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奇跡を信じよう

海外への、そして国内への、長い旅から戻った。


ウクライナの戦争のせいで、ロシア上空を避けて北極へと迂回するために、ロンドンまでは以前より四時間余計にかかった。そのことへの不平を胸に、次から次へと映画を見ていく多くの人々の中の、ぼくも一人だった。出発前にすでにウクライナの戦況を表現するためとして使われ始めていた「こう着状態」という言葉は、2ヶ月経った今では、まるで看板のように貼り付いてしまっている。10月7日、ぼくがベルリンにいるときに、パレスチナのハマスによるイスラエルへの残虐な攻撃が起こり、以来、イスラエルによるガザへの激しい空爆が続き、今では地上部隊による侵攻にまで事態は悪化してしまっている。




フランスにいる間は、混乱を引き起こそうという企みだろう、あちこちで爆破予告が続き、列車での移動を予定していたぼくをヤキモキさせた。さっさとウクライナからパレスチナへと鞍替えしたかのようなメディアを揶揄したル・モンド紙の漫画では、ゼレンスキー氏らしき人物が一斉に他へと移動する報道陣に、「まだ終わってないんだけど・・・」と言っている。



ハマスへの徹底報復を唱えるイスラエル支持のデモを許可する一方で、イスラエルへの抗議デモは禁止するというフランス政府の内務大臣の方針が、世論とE Uからの批判を浴びて撤回された。イスラエルに対する抗議と即時休戦を求める悲鳴のような声が世界中で高まっている。ガザだけでなく、ヨルダン川西岸地区も心配だ。そこに住むパレスチナ人の友人たちの無事を祈る。


以下、帰国して以来、ぼくが目にした多くのニュース記事の中から、二つ紹介したい。① ②

もう一つ、ぼくがイギリスに発つ直前にお目にかかり対話させていただいたジョアン・ハリファックス師の『コンパッション』から、「アングリマーラ経」についての文章を引用させていただこう。③

 

憎しみの連鎖の中で、「赦し」は奇跡のように思われる。しかし、その奇跡を信じよう。



 


① 2023年10月18日 朝日新聞

 ガザへの地上侵攻、国際法が「都合良く解釈」される恐れ by ニーブ・ゴードン

  

パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスへの報復として、イスラエルがガザ地区に地上侵攻するとの臆測が強まっています。こうした動きは、国際法としてはどのように解釈されるのでしょうか。イスラエル出身の国際法学者で、英国中東学会の副会長でもあるロンドン大クイーンメアリー校のニーブ・ゴードン教授に尋ねました。


 ――まず、10月7日に始まったハマスによる攻撃について聞きます。法的にどのように判断されますか。

明らかな戦争犯罪です。ハマスはイスラエルに侵入し、民間人に対して凶悪犯罪を行いました。音楽フェスでは260人の殺害が確認されていますが、それ以外でも、数十の村や町に侵入し、民間人を襲いました。私も3人の友人を失いました。


ガザ地区への地上侵攻、国際法的には?

 ――では、そうした行為の報復として、イスラエルがガザ地区に地上侵攻するというのは、国際法的に許されるのでしょうか。

 国連憲章第51条では、国連加盟国が武力攻撃を受けた場合のみ、自衛権を行使することを認めています。イスラエルは「ガザに入ることは自衛権の行使だ」と主張するかもしれません。

 ただ、問題は、ガザは200万人超が暮らす場所であり、戦場でも軍事基地でもないということです。イスラエル軍がガザに入れば、多くの民間人が殺害されるでしょう。(レバノンのイスラム教シーア派組織)ヒズボラが大規模なロケット攻撃を仕掛けたり、あるいは北から地上攻撃をしたりするかもしれません。イランを巻き込んだ大規模な戦争に発展するおそれさえあります。

 ――イスラエルはガザ地区への水や食料、燃料の供給を止めました。ただ、欧米諸国の指導者の多くは、このことを声高には批判していません。

 客観的に見れば、その行為は戦争犯罪であり、国際法違反です。欧米諸国について言えば、現実的な政治的アプローチに従って動いており、ある者の戦争犯罪を非難し、別の者の戦争犯罪は非難しない、という意味で二枚舌だと言えます。

 (今回のハマスの大規模攻撃は)「イスラエルにとっての911(米同時多発テロ)だ」と言われていますが、多くの意味で確かに、「911の誤り」のくり返しになるかもしれません。つまり、米国の911後の行動は中東のあり方を変えました。

 アフガニスタンとイラクを大混乱に陥れ、そこに米軍を駐留させ、20年間ほどで何千人もの米兵が亡くなりました。だが、「では何のために」という疑問が残ります。


物議醸した「避難勧告」と「人間の盾」

 ――イスラエルは、ガザ地区北部に暮らす110万人に対して、避難勧告を出しました。この点については、法的にどう評価されますか。

 (1949年の)ジュネーブ諸条約では、被占領地域の住民の強制移動は禁止されており、これに該当する可能性があります。ケージの(ようなガザ地区の)中で、一方から他方へ行けと言われ、しかも、水も電気もないわけです。

 今回の件は48年の「ナクバ」(イスラエルの建国に伴って、約70万人ものパレスチナ人が周辺国などに難民として追いやられた「大破局」)を思い起こさせます。民族浄化行為です。ガザ地区北部に暮らすパレスチナ人の多くは、難民の子どもや孫でしょう。彼らは南に行けば、北に戻ることが許されないと恐れています。また一方で、とどまれば「ハマスの人間の盾」とみなされ、殺されることになります。

 病気で移動できない患者も、70~90代の高齢者もいます。イスラエルはいったい、何を求めているというのでしょうか。

 ――ゴードン教授のある論考の中で、「イスラエルによる国際法の操作」という言葉がありました。具体的に何を意味しているのでしょう。 

 一例をあげると、イスラエル軍があるビルを爆破しようとするとき、屋上に爆弾を設置した上で「10分以内にビルから出るように」と警告します。「警告したのだから合法だ」という論法です。ジュネーブ諸条約では「予防措置」として、巻き添えによる民間人の死亡を最小限にとどめることが求められていますが、それを自分たちの都合の良いように解釈したものです。

 もう一つ、「人間の盾」を例に説明します。「人間の盾」を使って自分たちを守ることは国際法上、禁じられています。ただ、「人間の盾」を取られた相手方の交戦規定は緩和されることになります。

 言い換えると、イスラエルとしては、「我々は全ての民間人に南に移動するよう勧告した」という主張をすることで、「残った人間はすべて人間の盾だ」として殺害可能な存在にしてしまうのです。それはイスラエルの問題ではなく、ハマスの問題だ、と。

 そこで起きていることは、パレスチナ人の「非人間化」であり、それが致死的な暴力の正統化・正当化につながっています。


国際法は「正義の道具」なのか

 ――この局面において、国際社会に求められることはなんでしょうか。

 とにかく、緊張緩和に向けてイスラエル政府に働きかけることです。また、ハマスに対して拉致したイスラエル人の解放を求めることです。

 ――あえて最後に聞いておきたいのですが、国際法がないがしろにされている現状で、国際法はまだ、役割を果たせるのでしょうか。

 国際法を放棄するわけにはいかないでしょう。ただ、国際法が正義をもたらしてくれるという考えは甘いです。国際法は必要だとは思います。ただ、私は必ずしも「正義の道具」だとは思わないし、しばしば、おそろしい犯罪を正当化する道具にもなってしまうのです。

     ◇

 Neve Gordon 1965年生まれ。米ノートルダム大で博士号取得。国際法や人権の専門家で、特にイスラエルとパレスチナの問題に詳しい。イスラエルのネゲブ・ベングリオン大で17年間指導した後、英国へ。英国中東学会の副会長も務める。(聞き手・藤原学思




③ ジョアン・ハリファックス『Compassion コンパッション』266~269


 刑務所の中で仕事をして、自分を他者より強いと感じるから迫害者になるわけではないと分かりました。自分のほうが「弱い」と感じているからこそ、大抵は隠された恥辱に苦しんでいるからこそ、迫害者となるのです。こうした人は自らの脆弱性(バラネラビリティ)に不安を抱いており、他者に対する攻撃は、自らの保身をはかる手段なのです。

 塀の内側での活動中、仏教が伝える殺人鬼アングリマーラの物語を度々思い返していました。適切な環境においては憎悪も変容を遂げられることを示す物語です。ブッダの時代、アングリマーラという名前を聞いただけで人々は震えあがっていました。その名は「指の首飾り」を意味します。次々と人を殺してはその指を切り取って飾りにしていたからです。『アングリマーラ経』によると、「残忍で、手は血にまみれ、殺しに身を捧げ、命あるものに一切の憐みをかけなかった」とあります。アングリマーラは、人殺しに執着して、村々とその地方全体を荒廃させました。

 ある日、ブッダが托鉢にまわっていると、村人や牛飼いや農夫が、アングリマーラが近くにいるから身を守るよう警告しました。ブッダはその忠告に構わず、静かに托鉢を続けました。ほどなく、駆けてくる足音が迫り、背後から止まれと命じる怒声が聞こえました。ブッダはそのままゆっくりと歩き続けました。ブッダが神通力を用いたので、アングリマーラは近づくことができず、どんなに懸命に走っても追いつかないのでした。怒り苛立った殺人鬼は、世尊に対して「止まれ、修行者よ!、止まれ!」と怒鳴りました。

 ブッダは「私は既に止まっている。アングリマーラよ、私は確かに止まっている。止まっていないのは汝であろう」と答えました。

 驚いたアングリマーラは、ようやくブッダと顔を合わせることができました。ブッダは穏やかな澄んだ瞳で彼を見つめました。アングリマーラはさらに驚き、ブッダになぜ怖がらないのかと尋ねました。ブッダは旧知であるかのように彼を見つめ返しました。

 アングリマーラは言いました。「僧侶よ、おまえは歩いているのにずっと前から止まっていると言う。止まっていないのは、このおれだと言ったが、どういう意味だ?」

 ブッダは、自分は他者を傷つけるのを止めている、他者の命を大切にすることを学んでいる、と答えました。

 アングリマーラは、人間が互いを気にしていないのに、なぜ自分が人のことを気にかけねばならないのか、万人を殺さないと気がすまない、と言います。

 ブッダは静かに、アングリマーラが他者によって苦しめられてきたことは分かっていると伝えました。アングリマーラは、師に虐げられ、仲間の弟子に軽蔑されていたのです。「人間は無知によって残酷になる。しかし人間は理解し合うこともできる」とブッダは説きました。

 そして、ブッダは、アングリマーラの目を深く見つめながら、自分の弟子の僧侶らはコンパッションを実践し、他者の命を守ることを誓っていると話しました。「憎しみと敵意を思いやりに変容させる道のりは、ダルマ(仏法)によって導かれる」。

 ブッダはアングリマーラに、これまで憎しみの道をたどってきたとしても、これからは赦しと愛の道を選ぶべきだと勧めました。これを聴いて、アングリマーラは根幹から揺さぶられました。悪の道をあまりに長く歩んできたことに気づき、道を戻るには遅すぎるのではないかと懸念しました。ブッダは決して遅すぎることはないと応じ、アングリマーラに深い理解を育む道へ向かうよう諭しました。そして、アングリマーラが思いやりとコンパッションの人生に身を捧げるなら、彼を引き受けるとブッダは誓いました。アングリマーラは泣いて武器を手放し、憎しみと敵意を捨ててブッダの弟子になると約束しました。



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