京都 因幡堂(平等寺)にて
小さな子どもの目は美しく
見えたものをそのまま映し出す
澄んだ瞳をしている。
仏教では、仏性について
「全ての人間の心にそなわる仏となる可能性」
とあるが、神の子と言われる10歳位までは
子どもは、その純粋さゆえの
「仏」ではないかと思う。
しかし、成熟した意味での仏となるには
困難や悲哀を経験し
それらをどう乗り越えてゆくか
その対峙の仕方と方便に
かかっているのだろう。
どう考えても
理不尽な立場や状況に置かれたとき
大きく分けて二つの選択肢がある。
現状を受け止め、流れに逆らわず
宥和的に行動する。
もうひとつは、断固と立ち向かう姿勢を取る。
それぞれの置かれた立場、力関係
または性質など
どう行動するかは、苦渋の選択を迫られる。
腸内細菌によると
善玉菌、日和見菌、悪玉菌の理想の割合は
2 : 7 : 1とされ
7割を占める日和見菌は
善玉が優位になると善玉の味方となり
悪玉が優位になると、悪玉に傾いてしまう。
まるで人間世界を表すようであるが
人間も自然の一部だとすれば
それは理なのかもしれない。
因幡堂(平等寺)で目に留まったポエムによると
「苦しみや悲しみは
目に見えない強いたて糸」は
自然界の理で
回避困難な天変地変や
暴走する人間のエゴであり
「喜びや幸せは、温かく柔らかいよこ糸」は
融通無碍に、宥和的な方向に
現状を乗り越えてゆく
仏性の道筋なのかもしれない。
善玉に導かれ、日和見菌がよい方向に活性化し
悪玉をどうにか、1に止めて
バランスを取り
平和な世の中にならんもんかと。
日和見菌の願いです^^
日和見菌の長いものに巻かれろ感、パないです。
生きることの喜びといったようなひとの柔らかい部分が、ないがしろにされがちな現代社会ですが、強さ(力)ではなく、温かさ、柔らかさが増殖していってほしいなと思いました。