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[new-slothml:419] レイジーマン物語の感想

こんにちは、矢野宏和です。この暑い中、長々と申し訳ないと思いつつレイジーマン物語を感想を書いてみました。


 これまで、私はコーヒーという作物をめぐって、いくつかの物語を書いてきた。それらの物語には常に共通する設定がある。それは近代農業や開発による環境破壊や生活文化の崩壊があり、そうした状況に対抗し、自然の摂理に添った農法でコーヒーを作っていく。そしてフェアトレードを通して、みんなで豊かになっていこうとするストーリー。

 ブラジルの「ジャカランダコーヒー物語」においては、近代農業に対抗して有機農業に取り組むことを、ジャカランダ農場主のカルロスさんは「戦い」と表現していたし、エクアドルの「インタグコーヒー物語」では、鉱山開発から森を守るための取り組みという設定だった。

この度、辻信一さんが書かれた「レイジーマン物語」もまた、同じような設定をもっている。近代農業によって破壊される森。そしてそこに暮らすカレン族の人々の生活文化もまた壊され、迫害されていく。そんな状況から、元々あった豊かな暮らしを取り戻していく物語。ここでもコーヒーは大きな役割を担う。

物語として描く以上、森や自然との共生を目指す人々と、その背景の説明は欠かせない。どのような自然破壊があり、いかにして人が傷つき、このままだと、どうなるのか。そんな背景があればこそ、森林農法、有機栽培、フェアトレードの重要性は明確に示せる。同時にそれは、フェアトレードを営む会社で働く、私の営業トークの基本になる。営業トークと書けば、ちょっと軽く感じられてしまうけど、それを伝えることは自分の使命に他ならない。

ただ。時々、思うのだ。私のそんな使命感とは別のところで、誰に知られることもなく、静かに淡々と、森での生活や森林農法を続けている人が、どこかにいるのではないか、と。それに比べて、正義のヒーロー気取りでストーリーを語っている(と、そこまで自分を卑下しなくてもいいと思うんだけど、でも、いい気になって語っている自分を省みることはあり・・・)、自分の次元の低さみたいなものを、感じてしまうのだ。それは、静かに森で生きている人への、憧れからくるものなのか。

いずれにしても、これまで何の迷いもなくコーヒー物語を書き続けてきた私にたいして「それでいいのか?」と疑問を投げかける、もう一人の私がいる。人が自然に即した農業を営むのに、非自然な近代農法や鉱山開発といった対立的な構図は、必要なのか?戦う相手、つまり相対する要素がなければ、自然な営みに価値は見いだせないのか?そんな問いが心に思い浮かぶ。

違う、と私は思う。自然とは完全かつ絶対的なものであり、太陽がそこに在れば、まわりがどのような状況であれ、問答無用にそこに在るものだ。それを勝手に比較して価値づけしているのは、私自身だ。

非自然より、自然を選ぶことで、自分は正しい人間なのだとアピールしたい。そんな私にとっては、非自然を選ぼうが、自然を選ぼうが、実はあまり大差ない。私が気にしているのは、自分がどう評価されるかであり、そもそもの動機のところからして、すでに道を踏み外しているのだから。

では、どう進んでいけばいいのか、と迷う私にたいして、この「レイジーマン物語」の主人公であるジョニさんは、明確な方向性を示してくれている。それは「あなた自身が自然の一部になりなさい」ということ。すべては、ジョニさんの思想の基盤を形成している、カレン族の教えにあった。

 農業近代化の流れに乗って模範的な農民となったジョニさんは、功績を称える賞状も授与されるほど、世間的には評価されていた。でもジョニさんはそんな状況にたいして「何かがおかしい」と感じ、毎日自由気ままにしたいことだけをして暮らすようになる。

この転換のプロセスで、ジョニさんは奥さんから「こんななまけ者と一緒になったつもりはない!」と激怒される。さらに、周囲の社会との軋轢も生まれていったという。もはや自分の価値や正しさどころではない。世間的には完全なドロップアウトだ。

 では、ジョニさんは、いかにして、そんな状況に対応したのか。その答えは、カレン族の教えにある、「謙虚であれ」という言葉にあった。謙虚であれば、待つことができる。人それぞれに生きるペースがあり、幼児には幼児の、若者には若者の、老人には老人の生きるペースがある。それに抗うのではなく、それぞれのペースを受け入れることが、他者への思いやりとなり、敬意となる。自分のことを「なまけ者」と批判する人にたいしても、その人のペースで、理解してくれる時が必ず来る。ジョニさんが実践したのは、それを信じて、謙虚に待つということだった。

「謙虚」という言葉の語源を調べ、それが「腐葉土」であることが分かると、私はその言葉の奥深さをさらに実感することができた。謙虚と腐葉土。この二つの言葉のつながりから、私の脳裏には、こんな詩が浮かんだ。

  「腐葉土の星々で」

競い合うようにして咲く花たちは

夏の終わりを待たずに腐葉土となる

どんなに誇っても嘆いても

最後はともに新たないのちの支えとなる

その佇まいは宇宙の闇にあって

燐とした光を放つ星のよう

そんな宿命のような静けさを

誰もが抱えているはずなのに

なぜに咲き争う?

虚ろな瞳のなかに

小さき光を灯したい

 私が勝手に夢想するに、ジョニさんはそんなところにまで、自分を掘り下げていけたからこそ、世間的な価値を捨てることができたのだろう。その結果、たどり着いた境地が、「私もあなたも、みんな自然の一部なんですよ」というジョニさんの言葉に表現されている。

 ジョニさんはその後、カリスマ的指導者として、カレン族の森を守る運動の先頭に立っていくけれど、ジョニさんが実行したのは、自然の一部として、腐葉土のように謙虚に、「自分のしたいことだけをしていく、ということだったのではないだろうか。対立要素を設定し、それを打ち負かすことによって、自らの価値を高めようとするのではなく・・・。

 「レイジーマン物語」を読み終えて、私の気持ちは晴れやかだ。私はこれからも様々なコーヒー物語を書き続ける。それは変わらない。でも、私が改めたいと思うのは、私の心境であり、マインドセットの在り様だ。願わくは、風と戯れるひとひらの葉のように。

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