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ガザの惨劇をどう捉え、そう言葉にするのか? (2)




それにしても、ぼくを後ろから引っ張る力はなんだろう。例えば、ジェノサイドだ。この言葉に世界中の耳目が集中したのは、ガザ地区への攻撃を、ジェノサイドだとして南アフリカがイスラエルを国際司法裁判所(ICJ)に提訴したからだ。それまでは、ジェノサイドという言葉を使う途端に、パレスチナ支持者と断じられる空気があり、欧米や日本の主要メディアはその使用を言わば自主規制してきたのだった。この状況を提訴が変えた。さらに注目すべきことに、ICJは、まだしばらく先になるだろう判決を待たずに、1月、ジェノサイド行為を防ぐ「全ての手段」を講じることなどをイスラエルに命じる「暫定措置命令」を発したのだ。

 

このI C Jの命令をどう評価するか。それは果たして、停戦につながるような効力をもつのか? この問題をめぐる三人の専門家へのインタビュー記事(3月5日、朝日新聞)が参考になる。ここでは特にそのうちの一人、国際政治学者の武内進一(東京外国語大学)の言葉を紹介したい。

 

武内によれば、ジェノサイドという言葉の国際法上の定義自体が、政治的な妥協の産物だという。それでも彼はこう断言する。「国際法上のジェノサイドの定義に合致するか否かにかかわらず、いま起きているのは疑いなく大量殺人です。イスラエルは免罪されません」

 

 そう言った上で、武内はジェノサイドという言葉の使用をめぐる困難に関係がありそうな、こんなことを言っている。

「最近、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)になぞらえてイスラエルを批判したブラジルのルラ大統領に対し、イスラエルのネタニヤフ首相は『ホロコーストを矮小(わいしょう)化するものだ』と反発しました。実は、ジェノサイド研究の発展の契機は、ナチスドイツによるホロコーストとほかの犯罪を比較できるのか、という問題提起にありました」

 

つまり、こういうことだろう。ジェノサイドという言葉は、ナチスによるホロコーストという巨大な荷物を引きずっている。それが、一つの倫理的な枷となって、人々は軽々しくこの言葉を口にできなくなっているのだ。それ自体は理解できる。ホロコーストという犯罪の想像を絶する凄まじさを思えば、それはある意味で当然の反応だと言ってもいい。しかし、問題はその先にある。

 

武内は言う。

 「ホロコーストはとてつもない犯罪ですが、それに類する経験を人類は繰り返してきました。20世紀最後半のルワンダや、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争末期のスレブレニツァ虐殺などいくつもあります。悲劇を繰り返さないために、ホロコーストとの共通性や差異を比較することが重要です」

 

集団的な虐殺という、人類が繰り返してきた経験を言語化して、共有化するためには、それらの共通性や差異について自由に考え、語り合うことが不可欠だ。その場合、ホロコーストという言葉を一種の“聖域”にして、別次元に祭り上げてしまったらどうだろう。ホロコーストを他のジェノサイドと並べて考えようとするだけで、「ホロコーストを矮小化する」として糾弾される。そういう批判を避けようとする意識が、ジェノサイドという言葉を使うことを難しくする。ましてや、そのジェノサイド的行為を引き起こしているのがユダヤ人であり、ユダヤ人国家を自称するイスラエルである場合にはなおさらだ。

 

しかし、イスラエルがこの半年、ガザなどで行使してきた恐るべき暴力をタブー化してはいけない。ぼくたちはなんとか向き合い、それを言葉にしていかなければならない。かつて、あれほどの残虐な暴力の犠牲者となった経験をもつユダヤ人が、今、加害者としてガザのパレスチナ人に容赦ない暴力をふるっていることをどう理解したらいいか。

 

武内は、暴力行使の背景に共通してみられる“恐怖”について語る。

「イスラエルがすさまじい暴力を行使する背景には、恐怖があると思います。私が専門とするルワンダの場合も、少数民族ツチを差別し続けた多数派民族フツの政権が、内戦のなかで、ツチ人が政権掌握したら自分たちが同じことをやられる、という恐怖感を抱いたことがジェノサイドの背景にありました。長年パレスチナの人々を差別し、抑圧してきたことをイスラエルがよく分かっているからこそ、ハマスの襲撃が恐怖感を高め、過剰な暴力を行使しているように感じます」

 

さらに、ジェノサイドは日本人にとっても決して他人事ではない、と武内は指摘する。

「ジェノサイド研究でわかったのは、普通の人が通常では考えられない残虐行為に走ってしまうことです。関東大震災の朝鮮人虐殺も一例ですが、差別してきた者の恐怖感が普通の日本人にあったと考えられます。日本の過去から学ぶことも多いのです。いま日本政府はイスラエルの行為を黙認する側に立っていますが、現状を変えるための外交努力を尽くす責任があるのではないでしょうか」

 

ジェノサイドという言葉がユダヤ人を加害者とする暴力行使については使いづらいという、世界中の多くの人々の中に潜んでいると思われる感覚については、さらに考えてみる必要があるだろう。この感覚は、先のネタニヤフの発言に見られるような、イスラエルによる暴力を他の諸勢力による暴力と比較するべきではないという感覚と繋がっている。まるで、ユダヤ人の被害者性には何か絶対的で、例外的な特質が備わっているかのようで、そこから先にはさらに、ユダヤ人による行為の加害者性を問う権利は誰にもない、という独善性と特権意識が見えてくる。(続く)









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