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ドリアン助川の言葉 『常世の舟を漕ぎて』を読んで 

先週末以来、猛威をふるう暴風雨。その最前線に立たされているのは熊本だ。その初日、水俣が最多の降雨量を記録しているのを聞いて緒方正人のことを思った。夜になって、彼の住む地域にも土砂崩れが起こっているというニュースに接して、いよいよ心配になった。迷惑は承知の上で、翌朝、電話して緒方とその家族の無事を確認することだけはできた。

今も続く「暴れ梅雨」。メディアはそれ一色になって、コロナは一挙に色あせた。そういえば、先週、『リサージェンス&エコロジスト』誌の最新号で、「気候変動にワクチンはない」という言葉に出会って、ギクッとさせられたばかりだ。


2月、戸塚善了寺のカフェゆっくり堂にて

ぼくの住む地域には今のところ被害はない。多少の風雨でも、ぼくは毎日舞岡の森に通っている。何をしているのか、と聞かれても、ただ、ぶらぶら遊んでいる、としか言いようがない。その森の中で、そしてその周辺で、時々、ドリアン助川に行きあう。なんでも森で歌を歌っているのだそうだ。

その彼が、『常世の舟を漕ぎて』を読んで、その感想を送ってくれた。そこにほとばしる熱い心に打たれた。いつか、彼を緒方に引き合わせることができるとうれしい。

ご本人の承諾を得て、ここにその全文を、そのまま紹介しよう。 (辻信一)



 


『常世の舟を漕ぎて』を終わりまで読ませていただきました。 いや、終わりではなくて、そこもまた始まりでした。 すべてのページ、すべての行、そして最後の句点にまで扉が隠されている本ですね。 無数の扉がこの本のなかで、読者を待ち受けています。 水俣に、緒方正人さんに、辻信一さんに、海に、風に、そして生命の摂理に、宇宙に向けて開いた扉です。 驚嘆の本です。 いくつもの扉を感じさせる貴重な体験をさせて下さり、ありがとうございます。 深く広く、心からお礼を申し上げます。 その扉のなかでも、なんといってもボクを引きつけたのは、 「狂いへの誘い」でした。 緒方さんが「狂い」の日々を経て、世界を別次元の感覚で捉え始めたとき、 枠組みのなかでの闘争や、敵味方の構図、生命観というものが大きく変わっていきますね。 そもそも「狂い」こそが救いであると信じているボクにとっては、なにかの宿命すら感じる言葉の連続、緒方さんからの光の放射でした。 米国から帰ってきて仕事がなく、 金にも困り、人生の諸問題もあり、 ただただ多磨川の土手を毎日往復して歩いていた歳月がありました。 たぶんボクもどこかで「狂い」のなかにいたのだと思います。 雨の日も風の日も、それこそ緒方さんと同じで6時間を越えて歩き続けるのですから。 そして、あるとき、草むらに寝転がって対岸に沈む夕陽を眺めているときに、 「なんだ、最初から全部つながっていたんじゃないか」という感慨を得たのです。 のちに「あん」を書くきっかけになる世の捉え方です。



単独で存在できるものはない。

存在はすべて関係性のなかにある。

世界を見て、聴いて、感じているボクは、世界との関係性のなかにおいて初めて存在している。

ならば、世界とボクは不可分である。

世界は最初から与えられている。

つまり、世界とは自分自身のことである。


煌めいて流れる多摩川も、沈んでいく夕陽も、自分だったのだ。

台風で吹き荒れる雨風も、押し寄せる濁流も、自分だったのだ。

原発事故で汚染された土地も、あの吹き飛んだフクイチの残骸も、自分だったのだ。


こうしたことを真顔で言っても、理解してくれる人はほとんどいません。

しかし、『常世の舟を漕ぎて』のなかで緒方さんが語っていること。

こんなにもパワフルな人間と自分は比較できませんが、

なんと根を同じくした言葉の数々!


いえ、それはボク自身がよくわかっていなかったことなのです。

意識では捉えていても、言葉としてはつかみきれていなかった念であり、視線です。

それを緒方さんの言葉、

辻信一さんが選りすぐった言葉によって、明らかに伝えてもらったのです。


感性の万華鏡のような本です。

一度読んだだけでは扉をひとつ開けたに過ぎません。

これからも繰り返し読む本になることは間違いありません。

そのたびにボクは新しい扉をあけ、

この本の向こう側から現れる新しい世界を旅するのだと思います。


たいへんな労作にして、生きている扉として輝く本です。

読ませていただき、ありがとうございました。


ドリアン助川


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