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ありがとう、ニッポン原住民 追悼石垣金星 (2)



幼い子どもたちを連れて西表は訪ねたのが、たしか1992年のことだから、金星さんにお会いして30年以上の月日が経ったわけだ。今回読んでいただくのは、2004年に出版された『スロー快楽主義宣言』(集英社)のなかの「いい仕事、愉しい仕事」という一章の一部だ。


こうして読みながら、改めて、金星さんの仕事って何だったんだろう、と思う。いや、「その人のお仕事は何?」と訊かれたら、どう答えるのか。答えようがないのだ、まったく。彼にとって仕事と遊びはいつも一体となっていて、「生きる」ということのなかに見事に融合していた。そんなことに、妻であり、同志であり、「仕事」仲間であった染色家、石垣昭子さんの「仕事」を通して思いを馳せてみたい。


(写真はすべて、ぼくが務めていた大学での、金星さんと加藤登紀子さんとのミニ・コンサートより)


 

沖縄西表島の紅露(くうる)工房をはじめて訪ねたのは10年以上前(1992年?)のこと。工房の周囲にあった木立は、今では小さな森になって裏の山へと続いている。そのせいか、山の方が以前よりこちらに近づいてきているように感じる。ぼくがそう言うと、石垣昭子さんは笑って、いいえ、多分こちらが歳をとった分だけあちらへ近づいているんじゃないかな、と言って笑った。


昭子さんは自分の染織という仕事についてこう言ったことがある。「朝起きると今日何をすればいいか、自然にわかる。山や海、風や太陽が染め、織り、糸づくりなどその日の仕事を決めてくれる」。そんなすごい働き方ができるというのは、一体どんな場所なのだろう。


周囲約130キロ、台湾とほぼ同じ緯度に位置する亜熱帯の島、西表。豊富な雨が密林に降り注ぎ、いたるところに川や滝や湧水をつくり出す。そんな水を集めて島の中央を北西へと斜めに流れる浦内川はまさに島という身体の大動脈だ。河口には海水と淡水が混じり合って多様な生物を育む「汽水域」が、10数キロにわたって続く。それは日本最大のマングローブの森が栄える場所でもある。そしていよいよ川が海の大きな懐に包まれて終わる場所に、トドゥマリ浜の明るい静けさが広がっている。紅露工房は、川が海に出る手前の湊(みなと)と呼ばれる入り江のすぐそばにある。


昭子さんと夫の金星さんが、滅びかけていた島の染織の伝統を再生させようと、この工房を立ち上げたのは1980年。以来、昭子さんたちは、糸紡ぎ、染色、機織というすべての工程を通じて、島にある素材を使って布をつくることにこだわってきた。芭蕉(バショウ)や苧麻(チョマ)などの植物を育てて、その繊維から糸を紡ぐ。蚕を育ててその繭から絹糸をつくる。染料としては、工房の名前にもなった紅露(くうる)というイモから渋赤、福木(フクギ)の根から黄、アカメガシワから灰や黒、インド藍(アイ)や琉球藍(アイ)から青などの色を使う。その素材のほとんどが、工房の庭や周囲の森の中にある。


昭子さんが織る布には、素材の異なる糸を経(たて)と緯(よこ)に組み合わせる交布(ぐんぼう)が多い。八重山諸島では昔から普段着を織る時の伝統的な方法だったというが、異質なものの組み合わせが作り出す独特の風合いがぼくたちには逆に新鮮だ。


織られた布は、近くの湊で海水に晒される。これを「海ざらし」という。海水と淡水の混じった汽水、マングローブ、泥、そこに暮らす無数の生き物がつくり出す絶妙なカクテル。それはいわばいのちの水だ。その中で布はしばしゆらゆらと揺れてから、陽の光を浴び、風に吹かれて、本当の布としてのいのちを得る。昭子さんはこの作業のついでに、入り江の泥を踏んで散歩したり、海水浴をしたりするのが大好きだ。ここほど「いのちの循環」ということを実感できる場所はない、と彼女は思っている。


昭子さんは西表と同じ八重山諸島のひとつ、竹富島の出身だ。東京の美術大学に行くために島を出て、それまで米軍統治下にあった沖縄が日本に返還される1972年まで約10年間を「ヤマト」で過ごした。初めのうちは都会生活の便利さを楽しんでいたが、次第にその背後に潜んでいる巨大な不便が見えるようになってきた。ひとつのきっかけは、工芸作品をつくるのに必要な土や砂といった自然素材が手に入らないことだった。そう思って見ると、ないのは土や砂ばかりではない。世界を構成しているはずの基本的なものが、豊かなはずの都会には実に乏しい。生活の場面が工場でつくられたもので埋め尽くされている。食べ物もそうだ。その素材がどこから来るのかを人々は知らない。こうして、都会の豊かさの陰にあるこの欠乏と貧しさがひしひしと感じられるようになった。


沖縄返還を機に八重山にも新しい時代がやって来ようとしていた。本土の大企業による「島をはがす」ような土地の買占めが始まる。この新しい「植民地主義」に対抗して、自分たちなりの島おこしを計ろうと、本土から帰島してゆく青年たちがいた。その中に、昭子さんと金星さんもいた。彼らにとってそれは、都会の「豊かさ」の対極にあるはずのもうひとつの豊かさを故郷の島に再発見するためのUターンでもあったろう。


昭子さんと金星さんにとっては豊かさとはまず何よりも生態系の豊かさだ。例えば、食物連鎖の頂点にあるイリオモテヤマネコの存在は、逆にその連鎖の裾野の広さを、だから、生態系全体の豊かさを示している。人間もまたこの豊かさによって生かされる存在だ。では文化とは何だろう。それは人間が自然の豊かさを損なうことなく、永続的にその恵みを享受するために、世代から世代へと伝えていく知恵だ。このことを自分たちの生き方そのものによって示したい、と二人は考えた。そして、それを自分たちの仕事としよう、と。昭子さんは工房で染織を、金星さんは工房のすぐ近くの田んぼで、無農薬の米づくりをする。祭りなどの伝統文化を継承するためには、女として、男として、それぞれの受け継いだものをもち寄る。また自然環境に大きな負荷となる観光業の危険に対しては、環境保全型のエコツーリズムを対置して、目先の雇用の替わりに世代を越えて持続的な仕事づくりを呼びかけ、実践する。つまり、染織はただの染織なのではなく、ただの職業ではない。昭子さんにとってそれは島で生き、島に生かされるという大きな「仕事」のひとつの側面なのだ。


紅露工房には日本のあちこちから若い女性が染織を習いに訪ねてくる。都会の生活に疲れ、病んだ心身を抱えてやって来る者も多い。薬を手放せない者、皮膚を病んだ者、コミュニケーションがとれない者。そのひとりひとりの毎日の変化を昭子さんは見てきた。「糸を引かせたら手から血が出てきちゃうほど皮膚が弱くて、これは仕事どころではないなあ、という感じだった子も、ちゃんと元気になって、皮膚もきれいになっていく。そしていい仕事をするようになっていく」。この子が元気になったのは、ただ単に島のきれいな水や空気のおかげばかりではないはずだ。それは単なる物理現象を越えた、もっと深く大きく複雑な現象なのではないか。紅露工房での仕事が、単なる物理的なプロセスではない、ということとそれは重なっている。


例えば、藍染めというプロセス。昭子さんはこんなふうに説明する。夏に藍の葉を切りとって、水に一昼夜浸ける。搾り出した水に石灰を入れて撹拌すると、色素が沈殿する。それを瓶に1年、2年と貯めておいて、やがてそこに泡盛、水あめなどの栄養分をあげて混ぜながら、自然発酵させる。琉球藍には泡盛がいい。工房の建物のすぐ横にあるユウナの木の下に甕をおいておくと発酵が早いのは、この木に棲む酵母菌が働いているからだろう。


そこには実に多様な要素が繰り広げる様々な働きがある。人間の働きもそのひとつ。そのどれもがいい藍染めのためにはなくてはならない働きだ。もちろん、藍染めとは人間のための目的であって、すべての働きはその目的に奉仕する手段だ、という見方もできる。しかし太陽を、水を、光を、土を、空気を、微生物を、植物を、時間を、甕を単なる手段だと見なした途端に、仕事は変質する。逆に、これらの要素を単なる手段以上のものと見なす時に初めて「いい仕事」は可能になるのだ。その時、人は自らの働きをもって、他の様々な要素が展開する働きの環に連なって、壮大な自然界のハーモニーの一部となる。だからいい仕事はきっと愉しく、美しい。そして病を癒すこともできるのだろう。


昭子さんは言う。「女性に向いている仕事だと思います、染織は。自然と語らいながらの、自然に委ねながらの穏やかな仕事なんです。スローで緻密で。食べものと同じだと思う。季節があり、自然の様々な条件があり、それぞれの素材の活かし方がある。だから、人間の自由にならない不便さが、実は豊かさなんですね」



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