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執筆者の写真ナマケモノ事務局

アイヌ民族として生きるー貝澤耕一さんの想い

ナマケモノ教授こと辻信一さんが14年に及ぶ海外での生活から日本に戻り、最初にフィールドワークにでかけた先が北海道でした。日本の先住民族アイヌがいちばん多く暮らす村、二風谷では貝澤耕一さん、萱野茂さんに話を聞き、また、海外からの先住民を二風谷に案内して交流を深めていく中で、ナマケモノ倶楽部も先住民とエコロジー、環境問題と開発について学んできました。ご縁があって、耕一さんの父親であり、萱野さんとともにダム反対運動の先頭に立っていた貝澤正さんのご葬儀にも出席していました。


本日、Be the Forest!ミーティングで北海道二風谷からNPO法人ナショナルトラストチコロナイ代表理事の貝澤太一さんをお迎えして「アイヌの森と文化を取り戻すー世代をつなぐナショナルトラスト運動」をテーマにお話いただきます。

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そのトークをより深い学びの機会とするために、太一さんの父親である貝澤耕一さんへの過去のインタビューを紹介しておきたいと思います。2018年夏至のキャンドルナイト・イベントにおけるトークと2019年6月に関東に来ていただいた時のトークを編集したものです。今晩の話の参考にしていただければ幸いです。


二風谷ダム建設に反対する闘いをすることでアイヌ民族の先住権を日本社会に問いかけた貝澤耕一さんと、違法ダムとして遺された建造物を見ながら、森を立て直していくことに情熱をかける太一さん。二人をつなげるのは、太一さんの祖父・貝澤正さんの遺言「200年かけて森を元に戻してほしい」でした。(事務局)

 

1992年、辻さんと出会った頃の貝澤耕一さん(撮影:辻信一)



■父から受け継いだ「二風谷ダム」建設反対への想い


貝澤耕一(以下、耕一):私たちの村、二風谷(にぶたに)は、太平洋から20キロくらい上流にある、人口400人ちょっとの小さな村です。村に暮らす約7割はアイヌの血を引く人たちです。「世界でいちばんアイヌ民族が多く住んでいる村」と言えるでしょう。それだけに、村にはアイヌ文化がたくさん残されています。


辻:ぼくが耕一さんと最初に会ったのは1992年の貝澤正さんのお葬式です。亡くなったと聞いて、ぼく、すぐ行ったんですよ。お葬式に参加させていただきました。


その後、1992年秋に明治学院大学で「もうひとつのコロンブス500年」という催しをやって、世界のあちこちから先住民族の代表とか学者を呼んだときに、耕一さんも東京に来てくださった。そして、翌1993年には、アイヌの地で世界の先住民をもう一度集めて会議をしようと国際先住民年記念事業として「二風谷フォーラム93」が開かれました。その中心人物が貝澤耕一さんであり、萱野茂さんです。



萱野さんについて補足をしておくと、アイヌ民族初の国会議員です。ぼくらはいろいろ萱野さんとご一緒させていただく機会をいただいて、ナマケモノ倶楽部ができたばかりの2001年春にも、明治学院大学の白金校舎に来ていただいて、原発問題で話をしてくださいました。萱野さんはかなり体調の悪い時期だったと思うんですけど、その時に「原発というのは、天に向かって唾をするようなものだ。その唾は必ず自分自身に返ってくる」という話をしてくださったのを覚えています。



耕一:萱野茂さんと父、貝澤正(1992年没)は二風谷ダムの建設に反対していました。父の遺志を継いだ私は、1993年、北海道収用委員会を相手に裁判を起こしました。萱野さんは「せめて鮭ぐらい自由に捕らせろ」と主張しました。世界中の先住民族で、主食を禁止されているのはアイヌだけです。私は「アイヌ民族を先住民族として認めよ」と訴えました。


この裁判は1997年3月に判決が下りました。「歴史的に、明らかにアイヌ民族は先住民族である」、「地域の文化を無視し、何の調査も手立てもしないで建設したのは違法である」という内容でした。日本のダム事業で「違法である」という判決が出たのはこれだけです。


辻:1992年から1997年の間に、正さんの死をはじめ、ダムをめぐっていろんなことが起こったわけですが、当時の耕一さんの心境をお話いただけないでしょうか?

正さんと萱野さんが二人で闘いを始めたときも、裁判が始まったときも、耕一さん自身は、それほど自分が当事者だという思いはなかったと聞いています。正さんの思いが、どういう風に耕一さんに受け継がれていったのでしょうか。


耕一:二風谷ダムへの反対を表明するにあたって、父は私にこう問いかけました。「二風谷ダムに反対しようと思う。結論が出るのには二十年も三十年もかかるだろう。俺はそこまで生きてないかもしれない。俺が死んだらお前どうする?」それで、私は「ああ、いいよ。親父が死んだら受け継ぐよ」と気軽に返事をしたんです。


「受け継ぐ」と言ったのは、萱野さんや父がやっていることは正しいと思ったし、アイヌの人権を、アイヌが日本人と対等に生きていくためにという思いもあったから。


辻:耕一さんが若い時には、自分がアイヌであることを外に言えない時期もあったわけですよね。それが「受け継ぐよ」と気軽に言える気持ちになるまでには、かなり距離があるように思うんですが。


耕一:結婚して子どもをもつまでは、私は自分がアイヌであることを自ら口にはしませんでした。短大に通っているころ、周りから「お前、アイヌか?」と聞かれたら、「それがどうしたの」と答えただけで、あとは何も言わなかった。なぜなら、アイヌであることは差別の対象だったからです。アイヌ民族は世の中から排除される立場でした。

そんな中、結婚をして家族をもったら「子どもに自分と同じ思いをさせるのは嫌だな」と思うようになりました。それで、アイヌであることを表明して、活動するようになったんです。


1993年、先住民族の会議で発言する貝澤耕一さん(撮影:辻信一)

辻:子どもが生まれたことが大きな転機になったのですね。萱野茂さんにしても貝澤正さんにしても、アイヌのエカシ(長老)、つまりリーダーとしてアイヌ民族を引っ張り、国とも対峙する立場をとっていた人たちです。そんな二人が、村の近いところにいることへの抵抗はありませんでしたか?


耕一:萱野さんもうちの親父も、地域の人たちからは尊敬され、慕われていましたね。ただ、ダムに反対することに関しては、みんないい顔をしなかった。だから、親父が死んで、私が遺志を継いでダムに反対するとなったとき、村の人がやってきて言いました。「俺はダムのおかげで生活ができているんだ。ダムが中止になって仕事がなくなったら、お前は責任をとれるのか」と。嫌がらせもありました。また、建設業者がやってきて、「今すぐ100万円やるから、裁判を取り下げてくれないか」とまで言われました。


辻:差別という言葉も出ましたけれども、関東にいる人たちは、アイヌ民族の人たちがどういう風にみられて、どういう風に扱われているのか、特に若い人たちには分かりにくいと思うんです。あの頃から25年くらい経つわけですが、北海道は変わってきているのでしょうか? アイヌ民族に関する新しい法律もいくつか出来ましたよね。


耕一:残念ながら、北海道に住んでいる人たちにあまり変化はありません。「お前、そんなことを言って、俺たちの土地を返せというのか」という人もいます。北海道にいる大半の人は、入植してきた人たちの子孫です。「俺たちはちゃんと金を払って土地を買ったんだ。それを返せというのか」と反発している。


辻:NHKが制作した番組「違法ダムが残った」に貝澤正さんの病床での映像が出てきます。ぼくにとっては心に残るシーンです。亡くなる一か月前ぐらいの正さんが「人間は自然界のおかげで生きている。その自然界に対して、今のようなやり方を続けていたら、もう人間に未来はない」とはっきり言っていました。


つまり、二風谷ダム裁判というのは、アイヌの権利をめぐる闘いだっただけではなくて、環境問題、自然破壊に対するアイヌの伝統的な価値観を土台にした抵抗、何千年にもわたって川沿いで生きてきた民が、その川沿いの生態系をまるごと破壊してしまうことに対する闘いでもあったと思うんです。


1998年、カナダ・ハイダ民族(右から2人目)のグジャウとチコロナイの森を歩く



■アイヌの森に戻していく


辻:耕一さんは、ちょうどそのころから裁判と並行して、あたらしい運動を始めています。もともとアイヌの森だった山が日本政府に奪われ、国から大企業に払い下げになって荒れてしまった森を、少しずつ買い戻して元の森に戻していく運動です。それは今も続いています。貝澤正さんも生きているときに、自分の最後の仕事の一つとして、森に木を植えて「200年先に、この木がアイヌの森に戻っていくんだ」という話を、同じNHKの番組の中でも話されていました。


耕一:これは、ただダムに反対していても説得力がない、と思ってはじめました。私の考えでは、森が健全であればダムはいらないという結論です。チコロナイのきっかけは、1993年の二風谷フォーラムをやっているときに、大阪から「緑の地球ネットワーク」という中国などで砂漠緑化活動をしているグループが事務所にやってきて、「私たちも貝澤さんの活動に協力したい。何かできないか?」といってくれたんです。


私は「協力してくれるのはうれしい。でもみなさんはぱっとやってきてぱっといなくなるでしょ。やるなら何十年と続けてくれなくちゃ困りますよ」と。それで、最初のチコロナイの立ち上げや募金集めは、その緑の地球ネットワークが中心になってすすめてくれました。


そのあと、この団体がNPO法人化するタイミングで独立をして、今年で26年目になります。嬉しいことに、町内の若い人たちが後を継いでくれるといってくれ、理事長職を交代し、ようやく肩の荷が下りたところです。彼らはおそらくちゃんとやってくれるでしょう。

森がなければ私たちの生活が成り立たないのは明らかです。私の父は、死ぬ前に25ヘクタールの山林を、私を保証人にして買い、さらにその森の木を200年伐るなと遺言も残しました。


辻:正さんも耕一さんもよく言われますけど、森をつくるっていうのは、とうてい一世代ではできないですよね。とくに北海道は熱帯と違って、森が元に戻るのは本当に大変なことです。ですから、ナショナル・トラストという運動も何世代もかけて戻していく。正さんはそういうビジョンをもってらっしゃったと思うんですよね。


森づくりに200年かかると考えると、20年の活動はその1割に過ぎません。でも、確実に森が少しずつよみがえりつつあると思います。そもそも、森の再生なしに、川の再生なしに、文化の振興を唱えてもむなしいですよね。それこそ、博物館の中の文化でしかなくなってしまう。


これからも耕一さん、二風谷とぼくらもつながって、こういう場を通じて、アイヌ民族のこと、二風谷のこと、ダム問題についてここから発信していく場をつくることで、ぼくらのできることをやっていきたいと思います。


2007年、セヴァン・スズキさんとチコロナイの森を歩く

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