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20年目のキャンドルナイト その5  辻信一

今では「キャンドルナイト」として知られる運動が始まったのは2001年。カナダのバンクーバーで発信された電力ボイコット=自主停電キャンペーンを受けて、ナマケモノ倶楽部の仲間たちと、開店したばかりのカフェスローで、“暗闇ナイト”をやったのが最初だった。

ぼくが2004年のちょうど今頃書いた文章で、その頃を振り返ってみたい。

夏至を明日に控えた今日は、5回連載の最終回だ

昨日はアメリカの奴隷解放を祝うJUNTEENTHの日、今日は世界難民の日、そして明日はキャンドルナイト、そして新しい祝日、ローカリゼーション・デー。


電気を消して、スローな夜を!


 

(5)省エネ、消ナマ

キャンドルナイトに込めたぼくなりの思いにについて述べてきた。キャンドルナイトが“単なる”省エネでないことはわかっていただけたと思う。しかし、だ。それはぼくにとって、やっぱり省エネのためのイベントでもある。そのことを最後に言いたい。


電気をナマケる、とぼくは言った。「ナマケモノ倶楽部」という名まえだけで気味悪がる人もいるけど、ぼくたちはただ何もしないでブラブラしているわけではなく(それもするけど)、ちゃんと消費をナマケたいと思っているのだ。なぜかというと、ひとつには、アメリカや日本に代表される大量消費社会が、環境危機や貧富の格差などの大問題を引き起こす主要な原因になっていると考えるから。


しかし、それは単なるはた迷惑という問題ではない。大量生産によって支えられ、大量のゴミを生み出すこの消費社会は、そこに暮らしている人々をさえ幸せにしないのだ。ぼくは日本とアメリカを中心に半世紀を生きて、また「南」の国々を旅して、このことがわかるようになった。「豊かな国」に住む人たちは決して豊かなのではない、恵まれているのでもない。むしろ「豊かさ」とか「恵み」とかという言葉の本当の意味から、遠く引き離されたかわいそうな人たちなのだ。


そもそも消費型のライフスタイルはぼくの美意識に合わない。ダサい。愉しくない。人々も愉しそうではない。みんなイライラして、疲れている。社会に潤いがなくて、ガサガサしている。競争的で、思いやりに欠けていて、不安に満ちていて、優しくない。水がまずい、空気が汚れている、土がない、緑が少ない。安全で新鮮な食材が手に入りにくい。自然は痛めつけられ、景観は壊され、町も醜い。ぼくはそれがおもしろくない。ぼくはこんな場所で子どもを育てるのがつらい。そこで育っていく子どもがかわいそうだと思う。


カナダ、ユーコンの深夜の虹

つまり、ぼくが消費社会を嫌うのは環境問題があるからではなく、仮に環境問題なんていうものがこの世にないとしても、嫌いなものは嫌いなのだ。文句が多い奴だと思われるかもしれない。でもぼくが望んでいるのはそんなに特別なことではない。自分の暮らしの中や周りにあるごく当たり前の愉しさや美しさや安らぎ。それを望むのが贅沢だと言われればそれでもいい。ぼくが欲しいのはその贅沢だ。安上がりで、スローで、シンプルで、慎ましやかで、威張らない、はた迷惑にならない、持続可能でエコロジカルな贅沢。


電気をナマケ、消費をナマケるキャンドルナイト。それは新しい快楽主義への入り口だ。

持続可能性とは、真面目で退屈で、憂鬱で自己犠牲に満ちた世界を表すものではない・・・。それは・・・1000通りもの、さまざまな方向からユートピアに近づこうとするプロセスなのである。(アラン・アトキンソン『カサンドラのジレンマ』)


韓国でキャンドルナイト2020夏至を呼び掛けるポスター

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