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猛暑とコロナ禍の8月ーー崩れゆく”アメリカ” (その1)


広島、1995年8月6日朝

猛暑とコロナ禍が続いている。8月に入ってから、ぼくは沖縄の島唄をよく聞いている。特に、今は亡き、カディカルさんこと、嘉手苅林昌だ。若い人にはぜひ彼の歌と三線を聴いてほしい。ソウル・ミュージックが、ブルースが何を意味するか、すぐわかるだろう。おせっかいかもしれないが、ウィキペディアにライナーノーツやCDからの情報を交えて、カディカルさんを紹介しておこう。

現在の嘉手納基地の敷地内に生まれる。幼少の頃より母の歌に合わせて三線を弾き始める。その後、大阪へ、さらに安全な場所を求め南洋諸島に移り住むが、その先々が戦場となる。戦争末期に現地で軍隊に召集されるが、口下手と沖縄方言訛りが上官に嫌われ、連日往復ビンタを食らっていたという。クサイ島のジャングルで負傷。立ち小便中に流れ弾に当たったという。そのまま捕虜となるが、収容所でも病に倒れ生命の危機に陥った。戦争体験は大きなトラウマとなり、「イクサやすしぇーあらんど(戦争はするものではないよ)」と後々まで語っていた。終戦を迎えたが、身体の衰えから現地にとどまるうちに、現地の娘と恋に落ち、永住する気で自分の死亡届まで書いた。しかし、やがて仲間が次々と帰って行くのを見て気が変り、復員船に乗った。沖縄本島に戻ったのは1949年。死んだものとばかり思っていた息子の姿を見て、母親は気がおかしくなるほど驚いたという。



さて、今日は8月9日、日本の無条件降伏を決定づけたといわれるナガサキへの原爆投下の日だ。ヒロシマ、そしてナガサキから敗戦の日に至る日々に改めて、「アメリカ」について考えてみることの大切さをぼくはひしひしと感じている。

先日、日本とアメリカ双方の視点から、75年前の原爆投下を山場とする現実がどうとらえられていたのか、を描く優れたテレビ・ドキュメタリーを見た。(NHKスペシャル「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」)。それは、75年前のアメリカについて、そして日本について考える上で、多くのヒントをくれた。

ホームページにはこう紹介されている。

「戦後75年にあたる2020年、アメリカの原爆の開発計画の現場責任者の手記を発見。さらに、原爆を投下した爆撃機のパイロットや、当時の日本の指導者へのインタビューも入手した。そこからはアメリカが自らの「正義」のために、投下を決定した過程や、日本が降伏を決断できないまま、あの日を迎えてしまった経緯が浮かび上がってきた。これらの資料に、NHKが取材した膨大なアーカイブスを加え原爆投下の全体像に迫った」

この中にある「手記」を書いたのはトーマス・ファレル陸軍准将。彼は、原爆開発のための「マンハッタン計画」の現場責任者であり、原爆投下にも直接指揮をとった人物だ。手記が書かれたのは46年1月。その後、今年発見されるまで表に出ることはなかったという。そこに書かれている次の言葉から、番組は始まる。

「原子爆弾は単なる爆弾ではない。

激変、大災害、大混乱、大惨事である。

私は原子爆弾の力と、その不吉な脅威を知っている」

そして、次の言葉で番組は終わる。

「広島と長崎は、このとてつもなく強力な兵器が我々によって、そして我々に対して、決して利用されてはならない理由を示す恐ろしい証左である」

「原子爆弾をコントロールできなければ、そして国々が共に生きることを学ばなければ、以下の言葉がいずれ現実のものとなるだろう。世界の大都市とそこに住む人々は徹底的な破壊と突然の死に直面する」

広島、1995年8月6日朝

改めて考えてみたい。75年前の日本を打ち破ったアメリカとは一体、何ものであったのか。そして、今、ぼくたちが見ているアメリカとは何ものなのか。

日本に生きるぼくたちがアメリカについて考えることは、同時に、自分自身の「内なるアメリカ」について考えることでもある。ぼくたちは皆、多かれ少なかれ、“アメリカ病”に感染しているのだ。特に、戦後に生まれ育ったぼくたちの世代にはぼくのような“重症患者”が多い。この歳になっても、いまだに、この病がいかに厄介でたちの悪いものか、そこから回復すること、また、その後遺症から立ち直ることがいかに難しいかを、思い知らされるのである。

以下、数日前に友人が送ってくれた、尊敬するカナダの人類学者ウェイド・デーヴィスの文章「瓦解するアメリカThe Unraveling of America」を基に、第二次世界大戦から現在のコロナ禍に至るアメリカの75年を振り返ってみよう。デーヴィスには失礼かもしれないとは思いつつ、ぼくが自由に抜粋、意訳しながら、自分の思いや考えを勝手につけ加えさせてもらった。誤りや問題があれば、それはおそらくぼくのせいだ。もちろん、英語を読める方には、ローリングストーン誌に載ったデイビスの−−ぼくの手垢のついていない−―原文を読んでいただきたい。コロナ禍に対する、アメリカ社会とカナダ社会の対比が面白いが、ぼくの以下の文章からは割愛してある。またの機会に紹介したい。

 

1940年、すでにヨーロッパで戦火が上がっていた時、ポルトガルやブルガリアといった小国と同じ規模の軍隊しか持っていなかったアメリカ合州国は、四年の間に1800万人が軍服を着て戦う軍事大国へと変身した。日本が真珠湾攻撃から六ヶ月のうちに世界の天然ゴム供給源の9割を握った時、アメリカは自動車の制限速度を35マイルに落としてタイヤの損耗を防ごうとする一方で、合成ゴム開発をゼロから始めて、たった三年のうちにナチスドイツを打ち破る戦車隊をはじめとする軍備を作り上げた。その最盛時には、フォードは昼夜を問わず、2時間ごとに新しい大型爆撃機B−24を、西海岸の造船所は、四年間、毎日2艘の軍艦を生み出し続けた。クライスラーのデトロイト工場だけで、ドイツ全体が生み出したのより多くのタンクを生産した。そして、仕上げは原爆だった。1939年からその調査研究に取り組み、42年「マンハッタン計画」を発足、45年7月16日の原爆実験の実施、そして8月6日、9日の投下へと猛スピードで突き進んだ。


広島、1995年8月6日朝

四年間に一挙に軍事大国となったアメリカは、第二次大戦が終わっても、決して元に戻ろうとはせず、またその手を緩めようともしなかった。以後、アメリカには“平和”な日は1日もないのだ。現在も、アメリカは150カ国に軍隊を派遣しており、2001年以来、6兆ドルを戦費や軍事費として費やしている。元大統領ジミー・カーターによれば、242年の歴史のうち、合州国が戦争に関与しない平和な年は16年に過ぎない。彼は世界史の中にこれほど好戦的な国は他になかったと認めている。

海外での暴力は国内へと戻ってくる。ドイツに対する連合国側の勝利を決定づけたノルマンディー上陸作戦での連合国側の死者は4414人。昨年のアメリカ国内での銃による死者は4月末ですでにその数に達していた。最近10年間に、校内で銃撃で死んだ生徒と教員は346名に上る。


広島被爆50周年、歌う喜納昌吉

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