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執筆者の写真辻信一

緒方正人とのキャンドルナイト



 コロナ禍によって強いられたはずの新しい暮らしの中で、これまで以上に、季節の移ろいが身近に感じられる。毎日のように出かける舞岡の森では、いよいよ、山桜の実と桑の実が終わりを迎えつつある。連日手を赤紫色に染めるぼくの採集活動も幕を閉じる。梅雨を目の前にした今朝、残雪わずかとなった富士山を望んだ。その雄姿ともしばらくお別れだろう。もうすぐ夏至だ。そして、この一年も、折り返しを迎える。

 夏至と言えばキャンドルナイト。思えば、ぼくが仲間たちと夏至の夜にキャンドルナイトをやり続けて、今年でちょうど20年目だ。忘れかけていたのだが、緒方正人は2008年の冬至の頃に、ぼくが仲間たちやゼミ生たちと催したキャンドルナイト・イベントに来て、話をしてくれた。音声記録があるというので、早速、とり寄せて聞いてみた。その夜は、まず緒方による講演のあと、もう一人のゲスト、オーストラリアから来日中だったアンニャ・ライトを交えた座談会があった。

 以下、その座談会での緒方の発言から一部を抜粋してみたい。

 


緒方:これは不知火海だけでなく、他の漁村でもそうだと思いますが、長い間に藻場が、あるいは干潟が埋め立てられて、小さな魚が育つ、人間で言えば、広場や保育園みたいなところが埋め立てられてきてしまい、魚が育つ場所がだんだんなくなりました。海の水質もだんだん悪化してきた。また最近で一番大きいのが温暖化で、この20年ほどで、年間平均で2度くらい上がったと言われている。そうするとそれまでの生態系が壊れてしまうわけですね。


 生活排水のような問題もあるし、また漁師の方のとり方問の問題もあって、「とれるときにとっとけ」みたいな形での乱獲がある。そういうわけで魚はずいぶん少なくなってしまいました。50年前に比べたら、おそらく50分の1か、100分の1くらいになっとると言ってもいいと思います。貝類、ナマコやタコなんかでも随分少なくなった。

 それで、私は10年くらい前に、「その魚たちはどこへ行ったのか」と考えたわけです。みんな、言うんですよ。魚が少なくなった、消えてしまった、と。とれんようになったと、不平不満は言うんですよ、漁師たちも。でも、俺はちょっと考えてみたんです。「一体魚たちはどこへ行ったんだろうか」って。で、思ったのは、これは消えたというより、イヲ(魚)たちが、人間たちに愛想をつかして天に昇ったんじゃなかろうか、と。

 で、今日のような祭りをやったことがあるんですよ。そしてそれを「イヲ満天の夜」と名付けまして。イオマンテという北海道の熊祭り、「イオマンテの夜」に引っ掛けて・・・

辻:ちょっと待って。これ、ダジャレですよね。皆さん、分かったらちゃんと反応してくださいね(笑)。いいですか、「イヲ」というのは、方言で魚のこと、天に満ちるで「満天」、それとアイヌ民族の「イオマンテ」という熊送りの祭り、また昔の歌謡曲に「イオマンテの夜」というのがあって、それとかけている。うーむ、説明が大変だ、というか高度なダジャレですね。なるほど、天に魚を見るわけですね。

 正人さん、実は今日、学生たちがこの境内の坂の上に、ロウソクをいっぱい並べて、たくさんの魚をかたどったキャンドルアートを作っているんですよ。あかりの魚がたくさんいます。


緒方:いやあ、今日のチラシを見たときに、いいフレーズだな、って思ったんですよ。「命の灯りを運ぶ魚」だったかな。うん、いいなあ、と。


・・・おそらく、アンニャさんや私が今日言っていることは、他の生き物たちから私たちを見たら、一体どういうふうに見えているだろうか、映るだろうか、ということなんじゃないかな。多くの場合、これまでは、人間から見る目線だったんですね。人間から見て、他の生物はどれだけの価値があるか、資源としての商品価値があるか、見下したような目線でばっかりで、自然界を見てきた。

 そうじゃなくて、逆に、「見られている」んだと、と考えてみる。見られているとすれば、自分たちはどういうふうに見えるだろうか、魚から見たら、蛍から見たら、メダカから見たら、私たちのありようというものが、私たちの傲慢さというものが、驚くほど、映し出されているんじゃないかなと思います。

 

 

 ぼくにとって長年の願いがやっと叶い、『常世の舟を漕ぎて』(増補熟成版)が出版されたのは、ぼくの退職間際の3月下旬だった。計画されていた一連の出版記念イベントは、ぼくの退職記念の催しとともに、きれいさっぱり、パンデミックという洪水に押し流されてしまった。


 ぽっかりと空いてしまった宙ぶらりんの時間の中で、ぼくは何度もこの本のページをめくっていた。自分が長年聞き手として聞いてきた、編著者として書いてきた言葉が、パンデミックという見知らぬ異郷の地に立った今、ぼくの耳にも聞き慣れない新鮮な響きを持っていることに驚きを覚えた。


 そして気がつくと、緒方正人の言葉を手がかりに、コロナ危機の中にある世界について、そしてコロナの向こう側に広がる世界について、考えることが、新しい生活の中での、思考の習慣となりつつある。

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