戦後アメリカの世界史上類例のない物質的富もまた、深刻な副作用を伴うものだった。市場経済万能主義、個人主義、競争主義は、アメリカ社会の基盤だったコミュニティと家族に破壊的な影響をもたらした。戦後たった15年の間に、結婚の40%は離婚に至り、3世代がともに暮らす家庭はわずか6%となっていた。
今日、アメリカ人の父親が自分の子どもと直に話す時間は、一週間に平均20分。18歳に達するまでに、人は平均2年間分の時間をテレビやパソコン画面を見て過ごす。肥満は今や、国の高官が「国家の安全を脅かす」と認めるほどの深刻さだ。世界の抗うつ剤の3分の2がアメリカで生産されている。鎮痛剤オピオイドが感染症のように蔓延し、1日130人以上を死に追いやり、年間170万人に精神障害を引き起こし、その上、交通事故を50歳以下の死因のトップに押し上げたといわれる。
こうした惨憺たる状況の背景には、巨大化するばかりの経済格差があり、そのまた背景には経済の新自由主義化とグローバル化があるだろう。戦後間もない1950年代のアメリカは現在のデンマークといくつかの点でよく似ていた。富裕層にかけられる累進税は90%に上り、企業のCEOの給与は、中間層の会社員に比べて、平均20倍ほどだった。それが現在では、様々な収入を除いた基本給与だけでも400倍になっている。
最上位1%のエリートの資産合計は30兆ドルに上る。一方、国民の貧しい方の半分では、借金が資産を上回っている。最も金持ちの3人が所有するお金は、持たざる方の1億6千万人が持っているものより多い。資産ゼロかそれ以下の世帯はアメリカ全体の5分の1だが、黒人世帯の全体では37%に上る。黒人の平均所得は白人の10分の1。人類史上最も豊かな国と自賛するアメリカのこれが実情だ。
今回のコロナ危機だけで、4千万人が失業、330万の企業が倒産に追い込まれたが、黒人企業のうち、倒産の数は41%に上った。人口の13%を占めるアメリカの黒人が死に至るペースは白人の3倍のペースだ。
かつて戦闘機や戦艦を猛スピードで量産していた同じ国が、今ではマスクや検査用の綿棒さえろくに作れない。かつてワクチン製造で世界をリードしていたはずの国の大統領が、家庭用の消毒剤を飲むことを真面目に国民に勧める。今では、世界中がアメリカを見る目には、かつてない嘲笑や憐憫がこめられている。ジョージ・フロイドが警官に殺されたことをきっかけにブラック・ライブズ・マターの運動が燃え上がるのを見て、チェチェン、北朝鮮、イランの悪名高き権力者たちさえ、その非人道性を批判した。香港での民主主義弾圧をアメリカに批判された中国の報道官は、たった一言、「息ができない」と答えた。
トランプ大統領について、あるイギリスのライターは言った。「世界にはいくらでも愚かな人間はいたし、悪辣な人間もいた。でも、愚かな人間がこれほど悪辣で、悪辣な人間がこれほど愚かだったことはかつてなかった」。嘘の連発こそ、トランプの主な政治的手段である。彼の、記録されてきた事実の歪曲、事実と異なる主張の数は、この7月9日現在で2万55件。初代大統領ワシントンは、嘘がつけなかった人として敬われてきたが、現大統領は嘘をつかずにはいられない。
しかし、忘れてはいけない大事なことは、トランプ現象はアメリカの没落の原因ではなく、その落とし子だ、ということである。トランプを嘲笑することはたやすいが、彼が生み出された背景、彼を今の場所へと押し上げることになった歴史−−少なくともこの75年余の歴史をしっかりと理解すること、そして、彼を笑ったり、憐れんだりしているかもしれない海のこちら側のぼくたち自身もまたその歴史の一部であり、その落とし子だということに気づくことは、そう簡単ではない。
多くの人がまるで宗教のように個人の自由を崇拝するアメリカでは、その自由を脅かすものとしてコミュニティの価値が否定されてきたが、実は、社会という概念そのものもまた、否定されつつある。1987年にイギリスのサッチャー首相が「社会などというものは存在しないThere is no such thing as society.」と言ったとき、彼女は、戦後イギリスの福祉重視型資本主義を否定し、個々人による競争と「自己責任」を強調する新自由主義の旗を振ったのである。この社会否定のイデオロギーは以後30年、アメリカを、そして世界中に広まった。
そこでは、各個人は、何ひとつ他者に負うものはない。人は何を得るにも、たたかいとらねばならない。教育、住処、食べ物、医療サービス・・・。アメリカでは、豊かな民主主義国なら、全国民の基本的な権利とされるはずの医療と公教育へのアクセス、弱者を守るセーフティーネットなどさえ、社会主義的だとして警戒され、弱者の泣き言だとして切り捨てられるのである。
さて、日本のぼくたちにとってこれは他人事だろうか? コロナ禍で暴露されたのは、アメリカで起こったのと本質的に同じことが、この日本でも起こってきたという事実だ。80年代以降、政権が先頭に立ってアメリカ流の新自由主義的なやり方を模倣し、経済成長の名のもとに大企業を庇護し続け、効率化の名のもとに福祉、医療、教育を着々と切り縮めてきた。国民は長いあいだ、医療体制も医療技術も世界トップクラスだと思い込まされてきたが、その実態が今回のコロナ騒ぎを通じて露呈したのだ。
「医療崩壊」とは、決して自然災害ではない。「社会など存在しない」というイデオロギーのもとで行われる政治が引き起こす人災だ。日本政府は、2015年6月には、2025年時点でのベッド数を16万〜20万床減らす目標を掲げて「病床のダウンサイジング改革」を進めた。人口10万人に一箇所の保健所を設置することになっていたものを、これも社会保障制度の効率化の名の下、1994年から保健所の統廃合を進め、89年に848あった保健所は、現在の469にまで減らされていた。
コロナ禍の中で、この国の権力者たちは、虚ろな言葉に終始している。その間、相模原事件の判決にも、その4周年を直前に公にされたいわゆる「嘱託殺人」事件についても、そしてそれらのニュースが人々の心のうちに喚起している「生きている価値」をめぐる優生主義的な志向についても、何も語らず、無表情のままだ。沈黙したままの彼らは、コロナ禍の世界で浮かび上がった「いのちの選別」、「いのちの価値の格差」、「いのちと経済」など、社会のあり方と人間存在の根本に関わる重大な問いに対しても、なに一つの反応さえ、示さない。下手に発言して失言と批判されることを恐れているのか、その問いの存在にすら気づかないのか。
アメリカから世界へと広がったブラック・ライブズ・マターの大衆運動のうねりも、日本人の多くにとっては対岸の火事なのだろう。コロナ禍に被さるように一ヶ月も続いた長雨と各地を断続的に襲った豪雨もまた多くの被害者を出した。天気予報に多大な時間を費やすテレビのニュース番組は、東アジア全体の地図で前線や雨雲や、水蒸気を大量に含んだ暖気の動きなどをこと細かに示して、視聴者に警戒を呼びかけながら、常に、同じ前線の下にあり、同じ低気圧に直撃される近隣の国々については、まるでそこに人が住んでいないかのようにふるまい、何ひとつ言わない。例えば、こうだ。台風は、沖縄付近を離れつつあるが、三日後には大きく蛇行し熱帯低気圧となって、再び東北地方を襲う恐れがある。天気図を見ながら、それを聞く視聴者は、「え、しつこい台風だなあ」とため息をつくかもしれない。しかし、その三日間に、その台風が中国や韓国を通って、そこでどういう被害をもたらすか、と想像する人はどれほどいるのだろうか。こうした驚くべき無関心を、島国ならではの心の習慣で済ませるわけにはいくまい。
ますます多くなり、激しくなるばかりの”天災”を、地球温暖化という”人災”と関連づける世界的な議論も、アメリカでは、そしてこの日本では、なかなか浸透しない。逆に、環境問題に対する無関心、無意識が広まっているようだ。
本当に恐れるべきは、コロナ・ウィルスではない。この75年、アメリカをはじめ、世界中に蔓延し、ぼくたちのこころをも蝕みつつある「分離」の物語—つまり、「私」とは他者からも、コミュニティからも、社会からも、自然界からも分離され、何の制約を受けることもなく自由に、欲望のままに生きる存在だ、という幻想である。
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