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執筆者の写真辻信一

長崎にて (2) 被爆クスノキ

12月6日の朝、ぼくが宿泊しているポルトガル風の建物を模したホテルに、さっちゃんが迎えに来てくれた。前回の長崎滞在でも、大村、外海、島原などの隠れキリシタンにゆかりの場所を案内してくれた若い友人だ。


浦上駅前のカフェに入って今日の予定について話し合う。外海へと向かう前に、まずは、この付近にあるはずの原爆クスノキを目指す。爆心地近くで被爆しながら、生き延びてきた樹木が数多く知られていて、広島市がモニュメントとしてリストアップしている。それらをめぐるツアーも催されているという。被爆樹について聞いたことはあっても、特に関心をもたないまま今に至ったぼくだったが、最近、霊長類学者・環境活動家として名高いジェーン・グドールの『希望の教室』という本にある、2本の被爆クスノキについての一節に強く惹かれた。


そこで、グドールは1990年に原爆被災地長崎を訪れたときのことを共著者でもある対談相手に、語る。

「案内してくれた人たちが言葉もないほど恐ろしい写真−廃墟と化した町の写真を見せてくれた。原子爆弾によってできた火の玉は中心部で百万度を超える、太陽と同じくらいの高温だった。町は月面みたいになっていた。ダンテの描く地獄はまさにあんな感じなんじゃないかと思ったわ。科学者たちは、数十年にわたって何も育たないだろうと予測した。でも驚いたことに、樹齢五百年のクスノキが二本、生き残っていたのよ」


このクスノキにぼくも会いたい、そこへ連れて行ってほしい、とぼくはさっちゃんに頼んでおいたのだった。カフェで働く二人によると、歩いていける距離だという。道順まで親切に教えてもらって、ぼくたちは歩き出した。本当にすぐだった。住宅街の坂道を上がっていく。幼い子どもたちの声が聞こえてきたな、と思ったら、坂の上に幼稚園があって、被爆クスノキはすぐその向こう隣だった。道に面して、そそり立っている。のどかな日常空間の中にいきなり目指すものが現れてしまうと、なんかあっさりしすぎていて、戸惑ってしまうほどだ。グドールが見たのもこれだったのか、確証はないが、そんなことはもうどうでもよかった。



手をつなぐとでもいうように、ほんの10メートルほどを隔ててそそり立つ巨木たちをぼくは仰ぎみる。なんという夥しい数の葉っぱだろう。ほとんど過剰とも思えるほどの生命の大盤振る舞い。その間にのぞく空が青いことに気づく。それにしても、なんといういい天気だ。空気も澄み切っている。木々を通して暖かい陽光が差し込んでくる。じっと見入っていると、突然風が吹いて、木は手をとり合って踊り始める。木の葉たちが立てる音に、隣の幼稚園の子どもたちの歓声が混じりこんで、合唱となる。それはいのちを愛でる祝福の歌だった。


77年前の原爆投下の瞬間のことを想像するには、目を閉じるしかなかった。そのときも、一瞬前まで、この界隈には子どもたちの声が聞こえていたのだろう。ここは神社の境内だった。参詣に来ていた人々もいただろう。彼らは何を祈っていたのだろうか。そして次の瞬間、見下ろせばすぐそこに見えたはずの谷間に、原爆は落ちてきた。


グドールは言う。

「幹は下半分しかなかったし、枝はほとんどが吹き飛ばされていた。ズタズタで、葉っぱなんて一枚もなかった。それでも、生きていたの。・・・今でこそ大木だけど、太い幹は割れたり避けたりしていたし、幹の中は真っ黒だった。それなのに毎年春になると、新しい葉が茂ってくるんですって。多くの日本人が、その木を平和と生存を象徴する神木として大切にしていた。枝には、亡くなった方を偲んで思いを書いた紙が、たくさん結ばれていた。 そこに立っていると、人間が引き起こしうる惨状と、自然の信じられないような回復力に、ただただ頭(こうべ)を垂れるだけだったわ」




敷地の奥にある神社の本殿にお参りする。階段の上から見ると、幼稚園と2本のクスノキからなる小さな森が切れ目なくつながって、一体に見える。ちょうど屋上で子どもたちが、走り回ったり、歌を歌ったりしているところだった。クスノキの緑とは対照的に、奥は紅葉の真っ盛りだった。手水鉢の中に落ちた葉が水の中で輝いている。



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