ナマケモノ倶楽部メンバーで建築家の大岩剛一さんが他界されてから一年が経ちました。辻さんの追悼コラム、剛一さんの「あいだ」の思想をブログで紹介させていただきましたが、今日は、昨年5月3日に辻さんがナマケモノ会員向けに書いたメーリングリストの文章を紹介させていただきます。
人は誰でも、生まれたときから死に向かって、それぞれの時間を生きています。残された生の時間がわずかだと知ってから、剛一さんとご家族・友人たちで企画された最後の「花見の宴」。深い愛情と慈愛とともに綴られた辻さんの文章を読み返し、「いのちの奇跡」について考えさせられました。
改めてご冥福をお祈りいたします。
2019年5月3日
ナマケモノ倶楽部の仲間たちへ
ナマケモノ倶楽部創設メンバーの一人であり、長年、スロームーブメントを共に担ってきた同志、設計建築士、建築学者、地域学者であり、わが敬愛する兄である大岩剛一が、4月29日未明、逝去したことをここに深い悲しみとともにお知らせします。
ぼくにとって、彼のいないナマケモノ倶楽部とスロー運動はあり得ませんでした。エクアドルの北部沿岸のマングローブ地帯での活動の中で、ナマケモノという素晴らしい動物に出会い、魂を揺り動かされた時も彼と一緒でした。
ナマクラ創設後間もなく、共にオーストラリアやアメリカを旅して、ストローベイルをはじめとするエコロジカルな建築について調査した時も一緒でした。それらの経験を、彼はそれまでの30年に及ぶ設計士としての実践や、建築学や地域学の研究と融合して、スローデザインという分野を切り拓きました。
同様に、彼にとってのこの20年もナマクラなしには語れません。エコでフェアで平和な世界を目指すその運動の一員であることを彼は常に誇りにしていました
3年前、大学教員としての仕事場であり、彼の地域学の研究フィールドでもあった滋賀県の湖西地方に妻のゆりさんと共に移住することを決意、自ら設計した家を建て、「藁舎(わらや)」と名づけます。その名の通り、稲わらのストローベイルや琵琶湖の葦の壁を持つ家です。
彼の身体を蝕み始めていた腫瘍が発見されたのはちょうどその頃のことでした。それからの月日は、通常の人生の苦しさや哀しさ、そして歓びを何倍にも濃縮したような、深く豊かな時間だったに違いありません。それこそが「スローライフ」の真の意味だというような。3年かけてやっと、生物多様性を体現するような、小さな森へと育っていくはずの庭が完成し、花と新緑の季節を迎えたのを見届けるように、彼は旅立ちました。
4月1日のエイプリル・フールに病院を退院、生き続け、そして死にゆく場所としての自宅に、そして愛する家族、友人たち、隣人たちの元に戻りました。早速、ぼくは彼の頼みで、ブータンから彼が持ち帰った「ルンタ(風の馬の意)」と呼ばれる五色の祈祷旗を、三本の庭木の間に張りました。
その作業を見守りながら、あれこれ指示を出す彼のこだわりようは、今思えば、まるで画竜点睛の故事のように、この「風の馬」の登場をもって、彼の住処という作品が完結するとでもいうかのようでした。
その日の夜だったと思います。彼は夢の中で、空を駆ける馬になりました。それがあまりにリアルだったのでしょう、目覚めた時に彼は、随分走ってくたびれた、と言ったそうです。
同じ頃、彼はその同じ家に親族や友人たちを招いて、彼なりの「生前葬」である「スローデスと花見の宴」を催すことを決意します。これがその時の招待状です。
スローデス・花見の宴へのお誘い
旅立ちの時が緩やかスローに近づいています。愛する家族や友人たちの祈りに包まれながら、ぼくは生き続けるための努力の傍らで、今生に別れを告げる準備を始めています。
この度、ようやく庭も完成した琵琶湖西岸の我が家、「藁舎わらや」にて、ささやかな宴を開く運びとなりました。自然の恵みの塊のようなこの住まいに集い、春の花々を楽しみながら、私たちがこうして生きてきたこと、そしてその中で奇跡のように出会ったことをただただ祝福したいのです。これは、ずっとわがままに生きてきたぼくらしいわがままだと思ってご容赦ください。
あまりにも急なお知らせで、ご都合がつかないという方も多いことでしょう。どうか無理をなさらないでください。くれぐれも来られないことで自分を責めたり、苦にされたりしないように。心と魂で繋がってくださればそれで十分。このお知らせそのものが、ぼくの人生をこれほどに豊かで美しいものにしてくれたあなたへの感謝の表現なのです。本当に、本当にありがとう。
愛と感謝を込めて
大岩剛一
当日、彼はぼくがタイから持参した「Happy Death Day」のTシャツを着ました。中村隆市さんや二葉テリーさんはじめナマケモノ倶楽部ゆかりの友人たちも参加してくれました。
ゴンドラの唄
”いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを”
1番を歌い終えると、
兄は「2番まで歌います」と言い、
少し呼吸を整えてから、
最後まで見事に歌いきりました。
”いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを”
当日参加した30余名の親族や友人たちを前に彼が語ったように、そして自分自身に言い聞かせていたように、それが区切りの日となりました。峠を越えて急な坂道を下りはじめたかのように、その日を境に彼は衰弱していきます。
4月の4週間を通じて多くの人々が、まさに終わろうとしている彼の人生を祝福するかのように、藁舎を訪れました。人ばかりではありません。旅立ちを目前にして、ホース・セラピストの友人、寄田勝彦さんが、突然白馬を連れて現れました。
バルコニーに乗って介護ベッドに近づいたその馬に、兄は目を見開きながら、不自由な腕をなんとか伸ばしてその顔に触れたのでした。それが「お迎え」で、彼は本当に馬に乗って空へと飛びたっていったのだ。そう思えたのは、寄田さんとぼくだけではなかったのです。
ゴーイチという自分の名前と縁の深い(?)日を選んだかのように、兄の遺体は荼毘にふされました。それは藁舎にほど近い、蓬莱山と琵琶湖に挟まれた美しい火葬場でした。
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