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「耕さない」思想  川口由一さんを偲んで

川口由一さんの自然農の一つの原則に、「耕さない」がある。近年、世界中で広まっているリジェラティブ(大地再生)農業の中でも、このNO-TILL(不耕起)農法が注目されているが、今、改めて川口さんの「耕さない」を振り返って、学びを新たにする必要があるようだ。彼が言うのは、単なる農業のテクニックとしての不耕起ではなく、自然と人間との関係をどう見るか、どう生きるか、という思想的な問題としてのそれなのだ。


以下、『自然農という生き方〜いのちの道を、たんたんと』(川口由一+辻信一、大月書店)の第2部から数ページ、「耕さない」について川口さんが語る部分を引用させていただく。




「耕さない」が恵みをもたらす


辻 川口さんの考えでは、人類が「耕す」ことを始めた時点が、やはり決定的な瞬間だったということになりそうです。

川 そうですね。今日の都市文明がここまで肥大化する過程のはじまりは、採集生活から農耕生活に入って食糧が約束されてからでしょうね。

辻 川口さんは、農的な営みのはじまりそのものが躓きだったと考えますか?

川 いえ、農のあり方、生活のあり方、人為の仕方が自然の摂理からはずれたものだったことが問題なのです。自然の摂理にはずれていない農であり、人為であり、生活であったなら、こうはならなかった。生きることは約束されている。自然の営みのなかで生きることができる間は、平和に生きることができる。自ずから死が訪れれば、人という生物も地球上から滅してゆく。栽培生活、農耕生活そのものがそもそも環境破壊だと考える人もありますが、決してそうではありません。そうでないのが自然農です。

辻 川口さんが言うように、ぼくも、今の世界の危機の本質は、人間が自然界から切り離されてしまったことにあると思います。農という営みそのものは、その分離のはじまり―「いのちとして自分の定めを生きる」道を踏みはずすこと−−ではなかった、と?

川 そうですね、今の世の中は、農にとどまらず、すべての面において道を大きく踏みはずして、とどまることもできず加速しています。農の歴史における「耕す」という行為が、誤りに陥る一歩です。栽培生活そのものがまちがっていたのではなく、栽培の仕方、農耕のやり方がまちがっていたのです。ですから、誤りのみを正せばいい。「耕やす必要はない、肥料農薬は必要ない、草も虫も敵でない」ところへ立ち直せばいいのです。自然農はここを正し直した栽培方法です。

辻 川口さんの視点から見ると、現代の危機は、単に近代化や産業革命以降の工業化が引き起こしたものではなく、むしろ「耕す」ことがはじまった時に由来するものだ、ということですね。

川 産業革命は危機への大きな加速ですが、耕す農耕生活からすでにはじまっていますね。何千年という長い歴史の中での過ちです。すべてのいのちは自ずから然らしめています。人為を挟まなくていいのです。自然界は誤ることなく、為して為さないものはありません。為すべきものは自ずから為しています。刻々と、絶妙に、それぞれが我がいのちを為している。そこで目的を達成するべく、沿っていけばよいのですね。

辻 そして、為さなくていいことは為さない。

川 そう、よけいなことをせず、無駄をせず、心を運びすぎず、為すべきことを為す。日

成するべく手助けする。適期に適確に。そのときにいのちの法則からはずれたり、いのちの営みそのものに手出しするようなことをしてはダメです。

・・・・(中略)・・・

辻 「耕さない」ということこそが、自然農の本質だと言ってもいいですか?

川 そうですね。基本中の基本になります。耕すと自然農ではないといえます。耕せば必ず問題を起こします。耕さないことで、問題を招かずに自然の恵みを最大に受け続けることができます。一枚の田畑で他に依存することなく、完結するのです。

辻 では、なぜ人類は耕してきたのでしょう。よく言われるように、英語で「文化」を表すカルチャーという言葉は、「耕す」という意味のカルティベイトと同じ語源です。それほど、「耕す」は人間のあり方に深く根差しているようにも見えるわけですが。

川 「文化」の耕す、思索する、極める⋯は人に欠かせぬ重要なことです。農においては、一度耕すと耕さざるを得なくなります。耕せば収量を一時的に上げることもできます。耕すことによって、草を制することができ、他の草に養分を吸われないことにもつながります。でも、一度耕すと、時の流れとともに土が硬くなって、作物の根に空気が届かず、育ちが悪くなる。あるいは種を蒔くのに、苗を植えるのに、作業ができないゆえに、耕し続けなければなりません。耕さなければ、土は硬くしまらず、フカフヵであり続けます。耕すことによって、大きな無駄、限りなき不経済をし、本来あずかれる恩恵を自らの手で捨ててしまいます。

辻 それでは「耕す」というのはまるで罠ですね。一度それにかかると出られなくなる。

川 そのようになっている今日です。それを断ち切るには、我慢して耕さないことです。そうすれば、またいのちの舞台は復活します。復活力はすごい、何もしなければ復活するのですから、いのちの世界はなおすごい。年々いのちがよみがえってくるのが、この目でも見えるのでうれしくなってきます。


辻 昔、ヨーロッパ人たちがアメリカ大陸を「新大陸」と呼んで入っていったとき、そこに暮らしていた先住民たちをディガー(穴を掘る者)と呼んで馬鹿にしました。そして、彼らは棒しか持たず、耕作ということも知らない遅れた民だ、と。

川 ああ、その人たちは棒の先端で土に穴をあけて、トウモロコシの種を蒔いていたのですね。自然農と同じですね。

辻 そうなんです。一方、先住民たちは「あの人たち(白人)は逆さまの農業をしている」と思っていたそうです。棒にあたる柄が上を向いているから、そう見えたという説もありますが、彼らは土を掘り起こすということのおかしさを見抜いていたのではないでしょうか。

川 先住民のほうが自然に沿った栽培の仕方をしていたのであって、生かされて生きる生き方を知った本当に賢い民だったのですね。なのに、人類全体としては、「耕さない」ということの意味をはっきりと認識できないまま、私たちはおろかにも、目先の効率性や一時の収量にとらわれて、近代農業の流れになってしまいました。

辻 ぼくには歴史の最初のところがどうもはっきりしないんですが、歴史では普通、鍬から鋤というふうに、土をひっくり返す道具とともに農的な営みがはじまり、進化していったとされていますね。川口さんの自然農はそれ以前へとたどり直そうという試みにも見えるんですが、では「それ以前」とは何なのか。

川 それは「過去に戻る」のではなく、「いのちに沿った正しいあり方」を意味します。約一万年前、採集生活の足下で農耕生活がはじまりました。採集と農耕が重なる時期があったはずです。沼地に行ってお米をしごいて持って帰るとき、こぽれ落ちたお米が次の年には育っている。ただばら蒔いただけでも、その場で確実にそれなりの収量が約束されるので、当初は耕すことなく、ただ種を蒔いていた。やがて、生命界を観る視野が狭くなり、執着する心と重なり、「草をとったほうが収量が上がるのではないか」「耕したほうが収量が上がるのではないか」と、一時の増収にとらわれてしまったのでしょうね。耕さなければ、過去の歴史を舞台にしながら、たくさんのいのちが今を生き、そこでお米も育ちます。動植物は共存共栄の関係ですから、草々小動物が田んぽにあることで、植物のお米が生かされます。今を生きるたくさんのいのちによって、次のいのちをさらに豊かにする。それが自然の森や山でしょう。かつては、自然の森や山から採集することによって、いろんな恵みを手にしていたのですが、自然農の田んぼも同じです。自然農の田んぼでは耕さないので、いのちたちはつねに生命活動しています。最近、生物多様性が重要だと説かれますが、数と種類が多ければいいというものではなく、その場にふさわしいいのちの数と種類があって、その調和は自ずから決まるもので、自然に任せておくことが基本です。自然農の田畑では、そのようになっています。


(川口由一+辻信一『自然農という生き方』75〜80ページ)



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