いの神エホバの名において行われるだろう。


 


エルハム・ファラーを狙撃して殺害したのも、この2枚目の写真の兵士だったのかもしれない。彼女の死を説明する前に、彼女の生涯について知っておいてほしい。


エルハムはガザで生まれ育ったパレスチナ人女性で、有名なパレスチナの詩人ハンナ・ダーダ・ファラーの末娘だ。ファラ家はガザで最も古いキリスト教徒の家族の一つで、その起源は西暦4世紀から7世紀にかけてガザで著名だったガッサーン朝アラブ人に遡る。この街にしっかり根を張ったファラー家は、今もその知性と文学的才能で有名だ。家族の他の女性たちと同様、エルハムも教育を受け、才能にも恵まれていた。意志が強くて冒険心溢れる女性だった。

 

ほぼ1か月のあいだ、エルハムは空爆や十字砲火、飛び散る破片などを避けるために、他の数百の人々とともに、ガザに残された2つの教会のうちの1つに避難していた。それまでの人生で、エルハムは一つの場所にあまり長く留まることなく、旅から旅へと動き回る生き方を好み、常にカレンダーに新しい冒険の予定を入れていた。こうした彼女の冒険心と意志の強さが、鍵のかかったドアの中に留まることを彼女に許さなかったとすれば、なんという皮肉だろう。


こうして彼女は亡くなった。銃弾を受けた足の傷は、世界中のどの病院でも治療できた程度のものだったかもしれない。しかしイスラエル軍が彼女に与えたのは、数時間の苦悶の末にやってくる死だった。


彼女は自宅の様子を見るために、そして新鮮な空気を吸うために、教会を出ることを主張した。彼女にはジャケットをとってくる必要があったし、家がまだ壊れずに残っていることを確認する必要もあった。彼女は強い信仰心に支えられて、心配する周囲の人々をなだめ、どこへ行ってもイエス・キリストが共にいてくださると宣言した。2023年11月12日、エルハムは教会を出て自宅まで歩いた。そして自宅の建物に到着した時、アパートの屋上にいた狙撃兵によって脚を撃たれた。


道端に横たわるエルハムを見て、助けるために近づこうとした近所の住民にもまた銃弾が飛んだ。彼女が負傷してからしばらくして、目撃者がエルハムの家族に連絡をとって事態を伝えた。彼女の姪が何度か電話してもつながらなかったが、しまいに、エルハムがやっと電話に出た。


エルハムは自分が今経験した激しい痛みについて説明し、何時間も空しく助けを求め続けていたと語った。しまいに足の感覚がなくなり、足が体の他の部分から切断されたのではないかと思ったと。姪は彼女にこう言った。「エルハムおばさん、もし切断されていたら、今頃出血して死んでいたわよ。心配せずに気を休めてね。暗くなってきたわ。朝までには誰かが行けるようにするからね」。エルハムは答えた。「わかった。歩道に頭を置くわ。ここで待っているからね」


エルハムの家族は、赤十字や彼女を助けてくれそうな人に必死に連絡を取ろうとした。だが、残念ながら、誰も行けなかった。血を流して道端に放置されたまま、エルハムは 2023年11月13日に息を引き取り、神のみもとへと旅立った。「祈ってね、私は死にます」。それが彼女の最後の言葉だった。


<エルハムおばさん、助けを求めるあなたの声は徐々に大きくなって、ガザの海岸にこだましました。世界はあなたという美しい魂を失いましたが、あなたは今、同じように命を落としたすべての人たちのために音楽を演奏しています。ガザに生まれたあなたが、そのガザで永遠の眠りにつけますように。私たちはあなたのアコーディオンの音を忘れません。そして私たちはあなたの最後の言葉を忘れることはありません。私たちはあなたを愛しています。あなたがいない世界は寂しいです>


そのような死に方を「犬のような死」と表現することがある。しかしエルハムの死は聖人や殉教者のような死と呼ぶにふさわしい。犬をバカにする気持ちはないが、あえて「犬」という言葉を使うなら、それは狙撃兵の方だ。それは、詩人であり、音楽家であり、芸術家であった人を殺害するためにこの兵士を送り込んだ国家のことだ。詩人を殺すことはできても、詩を殺すことはできない。ミュージシャンを殺すことはできても、音楽を殺すことは決してできない。パレスチナ文化の芸術作品は不滅だ。それは、イスラエルがガザで何をしようとも、パレスチナ人の抵抗が決して消えないのと同じだ。


私たちユダヤ人の歴史を通じて、私たちもまたそのような殉教者たちの死を悼んできた。トーラの巻物を身に巻かれたまま焼き殺されラビたち、避難していたシナゴーグにナチスが放火する中、祈りのショールを身に着けて神の名を讃えるためにシェマの祈りをあげたユダヤ人たち。しかし今、私たちは殉教者をつくり出す側になっている。そして、かつて自分たちを殺した暴君になり果ててしまったのだ。

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