12月下旬、韓国への旅の途中で体調を崩し、以来1月中旬までこれまでに経験したことのない不思議な身体の不調を経験することになった。まだ病床にあった年末、敬愛するダグラス・ラミスさんの娘さんである、斎藤ラミスまやさんから連絡があり、彼女が訳した『ガザの光 炎の中から届く声』という新刊書を送ってくれるという。まやさんから連絡をいただいたことが何よりうれしかった。元ゼミ生であり、ナマケモノ倶楽部創設当時からのアクティビスト仲間でもあった藤岡亜美さんは、まやさんの親友でもあった。3年前に亜美さんが亡くなってからまやさんの消息がぼくのもとまで届かなくなっていた。
その彼女が訳したという『ガザの光』。著者はガザ出身者たち。その中には、この一年「もし、私が死ななければならないなら」という詩で今では世界中に広く知られるようになった詩人リフアト・アルアライールもいるという。ぼくは早速、「ガザとくればもちろん興味津々です」と応じたが、正直に言うと、ぼくは時間があるこの時とばかり、連日、YouTubeでパレスチナをめぐる惨憺たる状況を伝える「デモクラシー・ナウ」や「アルジャジーラ」の番組に浸りきっていて、ますます気が滅入り、それがぼくの病気がなかなか癒えない一因ではないか、と自分でも思えるほどで、この上さらにガザについての本など読めるのか、自信がなかった。

本が届いたのは年末だったか年始だったか、ともかく二つの年の境目だった。ぼくにとって新年を迎えるということがこれほど無意味に思えたことはかつてなかったが、考えてみれば、もちろん、ガザには祝うべき年末も年始もない。封筒から本を取り出すと、この本の制作に関わった人々への愛おしさがぼくのうちに溢れた。この人たちは、この日まで、ガザの惨劇が続いていると思っていただろうか。本の発行日をみると、2025年1月1日とある。そこにも何らかの区切りを置こうとした制作者の思いを感じる。
サブタイトルは「炎の中から届く声」。表紙カバーの絵はアラブ風の街並みの上に広がる明るく青い空とそこに浮かぶいくつかの雲。そのカバーを外すと、本体の表紙にあるのは同じ街並みが色を失って暗く佇むような絵だ。カバーにかけられているターコイズブルーの帯には大きな文字で「私たちは、まだここにいる。」という言葉が掲げられている。そして帯の後ろ側には、著者の一人であるリフアト・アルアライールの言葉。
「読者のみなさん、この本を読み進めるあなたは、その行動によって人の命を救い、歴史を変える可能性を持っている。あなたには何ができますか?何をしますか?この本に意味を持たせてくれますか?」
今は亡き詩人のこの問いかけに導かれるように、いまだに怠さと微熱に付き纏われているぼくは本を開く。そして少しずつ読み始める。
以下、①『ガザの光』の巻頭にあるリフアト・アルアライールの文章「ガザは問う いつになったら過ぎ去るのか」の一部を抜粋させていただく。彼のプロフィールは、「現代詩手帖」2024年5月号の「パレスチナの現代詩人たち」から引用する。②次に、『ガザの光』の本文に引けをとらない深い感動をぼくに与えてくれた斎藤ラミスまやさんによる「訳者あとがき」を、ご本人の承諾を得て、ここに全文掲げたい。
現在、ガザは停戦中だ。その背景にある政治的力学がどういうものであったにせよ、また今後のイスラエルによる侵攻の継続も予測される状況であるとはいえ、まがいなりにも停戦が実現したことを喜びたい。ガザの人々に1年半ぶりの心の平穏が訪れていることを心から祈る。「私たちはここにいる」という人々の声、「あなたに何ができますか」、「しますか」という問いを手放すまい。
① リフアト・アルアライール Refaat Alareer
一九七九年生まれ。詩人・作家・活動家。
ガザ・イスラーム大学で世界文学と文芸創作を教えた。ガザを代表する詩人のひとりであり、若い作家たちの精神的支柱だった。Weare not numbers (わたしたちは数ではない)
の共同設立者。ガザのつぎの世代のための公共圏をつくることに尽力した。パレスチナの土地で、世代をこえて受け継がれる物語の可能性を借じた。二〇二三年十二月六日、イスラエル軍の爆撃の標的となり、殺害された。

「ガザは問う いつになったら過ぎ去るのか」より抜粋
二〇一四年のガザ侵攻時、イスラエルはイスラーム大学の管理棟を爆撃した。ミサイルは英文学部の研究室の入った建物に落ち、私の研究室が破壊された。そこに私は、いずれ本にしようと思っていた数多くの物語、提出物と試験の書類を保管していた。
イスラーム大学で教え始めて出会った若い学生たちは、ほとんどがガザから出たこともなく、イスラエル占領下で大きな苦しみを味わっていた。二〇〇六年にイスラエルが包囲を強化すると、この苦しみはますます悪化した。(中略)
当初、学生たちはイェフダ・アミハイ[イスラエルの国民的詩人](だってイスラエルのユダヤ人じゃないか!)を勉強することやシェイクスピアのシャイロック[『ヴェニスの商人』の強欲なユダヤ人高利貸し(辻註)]や、ディケンズのフェイギン[『オリバー・ツイスト』のスリ団を率いるユダヤ人ボス(辻註)]に関する私の「進歩的な」見方を受け入れるのに困難を感じていた。多くの人々がフェイギンを究極の悪人と見ている。彼は子どもたちを盗人や殺人犯に仕立てることで彼ら自身と社会の未来を少なくとも比喩的に殺している、諸悪の根源じゃないかと。
時間が経って初めて、学生たちはフェイギンが、自分と異質な人、肌の色が黒かったり、人種、肌の色が黒かったり、人種が違ったり、自分とは違う物語を持っていたりする人々を憎む社会の産物にすぎないことを理解できるようになってきた。彼らはフェイギンが、教会そのものより善良であるとさえ理解するようになった。フェイギンはホームレスに住む場所を提供し、オリバーのような子がほんの少しでも幸せに希望を持って暮らせるようにしているのだ。それが学生たちにもわかってきた。ユダヤ人のフェイギンは、もはやユダヤ人というだけではなかった。彼は私たちと同じ人間だった。(中略)
私が学生たちに投げかけた最も難しい質問は、「もし君がフェイギンだったら、どうしたと思う?」だった。この質問は学生たちに人種と宗教の問題を再考し、それを超えたところにある人間性とその共通の目標を受け入れるよう促すものだった。
しかしシェイクスピアの『ヴェニスの商人』を教えるのはより困難だった。多くの学生たちにとって、シャイロックは救いようのない人物と映った。彼は自分の娘にさえ嫌われていたのだから!しかしながら、イスラーム大学には、開かれた心、対話へのコミットメントとあらゆる文化と宗教に対して敬意を払うべしとする理念がある。私はそれに基づき、他者に対するすべての偏見、あるいは少なくとも文学を分析するうえでそれを乗り越えることを、学生たちとともに目指した。


したがってシャイロックも、野蛮で人喰い人種的な復讐への欲望を満足させるために一ポンドの肉を要求したユダヤ人という単純化された観念から、まったく別の人間へと変化を遂げた。シャイロックはイスラエルによる攻撃と破壊と人種差別だけでなく、その軍国主義的な政権の繰り出す偽情報と中傷につねにさらされる私たちパレスチナ人と、まったく同じような目に遭ってきたのだ。シャイロックも、アパルトヘイト的な社会が打ち立てた多くの宗教的、精神的な壁に囲まれて生きてきたのだ。シャイロックは、次の二つの選択肢から選ばなければならない立場にあった。完全に服従し屈辱を受けながら人間以下の存在として生きるのか、あるいは彼に手の届く範囲の手段を利用して抑圧に抵抗するのか。彼は現代のパレスチナ人と同様、抵抗することを選んだのだ。
シャイロックの「ユダヤ人は目なしだとでも言うのですかい?」から始まる演説は、もはや殺人を正当化するための哀れな言い訳ではなく、長年さらされてきた苦痛と不正義に対する訴えとして響き始めた。私たちとシャイロックの共通点があまりに大きいことに気づいた学生の一人が、この独白を次のように編集したときにも、私はまったく驚かなかった。
パレスチナ人は目なしだとでも言うのですかい?パレスチナ人には手がないとでも?
職時なし、五体なし、感覚、感情、情熱なし、なんにもないとでも言うのですかい?同じものを食ってはいないと言うのかね、同じ刃物では傷がつかない、同じ病気にはかからない、同じ薬では癒らない、同じ寒さ暑さを感じない、何もかもクリスト教徒とは違うとでも言うのかな?針でさしてみるかい、われわれの体からは血が出ませんかな?くすぐられても笑わない、毒を飲まされても死なない、だから、ひどいめに会わされても仕かえしはするな、そうおっしゃるんですかい?(シェイクスピア『ヴェニスの商人』福田存訳、新潮文庫をもとに一部変更)
イスラーム大学の英文学部で六年間教えてきて私が最も感激したのは、学生たちに、アラブ系のオセロとユダヤ人のシャイロック、どちらの登場人物により共感するか聞いたときだったかもしれない。ほとんどの学生が、オセロよりシャイロックに親しみと共感を感じると答えた。そのとき初めて私は、学生たちが成長し、占領と包囲の中で育つことで身につけてしまった偏見を打ち砕くのに自分が役立ったと思えた。悲しいことに、研究室にあったその試験の書類は、シャイロックが金と財産を没収されたことと呼応するかのように、燃やされてしまった。その答案をまとめて本にしたいと私はずっと思っていたのだが。
しかし、イスラエルはなぜ大学を爆撃するのだろうか。(中略)知識こそ、イスラエルの最大の敵である。啓蒙こそ、イスラエルが最も憎み、最も恐れる脅威である。だからこそイスラエルは、大学を爆撃するのだ。彼らが殺したいのは、開かれた心と、不正義と人種差別の下で生きることを拒否する決意自体なのだ。(以上、『ガザの光』40〜45頁より)
イスラエルがパレスチナ人の心に負わせた傷は、修復不可能なものではない。私たちは回復し、もう一度立ち上がり、闘い続ける以外の選択肢を持たない。占領に屈服することは、人類への、そして世界中のすべての闘いへの裏切りである。
結局のところ、パレスチナ人やパレスチナ人支持者が何をしても、イスラエルとシオニスト圧力団体の気に入ることはないだろう。そしてイスラエルの攻撃が衰えることもない。BDS[イスラエルによる国際法違反行為をやめさせるための、ボイコット、投資撤収、制裁などを駆使するグローバル・キャンペーン(辻註)]。武力闘争。和平交渉。抗議行動。ツイート。ソーシャルメディア。詩。イスラエルによれば、これらすべてがテロなのである。デズモンド・ツツ大主教は、南アフリカのアパルトヘイトだけでなく、あらゆる場所の、そしてとくにパレスチナでの人種差別に反対する正義の味方として世界中から尊敬を集める人物だ。だが彼でさえ、偏見のある反ユダヤ主義者と中傷された。有名な俳優のエマ・ワトソンも、インスタグラムにパレスチナ連帯の投稿をしたことで攻撃され、反ユダヤ主義と非難された。だから、リファト・アルアライール、アリ・アブニマー、スティーブン・サライタ、スーザン・アブルハワ、ムハンマド、ムナ・エル=クルドやレミ・カナズイがつねにシオニストの荒らしによる攻撃を受け、反ユダヤ主義という間違った中傷を受けるのは当然のことだ。シオニスト圧力団体は、イスラエルの犯罪に対してどれほど穏やかに批判しようが、パレスチナ人の権利に対する支持がどれほど軽微であろうが、それを阻止するために猛攻撃を仕掛けてくる。これはイスラエルがパレスチナの武装レジスタンス勢力だけでなく、パレスチナ人の存在自体を標的としていることのさらなる証拠である。(46~47頁)
この本のための文章を依頼されたときは、これによって変化がもたらされ、とくにアメリカの政策が改善されるだろうという話だった。でも本当のところ、何が変わるだろうか?パレスチナ人の命に意味はあるのか?本当に?
読者のみなさん、この本を読み進めるあなたは、その行動によって人の命を救い、歴史を変える可能性を持っている。あなたには何ができますか?何をしますか?この本に意味を持たせてくれますか?
ガザはイスラエルがパレスチナ人を大量に虐殺しているときだけ大事なわけではない。そのときだけ注目されるべきなのでもない。ナクバの縮図であるガザは、私たちの目の前で、そして多くの場合、テレビやソーシャルメディアで生中継されながら、窒息させられ、切り刻まれている。
いつか過ぎ去ることを、私は望み続ける。きっと過ぎ去ると、私は言い続ける。本気で言っているときもあれば、そうでないときもある。そしてガザが生きようと喘ぐ中、私たちはこの状況を過ぎ去らせるために闘い、パレスチナのために物語を語ることで反撃する以外に、選択肢を持たない。
② 訳者あとがき 斎藤ラミスまや
二〇〇三年三月二〇日、アメリカがイラクに対する空爆を始めた日。わたしは仕事先のオフィスを後にして、アメリカ大使館に向かって走り始めた。そこに行けば、二〇〇一年にアメリカがアフガニスタンを攻撃する前から、ずっとアメリカによる「報復」攻撃に対する反対運動をしてきた仲間たちがいるはずだった。
私も何度か参加したので、寝袋を持参してそこに何日も泊まり込んでいる子たちもいるのを知っていた。彼ら彼女らみんなが、こんな理不尽なことは起きるはずがないと信じて、人を殺さないでと言い続ければきっと伝わるはずだと信じて、大使館前で抗議を続けていた。
その子とはちあわせたのは、その日、溜池山王駅に着いて、地下鉄から階段を駆け上がって外に出てしばらく行ったところだったと思う。そこで、私と同じように息を切らせて、向こうから走ってくる女の子に気がついた。彼女はヒジャブを被って、目にいっぱい涙をためていた。お互い何も言わなくても、私たちの目的地が同じであることはすぐにわかった。
一緒に大使館前に駆けつけてまず気づいたのは、今までずっとそこにいたはずの仲間たちが一人もいないことだった。代わりにそれまであまりその場所で見た覚えのない年配のグループが、整然と並んでシュプレヒコールをあげ、それを新聞・テレビ各局のカメラやレポーターが取り囲んでいた。ヒジャブの子としっかり手をつないで、わたしは誰かれかまわず聞いていた。
「昨日までここにいた人たちは?どこに行ったんですか?どうしていないんですか?」
どうやら、アメリカのイラク攻撃直前に機動隊が来て、彼ら彼女らは、強制的にその場所から引き摺り出されたということだった。誰かの意図的な指示があったのか、どういう仕組みでそういうことが起きるのか、詳しいことはきっと永遠にわからないままだろう。しかし結果として大手メディアが押し寄せた開戦時間にそこにいたのは、それまでずっと反対の声を上げ続け、おそらくその瞬間に言いたいことが最もたくさんあった人々ではなかった。
時は変わって二〇二三年、イスラエルのガザ地区に対する攻撃が始まってしばらく経った頃、ガザからの声を翻訳する活動を始めた。その一環として有志数名でハマースの声明を翻訳して、自分のグーグルアカウントのドライブで公開した。しばらくすると、アクセスできなくなっていますよとある人から連絡が来た。驚いて開こうとしてみると、確かに、自分個人のアカウント内にあるファイルなのに、「利用規約に違反している」という理由で、開けなくなっていた。『一九八四年』の世界が現実になっているような感じがして、背筋が寒くなった。
同時期くらいだったと思うが、英語圏のTikTokでは、ウサマ・ビン・ラーディンの「アメリカへの手紙」がバズり始めていた。その手紙には、「我々が闘う理由」の筆頭に、「あなた方がパレスチナの同胞を攻撃するから」があげられている。「荷物をまとめて、我々の土地から出ていけ」と彼は言う(そう、アメリカは一九四二年から進駐し始めて以来「ずっと中東に居座っている」のだ)。この手紙を読んで、イラクに対する攻撃のときには存在していなかったSNSを通してガザで何が起きているのかを現場のパレスチナの人々からダイレクトに受け取っていた若者たちは、「実存の危機」に陥った。そして、その手紙を掲載していたガーディアン紙は、オンライン上からそのページを取り下げた。
このあとがきを書いている時点で、TikTok に“Bin Laden Letter to America”と入れて検索してみても、コミュニティガイドラインがどうのという説明が表示されるだけで、当時の TikTok動画は出てこない。一方で、すでにパレスチナ人を数万人(被害者は主に女性と子ども)殺害した明白な責任者である“Netanyahu”の名前を入れれば、彼の演説しているものなど、数多くの動画が表示される。“Hamas”と検索ボックスに入れてみても、何も出てこない。一方で、病院や学校を攻撃するという国際法違反を、私たちがSNSを通してほぼライブでその情報を受け取る中犯し続け、数多くの民間人を殺害した明白な戦争犯罪の実行者であるイスラエル軍は、自分たちのTikTok アカウントを持ち、そこで楽しそうに踊っている。
「アメリカへの手紙」の内容や、ハマースがすべて正義だなどと言うつもりはもちろんないし、あのときの若者たちがテレビに映っていたからといって、何かの役に立ったかどうかはわからない。ただ、こうして片方の物語はなんとか揉み消されようとして、もう片方の物語だけがつねに優遇され続けていることを、改めて強調しておきたいだけだ。
この本は、まさにその、そもそもなかったことにされようとしている物語を私たちに伝えようとしている。人を切り刻み、生き埋めにし、学校を焼き、図書館を破壊して資料を焼き払い、病院の新生児から酸素を奪い、ジャーナリストを狙い撃ちして、さまざま手段でメディアやSNSをコントロールしてまでイスラエルが隠そうとしているその物語を、ラシード・ハーリディー氏は簡潔にこうまとめている。「パレスチナの近現代史は、先住民の意図に反してその郷土を他民族に明け渡すよう強制した植民地戦争と理解するのがもっとも適切である」(「パレスチナ戦争」鈴木啓之・山本健介・金城美幸訳、法政大学出版局、一〇頁)。
そう、そんなに複雑なことじゃない。「ガザの紛争」とか、「パレスチナ問題」とか、アメリカやイスラエルに対抗しようとする勢力にだけ貼られる「テロ」というレッテル等々、ある種のニュースピークによって煙幕がかけられていただけだ。この本は副題のとおり、その煙幕の向こう側から、まさにすべてを焼き尽くして黙らせようとする炎の中から届いた文章群である。「タンクの壁」を叩く音は、もはや隠しようのないほど大きく鳴り響いている。
だが私はここで、ここまで読んでくれた読者のみなさんに、「あとはあなた次第だ」というようなことをこれ以上言うつもりはない。それはリファト・アルアライール氏が第一章ですでに書いているし、そもそも私にはそんな資格がない。加えて、どんな人がこの本を読むだろうと想像したときに私の脳裏に浮かんでくるのは、あのヒジャブの女の子の、そしてあのとき現場にいられなかった友人たちの、涙をいっぱい浮かべた黒い脂である。だからただ伝えたいのは、瓦礫の中から突き出ている手を見たらなんとかして助けたいと思うその気持ちが決して間違っていないということだけだ。無理をし過ぎなくてもいい。苦しくて動けなくなるほどがむしゃらにならなくてもいい。この本を手にとって最後まで読んでくれたあなたのような人こそ希望である。だからあなたには、とにかく倒れないでいてほしい。
必死で反対していたアフガニスタン攻撃やイラク攻撃がすべて起きてしまって落ち込んでいた頃、当時の仲間と一緒に、今は亡き哲学者、鶴見俊輔氏にお会いする機会があった。そのときふと言ってくださったひとことがずっと支えになっているので、最後にみなさんと共有しようと思う。髪の毛は真っ白だったけど、目を見張るような感覚の鋭さは健在だった同氏は、手当たり次第に動いて迷子になっていた私を見てこうおっしゃった。「自分に何かできると思ったときに出ていく、というやり方もあるよな」。
去年の一〇月から、ガザで起きている事態を目の当たりにして、翻訳ならきっとできると思った。その中でさまざまな人に出会い、多くを学んだ。何かできる機会をくださった明石書店の赤瀬智彦さん、つなげてくださった岩下結さん、固有名詞と脚註のチェックをご快諾くださった早尾貴紀先生、X上でガザから届く声を翻訳する中で同じ活動をしながらいろいろなことを教えてくださった翻訳家のみなさん、助言と励ましをくれた友人たち、翻訳の各段階で助けてくれた父、そして、一緒に鶴見さんに会いに行き、この本を訳すところまで導いてくれた故藤岡亜美に、この場を借りて感謝を捧げる。
Free Palestine.
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