top of page

パレスチナへの旅を振り返って(その3) 辻 信一


サアド、ヒューマニスティック・ファームにて

そこで最初に紹介したサアド・ダゲールに話を戻すんですが、彼に教えてもらったんです。イスラエルで日常的に使われているアゴラ硬貨には地図が描かれている。それは「大イスラエル」の地図で、なんと、近隣の国々はもちろん、イラン西部やエジプト東部、サウジアラビア北部まで包み込んでいる。


つまり、イスラエルの現政権は、壁でこちら側を拡張していって、向こう側を追い詰め、しまいにはなくしてしまうということを考えている。これが「大イスラエル」という夢だと。この地図はイスラエルの国会議事堂の中の壁にも描かれているんだそうです。


そういう大きな夢に向けて、イスラエルは着実に前進しているように見える。その意味で、分離壁はとてもうまくいっている。多くの人がそういう印象をもっているし、普通はそういう理解の仕方なんですね。ところが、もうちょっと深く考えると、イスラエルという国家をもったユダヤ人は今、これまで経験したことのない、ある深刻な危機を迎えつつあるんじゃないかなっていう気がしてきたんです。


あれほど世界各地に優れた才能を輩出してきたユダヤ人ですけど、彼らの歴史はディアスポラの歴史で、世界各地に難民として散らばり、そのいく先々で迫害されたり、差別されたりしてきた。社会的な壁で隔てられ、時には実際に物理的な壁で追い詰められ、四方を壁に囲まれた「ゲットー」と呼ばれるエリアに封じ込められた。それが今、自分たちの国家が作る壁で、パレスチナ人を「ゲットー」の中に閉じ込めたり、追放したりする側に立っている。


そこには衰えっていうのかな、精神的、文化的な劣化が起こっているんじゃないかという気がするんです。壁を作ることによって、作った側の彼らに壁の向こう側が見えなくなっちゃう。「いのちが危ない」という看板を立ててしまうと、もうその向こう側の現実を想像するような想像力も枯渇していく。そういう無知、無気力、無関心が、壁のこちら側にかえって生み出されてしまうのではないか。


壁の始まるエルサレムから60キロ以上離れた地中海沿いの都市テルアビブなんか、もう、どう見たってアメリカの西海岸かフロリダかっていう感じのグローバル都市で、物質的には豊かでも、逆に文化的には「砂漠」なんじゃないかという気がしたんです。


壁を作った側にある種の衰えというか劣化が進行する一方で、壁に追い詰められているはずのパレスチナの側には逆に、文化的、精神的なレベルの深まりのようなものが起こっている可能性があるんじゃないか、というのがぼくの直感です。


壁っていうのは、そういう意味ではとても面白い、逆説的な存在なんじゃないかと。たまたまぼくが会ったパレスチナ人たちがみんな知的で、優しくて、ユーモアに富んでいて、話していて面白い人ばっかりだったのかもしれないし、まあ、ぼくの偏見にすぎないかもしれないんですけど。


さて、再びサアド・ダゲールに話を戻すと、彼には「馬鹿げた大きな夢」というのがあって、それが自分の人生を支えているんだと言うんです。確かに、あの写真にあるように入植地が津波のようにこっちへ向かっていて、そっちから脅しのためのゴム弾がバンバン飛んでくるようなところでオーガニック農場をつくってるなんて、ドン・キホーテみたいでしょ。


でも、サアドは確信をもっているんですね。武力を背景に、金に任せて都市をいきなり砂漠の真ん中に作っていくようなイスラエルのやり方には未来がないと。もちろん、それに武力やお金で対抗しようとするパレスチナ側の指導者のやり方にも未来はない。じゃあ、どこに本当の未来の希望があるのかと言えば、それは「肥沃な三日月地帯」の再生だとサアドは言うわけです。


さっきの「大イスラエル」という国家的な「夢」の話ですが、それはまさにかつて「肥沃な三日月地帯」として知られた地のことなんですね。それは一万二千年前の農耕発祥の地であり、文明発祥の地であり、三大宗教発祥の地でもある。そしてそれらはみな、この地が古代から「肥沃な三日月地帯」と言われるような豊かな大地だったおかげです。しかし今ではその大部分が砂漠になっている。


ではどうしてその肥沃さは失われたのか。それは土を酷使し、木を切り、水を浪費してきた人間の活動が原因だ。宗教、民族、国家を超えて、伝統的な知恵や技術を再生し、アグロエコロジーを実践し、保水に努力を傾注すれば、この地域の古代の肥沃さはきっと取り戻せる

、とサアドは言うわけです。


気候危機をはじめとした現代文明全体の危機は一見絶望的だけど、危機を超える希望があるとすれば、それは人類が砂漠化してきた土地を肥沃なものへと作り変え、緑の大地を蘇らせることだろう。サアドはそう考えているわけです。


サアド自身が家族でやっている農場にも行きました。看板に「ヒューマニスティック・ファーム」と英語で書いてあった。人間らしい生き方、人間らしい畑ってなんだろう、という彼の問いへの、これが答えなんですね。イスラエルの側から見たら、あまりにもちっぽけで、慎ましくて、非効率的なものに見えるだろうし、彼の生き方も、あまりに理想主義的っていうか、ロマンティックに過ぎると思われるんじゃないかな。でも、ぼくは感動してしまったんです。


彼は最近、畑でサソリを見つけたらしいんだけど、それをわざわざ何かでつまんで空き地までもっていったんだって。サソリを見たら殺すのが当たり前らしいんだけど、彼はそうしなかった。「ぼくはサソリすら殺せないダメな百姓です」と言って笑う。ヒューマニスティックの意味は、人と自然の間に立ててきた壁を取り払う、ということなんですね。



自然界と調和して生きるという意味のヒューマニスティックな生き方からすれば、国家や民族や宗教の間の壁は、ほとんど意味がない。温暖化とか気候変動みたいな人類史的な、いや地球史的な危機を前にしてみれば、馬鹿げた夢だと思われてきたサアドたちの生き方の方が現実的で、逆に、地下水を独占しながら砂漠に無理やり都市を建設し続けるようなイスラエルのプロジェクトこそが幻想なんじゃないか。


壁を建て続けて、相手を追い詰めてきたはずなのに、自分の方が逆にどんどん追い詰められていく。そういう逆説的な現象が起こっているということを感じさせられました。


でも、そこで世界全体を見ると、イスラエルがやっていることは、世界中のいわゆる勝ち組がみんなやってきたことをもっとむき出しにしただけなのかな、とも思う。その意味で、イスラエルは普通なのかなって。日本にとっても、これって他人事なの? と思うわけです。


沖縄にしても、北海道にしても、そこに物理的な壁があったかどうかは別にして、同じことが起こってきたわけでしょ。植民地、占領、入植、併合・・・。いたるところに壁を作って、今日までそれを拡張していったわけですよね。


そう考えると、グローバル経済というのは面白い。あれは一見、壁を取っ払うことみたいに見せかけてるけど、実はそうじゃなくて、壁を地球全体にまで押し広げていって、しまいに向こう側を消滅させてしまうという大プロジェクトだと言えるんじゃないか。


最初にお見せしたピクニックの写真ですけど、壁のこちら側には、砂漠を肥沃な大地に再生させようという人々の営み。壁の向こう側には、砂漠に都市を建設しようというプロジェクト。そこでぼくたちは問わなくちゃいけない。ぼくらってどっち側なの? と。


中村哲さんがアフガニスタンの砂漠から問い続けてきたのもそれなんだと思うんです。ぼくらのあのピクニックは、まさにその狭間での瞑想みたいだったわけです。


日本では最近立て続けに、政府が水の民営化やタネの民営化へと突き進んでいる。その意味でもパレスチナ問題は他人事じゃない。イスラエルによる占領というと、軍事的なことばかりに目がいきますよね。でも、パレスチナを支配するためにもっと大事なのは、まずパレスチナの水を支配すること。そして食物のタネを支配することで、パレスチナの人々を依存させること。だから一方でいくら抵抗しても、生存のベースを押さえられてしまったら、完全に依存せざるを得ない。これこそがイスラエルによる占領の残酷さです。


そういうひどい状況の中で、多くのパレスチナ人も農業を見捨てそうになっている時に、今、サアドと彼の元に集まってきている人たちは、少しでも自給率を上げていこうと動き回っているわけです。


少ないとはいえ、雨は降る。植物があれば、タネはいくらでもとれる。微生物がいれば、土を肥やしてくれる。こうした自然界への依存こそが基本。それが伝統的な考え方であり、アグロエコロジーだ。そこにこそ希望がある、というわけです。


この意味では、ぼくらも、イスラエル・パレスチナ問題っていうのは他人事ではないんじゃないか。ぼくたちは目に見えない壁によって、どんどん追い詰められつつあるんじゃないだろうか。壁が見えない分、物理的な壁がない分、もしかしたらもっと始末に負えないのかもしれない。占領されている側が、むしろ嬉々として占領に加担して、自分で自分を追い詰めてしまっているんじゃないか。そんな気がしてくるんです。


「壁」というものから、いろいろなことを考え直してみるという、これがぼくのパレスチナ報告でした。

閲覧数:495回

関連記事

すべて表示
bottom of page