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イスラエルを私たちのユダヤ教から破門する (1)

11月23日、久しぶりに訪ねていた沖縄で、やはり久しぶりに尊敬するダグラス・ラミスさんに会った。その日の午後、県民平和大集会に同行させていただくことになっていたが、まずその前に会って積もる話をしようと県庁前のカフェで落ち合った。


話が沖縄をめぐる状況に行く前に、まずパレスチナのことが話題にのぼった。ラミスさんは早速、彼が日本支部の代表を務める「平和のための元軍人の会(Veterans For Peace)のニュースレターに載った文章を読むようにとぼくに勧めてくれた。彼がこのユダヤ系アメリカ人と思われる同時代人の言葉に、深く揺さぶられていることは明らかだった。自動翻訳らしい日本語で読むことができるが、少し問題があるので、以下、ぼくの拙訳を載せておくことにする。今回はその前半。


カフェを出る前に、ラミスさんは新しく海外で出版された彼の著書をぼくに一冊くださった。その名も、『WAR IS HELL(戦争は地獄だ』。最初の白紙のページに彼は署名とともにこうペンで書き記してくれた。

「保証します。これはクラウゼヴィッツ以来、最良の戦争論です」


 

大量虐殺についてユダヤ的なことは何もない

〜イスラエルがユダヤ人である私たちをその犯罪に巻き込むことを許さない〜

リチャード・シルヴァースタイン

23 秋 Peace and Planet News

 



イスラエル軍(IDF)首席報道官ダニエル・ハガリ少将がツイートした彼の恐ろしい写真を見て、私はイスラエル、ユダヤ教、そしてそれぞれの象徴の意味について考えるようになった。そこには、イスラエル国防軍の戦車がブルドーザーがガザの大地に刻み込んだダビデの星の取り囲む道をつくっている様子が写っている。そこはかつてハマスの訓練場だった場所だという。それはIDFにとっては剥き出しの力の誇示であり、ハマスにとっては身も蓋もない侮辱だ。どうやらIDFは思っているらしい。それがイスラエル国内の人々を鼓舞し、他の人々が虐殺と呼ぶものをどこかの誰かが誇りに思うことになると。

その行為の不適切さと無感覚さには気が遠くなるほどだ。何千人もの子どもや母親を殺害している真最中に、敵の大地に国の象徴を刻むというのは、想像を絶する残虐行為だ。そしてそれは意図された残虐さなのだろう。痛みを引き起こすこと、傷口に塩をすり込むこと、あるいは、傷口に酸をさえ塗り込むことが意図されている。敵とその国の名誉を傷つける。そう、それが目的なのだ。


イスラエルという国が、この殺人国家が、ユダヤ教の象徴を、まるで自分のものであるかのように勝手に使っていることに私は激怒している。ダビデの星はかつてユダヤ人を代表象するものだった。1,000年以上昔の装飾写本にもそれが鮮やかに描かれている。1948年に建国されたイスラエルはそれを国の象徴であると宣言した。こうして、ユダヤ人を表してきたイメージが国家−−自らを「ユダヤ人国家」と称する国−−を表象するイメージとなったのだ。自らの正統性を切実に必要としていたその国は、この宗教的シンボルを自らのものとした。またそれは、ナチスがヨーロッパ中のゲットーでユダヤ人に着用を強制した「黄色い星」への返答として意図されたのかもしれない。あたかも新国家が世界に向かってこう宣言しているかのようではないか。かつては恥辱の印であったものが、今では名誉の勲章として生まれ変わったのだと。


いわゆるユダヤ人国家が大量虐殺に従事しており、それが私たちかつてヨーロッパのユダヤ人に降りかかった悲劇を想起させる今こそ、私たちはこの国家に貸し出していた象徴を取り返さなければならない。その奪還を文字通り、物理的に実行することはできないとしても、だ。それでも私たちにはイスラエル国家の犯罪からの離別を宣言することはできる。その国家なるものが、ユダヤ人としての私たちを代表するものではないと断言するのだ。


1995年のこと、入植者のラビたちが集まって、カバラの秘儀であるパルサ・ディ・ヌーラと呼ばれる死の呪いを執り行った。それは、誰かをもはやユダヤ人ではないとして追放し、死刑の対象とする儀式だ。その儀式の標的となったのは、パレスチナとの和平合意を達成した当時のイスラエル首相、イツァク・ラビンだった。この儀式を行ったラビたちによるユダヤ法の解釈によれば、儀式によってユダヤ教から追放された者は殺害することができる。まさにそれが、儀式が行われてからわずか数週間後に起こったことだった。あのラビたちの信奉者によってラビン首相は暗殺された。

 

イスラエル国家に対して、私たちなりの象徴的なパルサ・ディ・ヌーラを実施する時が来たようだ。つまり、イスラエルを私たちの宗教から破門するのだ。イスラエルが私たちを代表するものではないと宣言しなければならない。そして、それをもはやユダヤとは見なさない、と。


人によってはこれに違和感を感じるかもしれない。しかし、もし私たちがそうしなければ、世界はイスラエルが私たちユダヤ人の代弁者だと信じることになる。イスラエルが行っていることは、私たちが行っていることだと思われる。そして私たちもまたイスラエルが犯す犯罪の共犯者だ、と。実際、イスラエル以外のディアスポラ(離散地)に住む私たちユダヤ人はイスラエルとひとくくりにされて、非難にさらされている。私たちに危害を加えれば、イスラエルに対して危害を加えたことになるというわけだ。こうした状況に対してN Oと言う時が来た。私たちは私たちだ。イスラエルはイスラエルだ。私たちはイスラエルではない。


現実はどうか。イスラエル国家がやっていることは、それ自身のために行われているのだ。戦争、汚職、殺人は宗教ではなく国家の名の下に行われている。国家は政治と権力に基づいている。イスラエルはその完璧な例だ。しかし、宗教は魂と価値観に基づいている。国家と宗教は全く相容れない関係にある。


だからこそイスラエル軍は、かつて神聖なユダヤ教の象徴であったものをガザの地に刻み込むことになったのだ。それはチルル・ハシェム(神の名の冒涜)に他ならない。ユダヤの象徴とユダヤ教そのものに対する冒涜。


創世記には、男と女は神の霊によって創造されたと記されている。そしてその人間の命、すべての人間の命は神聖だ、と。預言者たちは後にこう宣言した。「主は言われた、強制によってではなく、権力によってではなく、わが霊によって、と」。これが私のユダヤ教だ。(つづく)




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