top of page

居心地悪さの正体  柴田紘甫



 僕は今、千葉県いすみ市で農業をしながら田舎暮らしをしている。いすみ市は小中学校の給食がオーガニックに切り替わっているなど、特に子育て層の移住先として人気が高く、若い世代が多く移り住んでいる町だ。そんないすみで早くからカフェや宿泊施設を始め、多くの人をつないできたブラウンズフィールドで僕は農業スタッフをしている。今回はここでの共同生活でふと感じた居心地の悪さについてお話しようと思う(決して愚痴ではないです(笑))。


ブラウンズフィールドでは、複数のスタッフが共同生活をしているため、農業以外にも日々の生活に関する仕事がある。朝の掃除や食事の準備・片付け、カイロ代わりの豆炭作り(冬の古民家は寒い!)などをスタッフが毎日協力して行っている。ある日、僕が外から戻ると各々が夕飯の支度などで動いていた。僕の仕事である豆炭作りも他のスタッフがやってくれている。他のみんなも夕食作りに夢中だ。自分も何か手伝おうと声を掛ける。


自分「何か手伝うよ!」

スタッフ「お風呂沸いてるよ」

自分「...(何か仕事が欲しいなぁ)」


手伝うことはないらしいが、風呂に入る気分ではない。一人だけ座って休んでいるのも気が咎めるので、立ったままソワソワしている。しかし、ずっとそうしているのも苦しいので、一旦部屋に戻ってしばらくじっとすることにした。そうすると自分の面白い感情に気づく。


 まず、自分の仕事である豆炭作りをやってもらっていることに気付いた時、いつもの仕事ができないことに悔しさを感じた。本当なら自分の仕事を代わりにやってくれていたら嬉しいはずだが、その時は自分の仕事がなくなってしまったことにある種の焦りを感じていた。その後も仕事を探して料理の手伝いを志願するも入り込む余地はなく、完全に暇を持て余してしまったわけだが、この時もどこか居心地の悪さを感じていた。

 

 今度はこの焦りや居心地の悪さはいったいどこから来るのか考えてみる。すると、あることに気付いた。自分は“いる”ことに焦りや居心地の悪さを感じていたのだと。周りのみんなが何かを“する”中で、自分だけがただそこに“いる”ということに耐えられず、“する”ことを欲した。だから“する”ことを求めて回ったが、仕事がなくその欲求は挫かれた。


 何となく「何か仕事を“する”者に夕飯を食べる権利があり、その場に滞在することが許される」という気がしてしまうのだ。実際に人は足りているわけだし、自分だけ仕事をせずにご飯を食べても誰も文句は言わないだろう。だけど、みんなが動いている中、自分だけ休んでいるのは気が引ける。その場にただ“いる”ことができず、何かを“する”ことで安心する。そんな経験が誰しもあるのではないだろうか。



 東畑開人による書籍『居るのはつらいよ』でも”いる”ことの苦悩について、臨床心理現場での体験談を基に綴られている。筆者が精神科クリニックで患者さんと過ごす日々は、患者さんと何かを“する”ことよりも“いる”ことの方が多い。そこで生じる「ただ“いる”だけの日常」と「それでいいのか?」という葛藤に、現代社会の病理を見ることができる。常に何かをしていないと周りから認められない、何もしないことは許されない。誰に言われるわけでもないが、何となくそんな気がしてしまう世の中なのだ。『居るのはつらいよ』で描かれているこの葛藤は、私たちが日常で感じる悩みと通じるところがある。


 僕が感じた、手伝うことがない居心地の悪さも、「何かしなければそこにいられない」という感覚が生み出していたのかもしれない。自分は結構”いる”ことが得意だと思っていたが、意外と”する”ことに流されていたようだ。


 仕事も遊びも家事も、たまには休んだりさぼったりした方が良い。”する”ことに囚われていると”いる”ことがいつの間にかできなくなってしまうから。”する”ことがなくて困っている時、何となく居心地の悪さを感じた時は、ただ“いる”ことにじっくり向き合ってみるといい。“いる”ことで湧いてくる感情を探ってみると、自分の面白い思考が見えてくるかもしれない。


 人生においてしなければならないというものは意外と少ない。だから無理に“する”ことを探すのではなく、ただ“いる”ことを楽しむ。何を“する”でもなく、ただ“いる”ことができる場所こそ本当に居心地が好い場所と言えよう。僕も何もしないこと、ただ“いる”ことの心地好さを人と自然との暮らしの中で今一度感じてみようと思う。

bottom of page