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執筆者の写真辻信一

「健康ってなんだっけ」ホームワーク (その1)

10月29日夜、オンラインカフェ&バー「ゆっくり堂」に三砂ちづるさんをお迎えする。お題は、「健康ってなんだっけ!?」(イベント詳細はこちら)。


恋愛、性、出産、育児などの分野を縦横に論じる多くの著書で知られる三砂さんだが、元々は疫学者でもある。その彼女がコロナ禍の中でどう感じ、何を考えているのか、気になっていたし、ゆっくりお話を聞きたいものだと、ずっと思っていた。だから、今度のイベントはぼくにとっては待望の機会だ。



その話に向けてのホームワーク用に活用していただければと、以下、いくつかの論考を紹介しておきたい。まずは、三砂さんの新刊『おむつなし育児』(改訂版)についてのぼくの書評(orファンレター?)

このURLをメールでお送りしたところ、三砂さんが、そのすぐそばにあった疫学者母里啓子さんへのインタビューとそれをめぐるブログ記事「こわいのはパニックとワクチン待望論(資料編)


に共感してくれた。そして返事のメールに添付してくれたのが、日本健康学会(元民族衛生学会)」の今年の初めの学会誌に三砂さん自身が書いた巻頭言だった。(え、三砂さん、健康学会の会長だったんだ(!?)と、日本で学会というものに一つも属さずに“学者”をやり通したぼくは驚いた)。しかも、この12月にはその日本健康学会の第85回大会が行われる。そのテーマが「いま、あらためて健康を問う」だというではないか。 コロナ禍の前に書かれた三砂さんの巻頭言は予言的だ。それはいきなり「健康、とは、何だろうか」という問いで始まる。そしてイバン・イリイチ(Ivan Illich:1926-2002)の言葉が続く。「健康とは、まさに、サービスを、受けるということではなく、サービスには頼らないということである」。そして三砂さんは、それと照らし合わせるように、WHO(世界保健機関)が掲げる「UHC(ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ)」という目標と「すべての人に健康を」という合言葉について、こういう問いを発するのだ。

もちろん近代医療サービスを必要とする人が、一人残らずその恩恵にあずかれるように、ということであるのだが、それは、医療システムから逃れようとする人は、一人たりとも取りこぼすまい、とも、読み替えうる。「サービスには頼らない」などという人は、健康を目指す自律的な人とは呼ばれ得ない、単なる「変わった人」と総括されてゆくのだろう。それでよかったのだろうか。イリイチの問いかけは、今でも新しい。(上記の三砂ちづる「巻頭言」より)



イリイチは『脱病院化社会』(原著は1976年出版)で、医療が、文化の中で伝統的に育まれ伝えられてきた生老病死をめぐる技術を損なってしまう、そしてその結果として健康に対する脅威となるという“医療化”の問題を論じたのだった。医療システムによる支配は、人々が喜び、楽しむ技術ととともに、苦しんだり、悲しんだりする技術、「自己のかけがえのなさを保つ能力」、「ひとりひとりが現実と直面して、自己の価値を表現し、しかも癒し得ない痛みや損傷、老衰、死を受け入れる能力」を損なってしまうのだ、とイリイチは論じたのだった。

こう要約した三砂さんは、さらに、80年代以降変化してゆくイリイチの議論を紹介する。イリイチによれば、医療と健康をめぐる状況は、70年代に彼が思っていたよりもさらに深刻化したと言うのだ。

いまや「苦痛や病気や障害や死というものが人々の手から奪われただけでなく、よりいっそう重要なことが生じている、すなわち、人々は医原的な(医師の診断や治療に代って規定される)身体を獲得しつつある、かれらは自己とその身体を、医師たちの説明する通りに知覚する」ようになった、という。もはや病院、医療、の制度を批判している場合ではなくなった。さて、現代の私たちの身体の知覚は、イリイチの言った通りになってきてはいないか。(同上)

ここで、三砂さんの思いをよりよく理解するために、寄り道して、イリイチ自身の言葉を引用しながら、80年代の彼の考えに触れておこう。まず、82年の講演では彼はこう言っている。70年代には医療化を問題にした私だが、「今日問題にしたいことは、生命を操作する官僚によって作られた健康の概念、つまり、操作可能なものとなった健康の概念です」と。(イリイチ『生きる思想』(藤原書店)より)

現代社会の三つのキーワードとして「クォリティ・オブ・ライフ(生活の質)」、「健康」、「病院」という三つをあげ、イリイチはこう言う。「これら三つの概念のおのおのに対し、私は別の概念を一つずつ対置したいと思います。すなわち、『生活の質』に対しては『生活の技術』を、『健康』に対しては『達者でいること』を、『病院』に対しては『我が家』を」(同上)

1986年には、イリイチはこう言っている。『脱病院化社会』は「医療制度こそが健康を脅かしている」という一文で始まったのに対して、「今日・・・病気をつくり出しているのは、むしろ、健康な身体の追求、ということなのではないでしょうか

狂信的で、しかも細かいところまで規定された自己健康法と、洗練されたバイオ・テクノロジーへの素朴な熱狂とが結びついた奇妙な代物が、医者たちの努力や個人的な医療行為だけでは物足りないといった風潮をますます助長しています」(同上)

医療が原因で病気になったり、死んだりする事態をさして「医原的」というが、イリイチはその言葉をもっと広く、人々の知覚や考え方そのものが医療によって影響され、支配されることをもこの言葉で表現する。「病気、障害、痛み、死の知覚にくわえて、身体の知覚それ自体が医原的だったことに、(70年代までの)私は気づかなかったのです」(同上)

70年代までの若者たちは“身体を持っている”というのが普通だったのに、今では、「自分の身体は自分自身『である』と言います。しかし逆説的なことにそう言っておきながら彼らは、自分の身体を「私のシステム」と呼ぶのです」と、イリイチは言う。つまり、どうやらわれわれはいつの間にか、「私=システム」と考えるようになっていたというわけだ。

・・・自らを対象化する人々、つまり、自らを自分の身体の「プロデューサー」と考える人々を生み出しています」(同上)

寄り道して、かえって道に迷った人がいたら申し訳ない。さて、「巻頭言」を三砂さんは

次のように結んでいる。

現代はUHCの時代なのであって、「健康」を語ることが医療サービスを全ての人に提供すること、であることに、そう簡単に実質的な異論は唱えられない。そうだとしても、わたしたちはこの、人間が生きていく、ということについての理解を深めたいのだ。「健康」を語ることで思索したいのだ。様々な方向から差し込む啓発の光を求め続けたいのだ。(三砂ちづる「巻頭言」)

確かに、ユニバーサル・ヘルスや「すべての人に健康を」と言った言葉は、抗いがたいパワーをもって今や世界に君臨しているように見える。「健康」という言葉が社会の隅々まで覆いつくして、“不健康”や””ナマケモノ”を根絶やしにしてしまう“ユートピア”も、もうすぐそこまでやってきている、と信じていた人も少なくないのではないか。新型コロナ・パンデミックがやってくるまでは。(続く)




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