以下、ap bankのサイトの連載 a sense of Ritaから抜粋させていただく。
その全文は↓
小林:話を少し戻しますが、北アメリカにおられた時代に、もしかしたら先住民、ネイティブアメリカンの人たちとともに、環境活動家としてアクティブな、どちらかと言えばラディカルな活動家にまっすぐに向かっていくと言うような想像もするのですが、そういう面もあるのでしょうけれども、それだけではないというか。 そこから辻さんは、それこそスローとか、GNHとか、ブータンであるとか、アジアのいろんなものの考え方、lazy man、ナマケモノとか。北風さん、太陽さんでいくと、北風さんではなくて、どちらかと言うと太陽さんの力の中で、ほぐれていったり、つながっていったりするという喜びを伝えてこられたようにも思います。ハチドリのお話(※画像)のも、無力かもしれないけどやり続けるという結晶みたいに美しい話だなと思います。そういうところにも展開してこられたと思うんですけれども。
辻:そういうことを順序立てて考えていったわけではないんですけど。ずっと何をやってきたのかと言えば、やっぱり「身を置く」ことだったなと思います。例えば黒人の世界に入っていく。そして、そこで、別に何をするというわけでもなく取りあえず、そこにいるわけです。学者としてプロジェクトを作って目的に沿って客観的に観察したりするというのが、僕はあまりできないんです。だから気づくと、彼らが抱えている問題みたいなものに、どんどん引きずられていって。そしていつの間にか、一緒になって何かをやっている。 北米、中米、南米の黒人や先住民、移民や難民のいろいろなコミュニティの中に入っている時に、自分が感じる居心地の良さ。これなんです、鍵は。もちろん、どこへいっても最初は違和感も感じるわけだし、だいたい僕が行くようなところは、問題だらけなんだけど、だんだん、そういう厳しい条件の中に生きている人々の暮らしの中にあるくつろぎ、安心、楽しさ、喜びみたいなものに触れることになる。そういう感覚に支えられて人々は生きているし、そういうのがなかったら文化は続かない。そうでしょう?それって要するに、いろいろ問題はあるけど、まあ、「生きていて良かったね」とか、「生きていると楽しいね」とか、そんな感覚ですよね。
僕が居心地がいいと感じるのは、世間でいう「弱者のコミュニティ」が多かった。でも考えてみると、人間って誰もが弱さを抱え込んでいる。人間の一生って次々にいろんな弱さを抱え込むプロセスです。その意味で、そもそもコミュニティというものは、その個々人の弱さを補い合ったり、支え合ったりして、生きていこうという「弱さのコミュニティ」なんじゃないか。 ドイツやオランダでは、意識的に障害者をコミュニティの中心において、それを囲むようにして形成されている町があります。僕ら、障害者というと、かわいそうな人たちとか、思いがちだけど、そういうふうにして他人事にしてしまうことこそが問題だと思う。その意味で、障害者問題とは、障害者の問題じゃなくて、健常者の問題なんです。苦労とか辛さみたいなものは、裸でそこに存在しているわけじゃなくて、安らぎとか喜びとか楽しさなどとごっちゃになっている。健常者と障害者、多数者と少数者といった区別以前に、僕たちはみんな弱さのコミュニティの一員なんです。
小林:今、多様な問題、僕も仲のよい友だちでもいますけれど、LGBTの問題、ジェンダーの問題がありますよね。パラリンピックでも、前は、福祉的な思いだったかもしれませんが、そうじゃなくて、そこにすごい感性や、喜びや、僕らが簡単には知り得ないような生きる意味があることを感じるので。そういうことに出会うと、地球も捨てたもんじゃないなと思います。
辻:そう、その「地球」を感じられるかどうかが、今このコロナの時代に問われているんだと思うな。最初にお話ししたように、近くの舞岡の森に毎日通って一時間とかを過ごしてます。「いい運動になる」とか、「森の中では免役力が高まる」とかというテクニカルなこともあるだろうけど、本当に大事なのはそこじゃないとすぐに分かるわけです。そこにただ「いる」ことで感じる心の安らぎや喜び。それは「僕」というより、僕を超えた「命」そのものが感応している、という感じです。地球というのはガイア、つまり、命の星で、僕が通う森は小さな地球です。そして僕という存在はその小さな地球の中の森。そうやってガイアとつながっている、生きている星に生きているということを、一日のうちのほんのちょっとした時間でも感じることができるといいな、と。
確かに、多くの人にとってそういう場所はますます遠のいているように感じると思うけど、なんとか、そういう場所を身近に見出して、そこに身を置く機会を作ってほしいし、また意識的にそういう場所を作っていく、増やしていく試みもこれから大切になってくると思う。まさにクルックフィールズみたいな試みですよね。そういう小宇宙としての森を、草の根で作っちゃおうよ、と。
小林:「ここでみんなにやってほしいことは何か」と言う質問に「さまよってほしい」かなと、ある取材で思いついて言って、この間来ていただいた時に、辻さんにその話をしたら面白がってくださったけど。今の時代って、「時間をお金に換えろ」と、そうやって大人になる。長い歴史の中で言うと、本当に短い時間だけれど僕らが生きている時代では、時間をお金に換えるということが大人になることだと概ね教えられていると思うし、それができてない人間は問題になってしまう。 だけど、時間をお金に換えるだけだと、どうしても利潤追求の競争社会が激しくなるという方向になるし、それだけではサステナビリティにはならない。なので、僕らはどこかで、自由も豊かさも、時空間の中でそれを取り戻さないと。そして、僕らがまだ与り知らないことがあまりにも多い世界だけど、それを想像力で補っていく。想像することが楽しいし、感じられるという。そういうことをいろんな形で伝えていきたい、増やしていきたいと思っているんです。
辻:クルックフィールズって、現代世界に蘇りつつある里山じゃないかな。僕が通っている舞岡の森も里山です。人々がずっと何百年、何千年と暮らしてきた風景がなんとか残されている。縄文土器も出るんですよ。今背景に使っている写真の手前側は森で、前方が谷間になっていて、田んぼがある。またその向こう側が森になるという。典型的な里山の風景です。そういう場所がまだ都会の近くにも残っているので、ぜひつながってほしいですね、この機会に。 また、クルックフィールズのように、壊された里山を再生させていくような試みをあちこちに作っていくことですね。そういう場所では、単に自然環境のことを知識としてテクニカルに学ぶだけじゃなくて、いろんな側面を感じ、学び、話し合えるといいですね。
例えば、コロナが流行し始めてからでも、日本では3月末に相模原事件の判決があり、アメリカなどでBlack Lives Matterの運動も起こっているわけです。7月末には「嘱託殺人」と呼ばれる事件が発覚したり。命の格差とか、命の選別とか、社会のあり方や僕たちの思想を根底から揺さぶるような事件がボコボコ起こっている。これは、ある意味、コロナの時代というものです。 単に、ウイルスにどう対処するかという次元を超えて、どうやってこの世界をリジェネレイトしていくか、再生させていくかという、大きな歴史的な節目にいるんだという思いをみんなと共有できたらいいな。そういう思いに立って、クルックフィールズにまた集まっていろんなことを話したいですよね。
小林:毎週くらい来ていただきたい。(笑)
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