8月5日、オンライン・カフェ&バー「ゆっくり堂」に「べてるの家」の向谷地生良さんをお迎えして、「”弱さ”で読み解くコロナの時代」というお題で対談をさせていただいた。その記録は、近日出版予定の『弱さの研究』(くんぷる)という本に収録される予定だ。どうぞお楽しみに。ここでは、その対談での、ぼくの発言を抜粋して紹介させていただく。
<コロナの時代の特徴>
コロナのこの時代というのを三つの特徴で考えることができると思うんです。一つ目は、今まで国境とか民族の違いとか、宗教の違いとかで分断されてきた世界が、いっぺんにコロナに覆われてしまうという、ある種の水平化ですね。僕たちはみな人間として平等に同じ条件の下に置かれ、自然界と否応なしに向き合わされる。いうまでもなく、コロナ・ウィルスは自然界からやってきているわけだけど、向かうから僕らを求めてやってきたわけじゃなく、僕らが森をどんどん破壊し、侵略することで、僕らがこっちへ引きずり出してきた。その結果、こうして人間全体が自然界と対峙する、という図式が非常に分かりやすい形で見えてきたと思うんです。それが第一点です。
第二点というのはそれとは逆に、世界の不平等、不均衡をコロナ禍がむしろ際立たせたということです。この点でも僕たちの想像を超えていた。例えばアメリカだと、黒人やインディアンと呼ばれる先住民、そしてヒスパニック系をはじめとしたマイノリティの間では、感染率、致死率が、白人の人たちと大きく違う。日本でも、エッセンシャル・ワーカーと呼ばれるようになった労働者たちが、危険な現場に立って働かざるを得ないのに対して、大企業で働くホワイトカラーの方は、テレワークというようなことに転換しやすい、というような不平等が浮かび上がりましたね。また、コロナの感染率、死亡率が年齢によってはっきり違うとか、これまでも孤立しがちだった人がますます孤立していく、とか。要するに、僕らの社会の中にすでに存在していた様々な格差の問題がより強調され、よりくっきりと見えてくるという点ですね。
三番目に、コロナ危機の中で日々、世界中から感染者数や死亡者数が伝わってきて、「今日何人?」が日常の挨拶みたいになる中で、個々人が否応なしに、自分の生身の体に向き合う、そして多かれ少なかれ、自分の死を意識する。そしてそれが世界規模で同時に起こっているという非常に珍しい事態だったと思うんです。それ自体はいいとして、問題なのは、個々人がバラバラに、孤立の中で、自分の生と死に向き合う、ということだと思うんです。バラバラな個人一人ひとりが、自分の生存のために動き始める、必死になっていく。これだって、ずっと前から起こっていたことだけど、今度のコロナ禍で、虫眼鏡で見るみたいに見えてきた。トーマス・ホッブズの「万人の万人に対する闘争」みたいに、みんなが自己保存のために、思考し、行動する。でもそれって、もう三十年もこの社会で支配的だった新自由主義の思考法ですよね。弱者切り捨て政策、競争主義、自己責任論もそうです。競争して、負けたら、その結果は自己責任で自分が負わなきゃいけないというような、非常に冷たい社会の中に生きている。そういうことが、また非常にくっきりと見えてきた。
以上三点、一見別々のことなんだけども、実は絡み合っているという状況なんだと思うんですね。
<コロナの時代の合理主義とべてるの非合理>
僕も神奈川ですから、どっちかというと都会の方ですが、やっぱりこちらには浦河などに比べて分厚い幻想があったんでしょうね。コロナでやっと、「え、社会はこんなところにひどくなっていたの?」と気づく人が多かったんじゃないでしょうか。福祉にしても何にしても、溜めというか、社会にもうちょっと余裕があったような気持ちでいたのに、蓋を開けてみたら、もう全然ない、ギリギリだ、と驚いている感じかな。医療大国だと思ってたのに、検査数が全然増やせない。ベッド数もすぐに足りなくなって、保健所の数もこの30年で半減していた。
今回のような騒ぎでマスクがなくなったり、ティッシュの買い占めがあったらしいけど、みんなふと、食べ物は大丈夫か、と思ったんじゃないかな。食糧自給率がいわゆる“先進国”で一番低い、たったの37パーセントだということも、これまで気にしたことなかったのに。地域切り捨て、一次産業切り捨ての政治を野放しにしてきた結果ですよね。そういうことを今まで考えたこともない人も、「あ、もしかしたらこれは大問題かもしれないぞ」って感じ始めた。もう幻想にすがっているわけにはいかなくなってきた。そういう意味では、浦河始め、すでに切り捨てられてきた地域、すでに幻想が失われている場所から、今度のコロナを眺める。そういう視点が大事かもしれないですね。
向谷地さん、話題を変えるようですが、コロナの時代がすでに始まっていた三月の末に例の相模原事件の死刑判決が出ましたよね。この7月26日は相模原事件からちょうど四年目でしたが、その直前に発覚したのが、例の“嘱託殺人”という・・・。・・・そこで改めて、「安楽死」という問題が社会の表面に出てきたわけです。そういうこともあって、何かコロナの時代には、世界中で命の価値とか、命の選別とかをめぐる意識が、ふつふつと人々の意識の中にわき上ってきているんじゃないか。限られた最新医療機器に重症患者のうちの誰を優先的につなげるか、という話も世界のあちこちで聞かれた。これも、なんか人々が追い詰められてきているということの一つの表れのような気がします。
だから、例の死刑判決も、嘱託殺人にしても、たまたまそこにあったという感じがしないんです。やっぱり同じ時代の中にそういうことが起こっていて、僕たちはそれらを一続きのものとして経験している、と思う。
べてるの家には数々の「理念」と呼ばれるものがあります。息子さんの向谷地宣昭さんが書かれていたことですが、べてるの理念が表しているのは、「非合理」であり、「合理性の外側」だ、と。平たく言えば、みんなどこかヘンテコなわけですよね。でも彼はハンナ・アーレントを引用しながら、要するに人間の本質というのは非合理性にあって、逆に「合理性の内側」に留まる方が病理的なんだと言う。
一方、今の世の中はどうだろう。植松流のものの言い方とか考え方は、すごく単純で、論理的で、ある意味、わかりやすい。そういった言説が何かやすやすと一世を風靡していく。どんどん感染していく。まさに感染症だと思うんですよ。そんな時代に、やっぱり「理念」に表されたような、べてる的言説というのかな、べてる的な物言い、感性や思考のスタイルが、この世の中に何か働きかけることができるといいなと思うんだけど、どうでしょう。
昨今の風潮というのは、なんかみんな分かりやすさばかり求めているような気がしますね。・・・科学を信頼すると言えば、聴こえがいいんだけど、科学者だって正直、よく分からないわけじゃないですか。コロナのことだって、いろいろ言ってても、結局、分からないことだらけですよね。でも、分かっているべき立場に立たされている人が分からないような顔をしてると、みんながすごく苛立ってきてね、「はっきりしろ」とかと怒られる。政治家に対してもそう。政治家だって分かるわけないですよね。それを責める。政治家も「わからない」とは言えないから、なんか分かったような顔をする。これは悪い循環ですね。
(続く)
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