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執筆者の写真辻信一

コロナの時代の「おむつなし育児」  三砂ちづるの言葉



三砂ちづるさんの新刊『おむつなし育児』(改訂版、主婦の友社)が届いた。読んで自分でも驚くほど感動したので、早速、紹介したい。だが、それにしても、男で、しかも育児と無縁そうなこのぼくにとって「おむつなし育児」がなぜ重要なのか。それも、コロナとか、温暖化による災害とか、重大問題だらけの今、なんで? それを伝えたい。

「おむつなし」と何回かパソコンに打っていると、「おもてなし」と打ちまちがえることがある。うん、「おもてなし育児」と言うのも面白い・・・。ダジャレはそれくらいにして、「おむつなし育児」とは、三砂さんによるとこういうことだ。

人間にとって重要な営みである排泄をできるだけ気持ちよく行えるようにと、幼い人に心を寄せること。おしっこもうんちも、出すことって気持ちいいなと、その人生の始まりの頃から感じてもらうこと。

これは今、子どもの出産を控えている人たちや、幼な子を迎えて日の浅い人たちにとって、重要な関心事だろう。でもそれだけではない。もう子育てを終えた人たち、子どもをもつ機会をもたなかった人たちにとっても、「幼い人に心を寄せる」ことは、昔も今も、いつだって、大切なことだったはずだ。「幼い人に心を寄せる」とは、例えば、こういうことだ

私たち大人も、あふれる感情を言葉にすることができない時、つい涙が出てしまう。でもその感情を言葉でうまく表現することができれば、泣く必要はない。赤ちゃんは言葉がまだうまく使えない。言葉をうまく使えないからといって、理由なく泣いているんだ、と、私たちが思っていい、とは言えないように思うのです。

典型的には、母子のあいだで起こってきた、言葉以前の深いコミュニケーションは、しかし、母子という関係をはるかに超えて、家族を、コミュニティへと浸透し、さらに帯水層のように社会を下から支えてきたのではないか。

目の前にいるこの小さな人は、言葉を話すことができないから、話し合って解決したり、言葉で思っていることを教えてもらえたりはしないけれど、私はこの人の言葉になる前の感情をしっかりと受け止めることができる。それは親としての自信のみならず人間として、この世界を生きていくための、大きな贈り物をいただいた、とでも言えるようなことではないでしょうか。

「幼い人に心を寄せる」ことによって、人間は人間となってきたのではないだろうか。この本は、「幼い人」たちが健やかに育つことを願う本であると同時に、幼い人の周りにいる人たちが、人間として育つことを願う本だ。

これからあなたの人生にはたくさんのことが起こることでしょう。言葉で言ってもわからないこと、言葉が通じないこと、言葉で理解できないこと、そういうことがたくさん立ち現れてきます。うまく言葉で話すことができない障害を持った人、病を得た人、年老いた人、異文化で育ってあなたの話す言葉を理解しない人。あるいは、同じ言葉を話しているはずなのに、全く話の通じない人。そういう人たちとのおつきあいを、あなたは長い人生でたくさん経験することになります。

言葉の通じない赤ちゃんだけれども、わたしは赤ちゃんのことをよくわかった、赤ちゃんと気持ちが通じてうれしかった、という経験をしたあなたは、それが何よりの自信となり、きっとそれからの人生でもたくさんの人の信頼を得る、落ち着いたすてきな人になっていくと思います。


コロナ禍という“異常事態”が、少し荒っぽいやり方で教えてくれたのは、ぼくたちが、すでに、いかに異常な状態の中に生きてきたか、ということだった。でもそれだけではない。同時に、その異常状態に慣れすぎて、その異常を正常と感じるようになり、その異常を持続するためにせっせと働かされている、ということだったのではないだろうか。

その“異常”の一面を、三砂さんはこんなふうに見せてくれる。

赤ちゃんとの日々は「面倒くさくて、たいへん」「自分のために時間を使えないから女性にとってストレス」などと言う言葉に囲まれて過ごし、実際にそう思っている人も少なくないと思いますか、大体、「ストレス」とは何だったでしょうか。妊娠、出産、子育てが「ストレス」という言葉で語られるようになって久しいのですが、ちょっと待って。

“ストレス”という言葉がそこいらじゅうを大威張りで闊歩している。かつて、ぼくたちにとってあんなにも大事だったはずのコトやモノが、“ストレス”という名の大きなゴミ箱の中に放り込まれている。そうやって処分してしまえば、人生は、そして世界は、ゴミのないきれいで清潔な場所になるかのように。しかし、実際にはどうだろう。本当の意味でのストレス=生きづらさは積もるばかりで、ぼくたちの人生を、世界を、覆いつくす勢いなのではないか。

「ストレス」には定義があります。生体が生きていこうとする方向とは逆の力や刺激が与えられることによって、生体に生じる歪みの状態がストレスです。生まれて、多くの場合、次の世代を生む生殖行動をして、そして死んでいく。その方向にそうことは、ストレスはなくて、それを妨げることがストレスです。

三砂さんは言う。妊娠や育児は「生の向かう方向と合致していること」であり、親ばかりでなく、周囲の人々にとっても、コミュニティにとっても喜びであるはずだ。これは、文化や時代の違いを超えた、人間の人間たる所以とも言えるような根源的な事実だろう。しかし、その喜びが失われているとすればどうだろう。「子どもができたり、子どもを育てることが楽しい、と思えないような」経済状況や、社会的環境の方こそが、生の方向を妨げる、本当の意味でのストレスなのだ。

だいたい、「あなたがいることは私のストレスだ」と言われながら育つとはどういうことでしょうか。自分がその立場に立って考えてみるとよいと思うのですが、目の前にいる人、しかもあなたが大好きと思っている人に、「あなたは私のストレスの源泉」と言われれば、あなたはやっぱり傷ついてしまいますね。子どもと一緒にいることがそもそもストレスではないし、ストレスである、と思われるだけで、次の世代は深く損われてしまう可能性があるほどに、つらいことなのではないでしょうか。

人間とつきあっていくことはたしかに大変だ。しかしだからといって、それを“ストレス”として投げ捨ててしまっていけない。自然界とつきあっていくことも、大変だ。でも、その大変さを克服しようと、相手を破壊してしまってはいけない。豊かな生を支えるそれらの関係性を“ストレス”と見なし、損なったことによって、ぼくたちは今、本物の巨大なストレスに苦しんでいるのだ。

この大いなるパラドックスを、どう解決するか。そう言うと、あまりに大きな問題でとても自分には手に負えない、と思う人もいるかもしれないが、そんなことはない。答えは意外とシンプルで、手がかりも、実は目の前にある。大きな答えが一つあるのではなく、小さな答えが無数にある、というのが答えだ。三砂さんによれば、答えを求めない、ことこそが答えなのだ。そして、慌てないこと。待つこと。意味があるのかどうかよくわからない、ぼんやりとした時間。それが答えだ。『おむつなし育児』の終わりに三砂さんはこう言っている。

あなたのそばにいる幼い人は、実はぼんやりと過ごせれば過ごせるほど、のちのちの「意味ある人生」を豊かにわたっていけるのかもしれない。・・・幼いときに特有のぼんやりした時間を親といっしょに過ごしたこと自体が、言葉にならない豊かさとして記憶されていく。それはこの本の初めから何度も申し上げている「おむつなし育児は将来何かよいことがあるからやるのではない、赤ちゃんとお母さんの今を明るくするためにこそやる、見返りを求めない、楽しいことである」ということとほとんど同義です。

意味があるのかどうか、わからないぼんやりとした時間、穏やかでゆったりした時間。スローライフ。もちろん、それは赤ちゃんだけの特権ではない。実は、すべての人にとって、そこにこそ生きているということの本質があるのではないか。

・・・お母さん、安心してください。あなたの子供には、あなたの子供の人生が待っていて、ちょっとくらいのあなたの失敗に損なわれたりはしない。顕われるべきものは、親の失敗くらいでなくなってしまったりしない。顕われるものを待っていればよい。・・・才能とか、意味ある人生、とかそういうことが始まる前に、穏やかでゆったりとした、「意味などない」時間が、幼い人には必要であるらしいのです。

ぼくなら、そこで本を終わりにしてしまうかもしれない。でも、やっぱり、三砂さんは「お母さん」だなあ。最後の最後に、「家族は変わるもの」という「あとがき」のような文章の中で、次のような言葉をつけ加えるのを忘れないのだから、やっぱり三砂さんは優しい。

そうはいっても、今がただ、辛い、と言う方もあるだろう。こんな生活耐えられない、と思っておられるかもしれない。今すぐ変えたい、と思っておられるかもしれない。もちろん変えた方が良いことだってあるに違いない。

そのように苦しんでいる人たちに向けて、三砂さんはこうアドバイスする。

それが特に育児とか介護とか人の面倒を見させてもらうことによる辛さ、であれば、ちょっと実践的なアドバイスをしてみよう。「二年、我慢して、待つ」、である。

今は我慢する、とか辛抱せよ、とか流行らない。今は、何事も無理をしないほうがいいし、辛いことが辛いと言ったほうがいいし、我慢をすると具合が悪くなるからやめたほうがいい、素直な気持ちを表してやりたいことをやったほうがいい、と言うことになっている。団塊の世代以降、そのエトスは十分に広がり、無用な我慢と辛抱を人に強要することはいかなる意味でも正しくない、ということになった。それはそれで多くの人を救ってきたが、家族の生活には、やはり、少しの我慢と辛抱が必要な時もある。

「解決のなさ」「意味のなさ」、「答えのなさ」、「役立たなさ」といった数々の「なさ」を、解決したふりをしたり、無視したり、切り捨てたり、処理したりしないで、それに耐える能力。答えを出したり、問題を処理したりする能力(ポジティブ・ケイパビリティ)に対して、こうした「なさ」に耐えたり、つきあったり、解決を先延ばししたり、待ったりする能力をネガティブ・ケイパビリティという。「なさ」に満ちた、宙ぶらりんの、ぼんやりした時間を、「ネガティブ」にとらえ、それを苦にすることにぼくたちは慣れてしまった。


しかし、それはあまりにももったいない話だ。だって、そういう時間は、人生において決して単なる例外的な時間ではなく、むしろ、人生の大半を占める状態なのかもしれないのだから。そんな時間へのぼくたちのネガティブな向き合い方を、ポジティブへと転換させる。ネガティブ・ケイパビリティはその可能性に満ちている。

三砂さんの言う、我慢と辛抱は、サンスクリット語の「タパス」につうじる。熱という意味から転じて、食事におけるスパイスの辛味や、精神修養における苦行をも表す。苦行といってもそれはネガティブな言葉ではない。それは豊かで、味わい深い人生にはなくてはならないポジティブな要素なのだ。「おむつなし育児」はそうしたよき人生への入り口である。


> 三砂さん、 > いつ果てるとも知れなかった梅雨も、猛暑も、なんとか過ぎたのでしょうか。 > カリフォルニアは火星みたいにオレンジ色だし、娘が住むヴァンクーヴァーも煙で最悪の空気だそうです。 > そんな毎日が災害みたいなこの夏にも、三砂さんの新刊のご本がまるで月刊誌みたいに届くのには驚嘆していましたが、ぼくの今の1日はあまりにも早く過ぎ去って、なかなか読書が追いつかない。と思っているところに、また『おむつなし育児』(改訂版)が届き、これは周囲に、関心をもちそうな人たちがいるので、早速、熟読。 > 情報としては以前読ませていただいた本にもあったでしょうが、今度のは、本当に名著ですね。感銘を受けました。NOTEをしっかりとったので、早速周囲に紹介したいと思います。

> やはり、三砂さんの中に積み重なってきた様々な経験と学びが、とても柔らかく、しかも深い言葉を生み出すのでしょうね。 > 小さな本から、人生について、歳をとるということについて、死に向かって生きていくことについて、山積みの困難の中を生きていくことについて、実に多くのことを学ばせてもらえます。 > 単なる解説本じゃなくて、人生論でもあり、三砂さんの自伝のようでもある。 > 赤ん坊の人生について語るのは当然としても、同時に、若いお母さんたちのこれからの長い人生が豊かになるように、という三砂さんの思いが、ここでは、介護とか、看取りとか、とも響きあうものとして、一層深い思想へと昇華しているようです。 > コロナのことには触れられていないようでいて、しかし、このコロナの時代を生きていく上で、何か支えになる本だという気もしました。 > これはクラシックになる本です! > 出版記念のイベントもご計画かと思いますが、ぼくも、仲間たちとやっているオンラインカフェというので、そこにぜひ、出ていただき、お話をうかがいたいと思ったんですがいかがでしょうか? > いつもご本を送っていただき、改めて、ありがとう。 > 9月13日 辻信一

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