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さようなら、プラチャー、ありがとう 



2014年9月、タイ、バンコクの郊外にあるウォンサニット・アシュラム。ぼくとゼミ生たちは、世界的に知られる瞑想の先生であるプラチャーから、二日間の瞑想セミナーを受けた。さまざまな種類の、時にはまるで楽しいゲームのような瞑想のプラクティスの合間に、プラチャーは若者たちに、にやさしい言葉で、しかし情熱を込めて語ってくれた。恋をしなさい、そして今ここにいきてあることを楽しみなさい、と。


「今・ここ」を、マインドフルに by プラチャー・フタヌワット


<「今、ここにいる」ということ>

瞑想によって気づかされるのは、私たちは普段、何もしないでいることが本当にない、ということ。それは、しかし、自然にそうなのではないと私は思う。それは現代社会が、あまりにも「すること(doing)」に偏りすぎているからなのだ、と。「すること」をよく見てみると、何かの目的に向かって、何かを達成しようとして事をなしている、ということがわかる。この「する(do)」にあまりにも傾いていると、その対極にある

「いる(be)」が見えなくなってしまう。しかし、実は、「いる」ということこそが存在の大もとだ。我々の存在それ自体が「いること(being)だと言ってもいい。「いること」がしっかりしているからこそ、「すること」が可能になる。この二つのバランスがとれていることが健康ということだろう。それが英語の「ウェルビーイング(well-being)」。それは心身の健康、そして幸せを意味する。

 もちろん「すること」がない、純粋な「いること」などありはしない。

いつも何かは「している」わけだ。でも何かをしている時にも、その過程(プロセス)そのものに価値がある。「すること」の結果として何かが達成されることが大事なのではなくて、「している」こと自体が、そのプロセス自体が大切なのだ。言い換えれば、「している」過程は、その行為の結果にかかわりなく、それが成功であるか否かに関係なく、それ自体として意味をもっている。

 駅まで歩く、駅に着くという目的だけが大事だとすると、そこまでのプロセス、一歩一歩は全部どうでもいいことになってしまう。しかし、私たちの人生とはその一歩一歩の積み重ねだ。その一歩一歩に意味があるはずだ。

 私たちの生き方はどうだろう。一歩一歩には何の意味もなくて、着いたという結果だけにしか意味がない、という生き方を、私たちはしているのではないか。そうだとしたら、人生とは一体何だろう。目的地、到達点に立つことにしか意味がなかったら、今ここにこうして「いる」ことにも意味がないことになってしまう。

 駅に着くという目的のためだけに生きている人には、まずそこまでの間(プロセス)がない。また、駅に着いた後に、その人はどうなるのだろう。そこにはもう何にもない。空っぽになってしまう。だから、今度は次の駅を目的地にして、そこに到達することを「生きがい」とする。その次の駅に着いたら、またその次の駅⋯。そうやっていつまでも先にある目的のために生きる。生きていくプロセスそのものは無意味なのだ。

 これでは、いつまでたっても、今は目的地へ向う途中で、今は未来のための手段でしかない。いつまでたっても、「今・ここ」は留守。これでは空っぽの人生なのではないか。それというのは幸せであることを忘れてしまっている。

 これは脳神経科学の研究にもある。多くの人が、未来と過去の間を行ったり来たりしている。そしてぐるぐると過去と未来を思い巡らすことが多く、現在にあることが少ない。「今」が空白になっている。

 たとえば今、素敵なところに来ている、とする。そこで素晴らしい時を過ごす代わりに、過去のことを考えて、ああすればよかった、などという後悔ばかりしているとしたらどうだろう。また、家に戻った時、自分の恋人がまだ自分のことを好きでいてくれるかどうか、と思い悩んだり、来月の試験の心配ばかりしているとしたらどうだろう。過去にこだわり、未来を心配し、行ったり来たりしている。それでは、「今・ここ」

は一体どうなってしまうのだろう。


<マインドフルということ>

このように行ったり来たりしているサーキットをどんどん小さくしていくと、現在にだんだん向いてくる、ということに精神科学や脳科学も注目している。これは、「マインドフルネス」と呼ばれるもので、そのための訓練をすると、「今・ここ」に意識が集まって、充実してくるという結果が出ることがわかってきている。瞑想は、今や科学の世界なテーマなのだ。

 きみたちは食器洗いが好き、それとも嫌い? 嫌いな人は、食器洗いを終えるためにやっているのだと思う。そして終わった時に「あ

あ、やっと嫌なことが終わった」と思う。さっきの「駅に着く」という目的のために歩く、というのと同じで、「食器洗いが終わる」という瞬間に向かっている間の時間は、無意味な時間だと考えてはいないだろうか。

 でも、その代わりに、洗っているという行為そのものに意味があると感じられるようになる。それをマインドフルな食器洗いという。

 きみたちには好きな人、彼氏や彼女がいるだろうね。これにも同じことが言える。相手の心をとらえておきたいと思らかもしれない。でも、それは何のため? ある未来の時点のため? ある目的のため? その目的を達成したら終わり? これは、若い時にはなかなかわかりにくいことなのだが、私のような年代になるとわかる。プロセスにこそ意味があるのだ。相手の心を獲得することが大事なのではない。それより、それまでの過程が大切なのだ。そもそも恋とは目標を達成するようなものではない。

きみたちも恋を楽しんでほしい。恋の一瞬一瞬を楽しむのだ。


<音もなく車輪は回る>

これはブッダが使った車輪の比喩だ。車輪と言っても、これはブッダの時代のことだから、自動車ではなく、牛にひかれる牛車の車輪のこと。ブッダは車輪が地上に触れている一点を指して言った。「人生とは車輪のこの一点だ」と。その一点を過ぎた後に回っている車輪は過去、その一点に向ってきている次の車輪は未来。私たちが生きているのは、常に地に触れている一点だ、と。

 私たちはその二つの車輪のことにばかりこだわって、肝心の一点を見失っているのではないか。車輪は回っていくように見えるが、それは常に一点で地に触れ続けている。そのことは不変だ。「今」は束の間で、次から次へと過ぎ去っていくように見えるが、「今」はいつも「今」で、そのことは不変だ。

 確かにこの一点に戻ってくるのは容易ではない。なぜなら、社会は、手助けをしてくれるどころか、逆に、私たちの邪魔ばかりしてくるのだから。その意味では大変だ。社会は「今・ここ」になど意味はない、と私たちに囁きかける。「地に触れる車輪の一点などは、過ぎ去りつつある無意味な一瞬にすぎない」と言っているかのようだ。

 しかし、伝統文化に目を向けると、そこには現代社会とはかなり異なったメッセージが豊富に見出される。

例えば仏教だ。仏教的な伝統は、マインドフルという心のありように満ちている。日本の茶道はまさにそのことを教えている。水墨画や書道の世界もそうだ。硯で墨をする、筆に手を置く、それを取り上げる。そしてその先に墨をつける、などのすべての動作が、単なる目的のための手段や準備ではなく、それ自体の本質的な意味をもっている。マインドフルであることを教えるための教育の機会を、きみたちの文化はたくさんつくってきたのだ。

 美しい絵を観る。そこにあるのは単なる結果ではない。上手な人がつくり出したみごとな結果ではない。そこには全部のプロセスが表現されている。ある人は一筆で、さっと線や丸を描く。ある人は何度も絵の具を塗り重ねる。そこにはそうしたプロセスが息づいているのだ。

 かつて私が日本に行った頃は、家に上がる時は皆ちゃんと靴を揃えていた。これはマインドフルな家への入り方というものだ。その日本の習慣が最近は消えつつあるらしい。

 でも、これは日本のスロー・ムーブメントの非常に大切なところだと私は思う。こういう一見ささいなことをどうか大事にしてほしい。伝統的な知恵を大切にしてほしい。

 しかし、現代社会はきみたちにその反対を教えようとする。効率的な方が、速ければ速い方が、多ければ多い方が、大きければ大きい方がいい、と。何でも、「もっともっと」だ。そして社会は、人々の心は、完全にバランスを失ってしまっている。(続く)


「プラチャー講義 「今・ここ」をマインドフルに」(DVDブック『スラックとプラチャーの 音もなく慈愛は世界にみちて』所収)より





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