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ナマケモノしんぶんをはじめよう 



一つの年から、もう一つの年へとトボトボと歩みながら、「新年」とか「新春」という言いかたが嫌になってきた。いったい何がそう新しいというのか!?


ただのへそまがりだと言われてもしかたない。でも、言いたいのだ。「新しい」という言葉をぼくたちはあまりに安易に使いすぎるのではないか。そして「新しさ」なる考えかたに慣れすぎているのではないか。それは、「異常」とか「異変」とかいう言葉に頼りすぎて、もう何が正常なのか、何が、何年、数十年前、数百年前、数千年前と変わらずに続いているのか、わからなくなっていることにも似ている。まるで世界は主に、新しさや奇異な物事によってできているとさえ、思い始めていはしないか?


変化には、人間に都合のいい変化も、悪い変化もある。それなのに、いつの間にかぼくたちは、「変化そのもの」はよきことであり、必然的なことだと感じているらしいのだ。しかも、変化は速ければ速いほどいい、と。変化のスピードについていけなくても、悪いのは自分たち。変化についていけない者の自己責任だ、と。 


しかし、考えてみれば、「新しい」は人間の勝手な思い込みにすぎない。年が明けて、わが町から遠く富士の山を拝むのは確かに晴れがましい気持ちがする。でも、その雪をかぶった雄々しい姿も、雪をかぶった葉の陰から顔を覗かせる金柑の愛らしい姿も、冬枯れの森の中にあって、青々と艶やかな葉と若草色の花で人の目を驚かすヤツデも、冴え冴えと光る三日月も、昔の人々が眺めたものと変わらない。全ては一見同じでありながら、しかもなお、日々更新されて、輝いている。恒常性の中の生と死と蘇り。動的平衡。それが本当の「新しい」の意味だろう。


ぼくが“代表”をさせてもらっているナマケモノ倶楽部では、今年から「ナマケモノしんぶん」という名のオンラインマガジンのようなものをはじめる。だが、問題はその「新聞」という言葉なのだ。英語の「ニューズペイパー」は文字通り、新しいことがらを書き連ねた紙。日刊であれば、そこに書かれていることは半日かそこいらで古びて、価値(ニュースバリュー)がなくなる。ニュース(news)という言葉自体が「新しいことこそがよきこと」というメッセージなのだ。


もう一つ、新しさとおそらくは関連して、ニュースといえば、そのほとんどは、正常なことではない、つまり、異常なことがらについてなのである。そしてその結果だろう、ニュースのほとんどは「バッド・ニュース」だ。朝刊と呼ばれるように、新聞というものを朝読むとすれば、ぼくたち読者たちは、悪いニュースのシャワーをいきなり浴びてから、今日というこの日を開始するというわけなのだ。夕方に読もうと思えば、もう夕刊が届いているし、そもそも、その頃には、朝のニュースはすっかり古びて、古紙回収か、包み紙に使うかだけの価値しか持たなくなっている。そこに書かれているニュースにはもうゴミなのだ。


若者たちが紙としてのニューズペイパーに見向きもしなくなったのは、その代わりにネットでニュースが見られるからだということもあろう。でも、ネットだろうが、紙だろうが、ニュースを読むということ自体をしなくなった者が多いことは、大学に長年いて若者を見てきたぼくはよく知っている。若者のニュース離れを嘆く大人の気持ちはぼくにもよくわかる。しかしぼくは、そもそも、新しいことがらをなんでそんなに必死に追いかけなければならないのかという、そのあたりから大人たちも考え直してみたほうがいいのではないか、とも思うのである。


まあ、そういうこともあって、「ナマケモノしんぶん」では「新」という字を避けることにした。そして英語で言えば、「ナマケモノ・ニュース(NEWS)」の代わりに、「ナマケモノ・ノットソー・ニュース(NOT-SO-NEWS)」と自らを規定し、新しく見える物事の中にも、古さや以前からの連続性や不変性を見出す態度を尊びたい。だからぼくたちの記事には蒸し返し、繰り返し、引用などが多い。とうてい、オリジナルとは言えない。でもそれでいいのだ。


もうあちこちで書いてきたことだが、「オリジナル」という言葉の使いかたがおかしいのである。現代社会では、「オリジナル」と言えば、「独創的」で「新しい」ことを意味する。でも、『オリジナルな思考(Original Thinking)』の著者グレン・A・パリーによれば、アメリカ先住民の長老たちがいう「オリジナル」の意味とは、「源(オリジン)にしっかりと根ざしている」こと。つまり、現代のグローバル社会と先住民社会とでは、時間に関して真逆の態度を示しているということだ。先住民的時間がある特定の場所における自然のリズムという具体的なリアリティと切り離しがたくつながっているのに対して、ぼくたち現代人の時間は、場所や自然から切り離され、何ものにもつながっていない抽象概念としての時間。


そんな根なしの時間は、植物とちがって餌を求めて動き回る動物的な時間だとも言える。動き回れるほうが優れているように見えるかもしないが、どうだろう。問題は、根っこという歯止めがないから、その時間は加速し始めるのである。時間が加速すると、それに連れて、変化のスピードが速まり、物事が古びるスピードも速くなっていく。また蒸し返しになるが、加速する時間が向かう「よりよい方向」とは、近代的な産業社会の文脈では、より効率的な方向を指す。同じ物をより速く、同じ時間内でより多く生産する。そのためには組織や資本を拡大して、規制を取り払って市場を拡大し、機械化し、技術革新を競い……。こうして「より速く、より大きく、より多く」が時代の合言葉となる。


見回してみてほしい。誰もが忙しがっている。「時間がない」と嘆いている。それは科学技術の進歩によって、次から次へと、時間を節約するための機械が出現してきたことを考えれば、奇妙なことだ。人々も仕事を早く済ませるために急ぐ。でも、急げば急ぐほど、最新のハイテクを駆使すればするほど、逆に忙しくなり、時間はなくなっていく。その時間の中に詰まっていたはずの貴重なつながりもまた消えていく。そしてしまいには、鏡の中に、孤立して、生きがいを失った、そしてすっかり古びた自分自身を見出すのだ。


失礼、「ナマケモノしんぶん」へと話を戻そう。「ノットソー・ニュース」は「NOT-SO-NEWS」であると同時に、「NOT-SO-KNEW-S」でもあればなおさらいい(ダジャレもここまで来るとついてこれないかな)。ぼくたちはニュースを消費しながら、根拠もなく、知ったような物知り顔の傲慢な態度を身につけている場合が多いのである。より早く、より新しく、より衝撃的なことを求めて要求を高めていく読者たちに対して、書く側もそれに応えようと、ニュース性をエスカレートさせていく。それに対して、ぼくたちの「ナマケモノしんぶん」はあくまで悠長に構えて、それほど新しくも早くもない「ノットソー・ニュース」をのんきに発信するだろう。「みなさん、もうご存知かと思いますが・・・」とかと言いながら。でも新しくも早くもない分、“賞味期限”は長い。いや、ないに等しい。形容矛盾ではあるが、「スロー・ニュース」なのである。


また、「ナマケモノしんぶん」は「グッドニュース」なのである。だから朝から読んでも、それからの一日にそれが暗い影を落としたりすることはない。とはいえ、ことわっておくが、バッドニュースに目をそむけようと言っているのではない。環境=文化運動のナマケモノ倶楽部が、環境危機や社会危機に背を向けたら、もうそれは運動ではない。「ナマケモノしんぶん」はバッドな現実にしっかりと向き合う。でも、他の新聞の書き手たちとはちがって、われらがナマケモノ・ライターたちは、否定的でシニカルな“”現実主義“の代わりに、自分の中の理想主義や性善説を全開にして、読者のうちに希望の火を灯すことを目指す。そう、それは確かにナイーブで、甘っちょろい。楽観論だと言われれば、そのとおりなのだ。読んでもハラハラしない。このしんぶんに登場するのは、たぶん、めったにいない悪人や犯罪者よりは、どこにでもいそうな”いい人“たちだから。


そんなわけだから、「ナマケモノしんぶん」に、目新しくて、びっくりするようなニュースは期待しないでほしい。読者への要求が多いと言われそうだが、スローに、辛抱強く、寛容に、温かく見守っていただけたら、幸いである。







  

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