『ムダのてつがく』が来年早々に出版される。ぼくにとって久々の書き下ろしの単著だ。
ぜひ読んでいただきたい。(1月11日には刊行を記念したオンライントークも開催。詳細はこちら)
終章に、ぼくはこう書いた。
「役に立つかどうか」という視点から物事をみることを功利主義という。本書は、その功利主義へのささやかな挑戦である。功利主義が怖いのは、この心の習慣{マインドセット}に慣れきってしまうと、ぼくたちはしまいに、自分自身をも含めて、この世界のありとあらゆる物事が「役に立たなければならない」という一種の強迫観念に陥りかねない、ということだ。「役に立つ」物事ばかりでできている世界で、役に立たないモノやコトやヒトは、「ムダ」としてさげすまれ、切り捨てられることになるだろう。
ムダについて考え直すとは、だから、「役に立つ」という見かたそのものを疑い、揺さぶってみることで、功利主義に凝り固まったマインドセットから脱け出すことにちがいない。確かに、そのためにはちょっとした勇気がいる。あなたがその勇気を見いだされんことを。本書がその手助けとなれたなら、幸いだ」
ここでは、冒頭の「はじめに」と、「序章」の導入部だけ、予告編のつもりで読んでいただきたい。
<はじめに>
コロナ禍のただなか、東京のあるカフェではじめてお会いした、若い編集者の嘆きから、この本は始まりました。世間に鳴り響く「不要不急を避けよ」の大合唱が、その女性の心にストレスとなって覆いかぶさっているようでした。彼女は言うのです、「不要不急がなくなった世界を想像してみて!」。そして、ぼくにこのような時代にふさわしい「哲学」の本を執筆してみないか、と提案してくれたのでした。
ぼくは哲学者ではありませんが、しかし、こう思っています。「哲学」はわからなくても、「てつがく」はいつもやっている。スリランカのクーマラスワミという人の名言に、「芸術家とは特別な人のことではない、すべての人が特別な芸術家なのだ」があります。ぼくはそれにならって、「てつがく者とは特別な人のことではない、誰もがみんな特別なてつがく者なのだ」と言いたい。
ぼくは文化人類学とか、スローライフとか、ナマケモノ倶楽部とか、世間からは不要不急と思われるようなことばかりやってきたし、一方では、資源やエネルギーのムダ使いに反対する環境運動やシンプル・ライフ運動にも携わってきたので、「ムダ」というテーマとは深い縁で結ばれているような感じがしていました。
あらためて「ムダ」という言葉のレンズを通して眺めてみると、とたんにいろんなことが見えてきます。そして、たしかに最近、「ムダ」に対する風当たりが強まっていることに気がつきます。駅や電車で、人びとの視線に否応なしに飛びこんでくるのは、ばい菌、体臭、シワやシミ、〝ムダ毛〟、ぜい肉などを体から除去することを人々に迫る広告です。
そこには、ムダをはぶく努力を怠る人には何らかの社会的なペナルティが科せられることが暗に示されています。
タイムパフォーマンスからきたという〝タイパ〟という新語は〝時間対効果〟を意味し、時間からムダを除いて効率をあげたいという意識が背後にあります。映画を要約した〝ファスト映画〟も、イントロを短縮したり、はぶいたりするヒット曲も、短時間で必要栄養素を含む食事を終えられる〝完全メシ〟も、「ビジネスに役立つ」「10分でわかる」といったうたい文句で、短時間で概要のみを理解させようとする風潮も、みんなタイパの類でしょう。
どうやら、ムダが忌避され、敵視されている。ぼくたちはムダを恐れ、そこから逃れようとしているようです。そして、その傾向はますます強まっている。
ふとムダの身になって考えると、ずいぶん生きづらい世の中になっているにちがいありません。そして、ムダにとって生きづらい世界とは、はたしてぼくたちにとって生きやすい世界なのか、そんなことも考えてしまうのです。
「わかりやすく書くように」という編集者のリクエストはよくわかりますが、「わかりやすさ」ばかりが重宝される世の中の風潮にも注意する必要があります。ぼくたちの人生の大部分はわからないことでできているのだし、どんな学問だって、ひとつわかったと思ったとたん、またいくつかのわからないことが現れている。そんなものです。だから「わからなさ」も大事にしながら、それでもできるだけわかろう、わかってもらおうと、考え、書いていきたいと思います。
これからの筋道のぼんやりとしたイメージを頼りに、脱線、寄り道、後戻りを恐れず、スローに、慌てずに、進んでいこうと思います。
<序 章 ムダについて考えるということ>
ムダについて考えることはムダではない
ムダについて考えること。それはムダどころか、ますます重要になっている。ムダについて問うこと。それは、じつは重い問いであり、答えることの容易な問いではない。
いまや自然界を、社会を、そして人類全体を脅かす、水やエネルギーのムダ使い、食料廃棄というムダ、動植物のムダ使い。資源のムダ使いから、時間のムダ使い、人間のムダ使いまで。
ますます多くの人々を悩ませている問いにも、「いまやっていることはムダなのではないか」から「生きていることはムダなのではないか」まで。
これらの問いにどう向き合うか。この問いのすぐ後ろに潜んでいるかもしれない罠(わな)に陥ることなしに、これらの問いに答えることはできるだろうか。
ムダはなぜ、こんなに増殖しているように見えるのか。ムダはいつ生まれたのか。人類が誕生する前にムダはあったのか。ムダは本当にムダなのか? ムダをムダにしているものは何か。
こうした問いを抱えて、ぼくたちはどこへ向かうのだろうか。「いや、いまやっていることはムダではない」と答えることはできるのか。「いや、生きることはムダではない」と断言することは可能なのだろうか? いや、そう答えることが、はたして本当の答えなのだろうか? それとは違う方向へと進むことはできないのだろうか?
ムダの定義
ほとんどの人が、ムダはいいことではなく、どちらかと言えば悪いことだ、と思っているだろう。それはそうだ。「無駄」という言葉そのものが最初から否定的な意味を背負わされているのだから。でもある物事についてあれこれ考えようとするときに、最初から、それがいいか、悪いか、と決めつけてしまうのは、よくない。そこで考えが停まってしまうから。悪いことだと決めつけてからあれこれ言っても、それこそムダな議論になるだけだろう。
もちろん、「ムダなことはよくないこと」という常識がまかり通っているのは事実だ。いま、ぼくが口にしたばかりの、「ムダな議論」という表現も、その「ムダな」とは、言うまでもなく、「無益な」という意味で、それがいいことと見なされていないのは明らかだ。
ムダに関することわざがたくさんある。石に灸(きゅう)、犬に論語、牛に経文(きょうもん)、馬の耳に念仏、画餅(が べい)に帰(き)す、死に馬に鍼(はり)を刺す、豆腐にかすがい、獲らぬ狸(たぬき)の皮算用(かわざんよう)、糠(ぬか)に釘、暖簾(のれん)に腕押し、棒に振る、骨折り損のくたびれもうけ、水の泡、元の木阿弥(もく あ み)、焼け石に水……。まだまだある。なんでこんなに多いのだろう。
「無益」ということに古くから、人々は強い関心を寄せていたのだろう。それでも、こう考えて
みる余地はある。「ムダ」が「無益」だという際の「無益」とは何か、ということだ。いつ、誰
にとって、どんな文脈で「無益」だといわれているのか、と。
辞書にはこうある。無駄とは「役に立たないこと」。「それをしただけの甲斐(かい)がないこと」「効
果がないこと」、また、そのさま。無益。そして、それはこんなふうに使われる。「無駄な金を使
う」「時間を無駄にする」。
類語としてこんなものがある。無意味、甲斐(かい)ない、不毛、詮(せん)ない、むなしい、もったいない、台無し、ふい、おじゃん、不経済、空費、浪費、非実用的、無価値……。
ムダで始まる言葉には、無駄足、無駄金、無駄口、無駄毛、無駄死に、無駄遣い、無駄骨、な
どがある。
あるものがある人にとってはムダ(無益、無意味)ではあっても、ほかの人にとってムダではない、ということはよくある。一方、誰にとってもムダがよくないことを意味することもある。たとえば、「ムダにする」や「ムダになる」というふうに動詞的に使われるときは、ムダにされたものが何であっても、それはふつう、よくないことだと感じられる。英語でいえば、ウェイスト(waste)、先の浪費や空費などがそれに当たる。
誰かが何かを「ムダにする」とき、当人が残念な気持ちになるのはもちろん、周りの人たちも気の毒に思う。「もったいない!」という言葉が出てくるのはそんなときだ。
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