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ムダ活のすすめ ー 活動の成果への執着を捨てよ


最後の移動型狩猟採集民といわれるサラワクのペナン族、その存在と暮らしはムダなものと見なされる


<ムダ活のすすめ>

一月のある日、『ムダのてつがく』をいち早く読んでくれたナマケモノ倶楽部の仲間が、会話の中で突然、「ムダ活」という言葉を発した。


就活、婚活、妊活、終活などは、××という目的のための活動だ。だから、その目的に向かってみんなせっせと「役に立つ」活動をする。ぼくは以前から、ずっとこの「なんとか活」というはやり言葉が嫌だった。何か生理的な違和感があるという感じがしていた。だからこの「ムダ活」という言葉にも、ぼくは一瞬、身構えたのだ。しかし、次の瞬間には、この言葉が、ぼくのうちにすんなりと入ってきた。これはおもしろい!


考えてみると、ぼくはそもそも、「活動」という言葉自体が苦手だったのだった。にもかかわらず、活動家=アクティビストをもう長く名乗ってきた。しかし、20歳前後に、今から思えばお恥ずかしい、性急で暴力的な政治活動に身を投じていた頃以来の「活動」アレルギーは、やがて、何人かの賢人たちとの出会いと彼らからの教えのおかげで、癒されていった。そしてぼくは、社会運動や環境活動を改めて抱きしめ、自分の生き方の一部とすることになった。


ここ30年、ぼくの活動には、「スロー」とか、「ナマケモノ」とかのキーワードが寄り添っている。スローやナマケモノは、活動や運動という言葉と、一見、逆の方向を指しているように見える。言ってみれば僕は矛盾を生きてきたわけだけど、まさに、その矛盾を正面に据えて見せるのが、「ムダ活」なのではないか、と思うのだ。


ムダのための活動! それは形容矛盾であるかに見える。何かの目的を達成するために、役立つことをする活動であるはずなのに、ムダ、つまり、何の役にも立たないことのために活動するとは、一体どういうことだ、と。


しかし、とぼくは思うのだ。人間の活動というものは、目的に奉仕するばかりではなく、ときには、目的とか結果という制約から離れて、自由に羽ばたくこともあるはずだ、と。むしろ、活動が生き生きと輝くのは、そんなときなのではないか、と。


そう考えると、昨今の「活動」はどれもこれも、経済効果とか、生産性とか、効率性とかに縛られているからこそ、いかにも不自由で、輝きを失い、しなびているように見えるのではないか。一方、かつての活動の多くは、その価値を結果や成果の側から決められるようなものじゃなかったのだと思う。その昔、結果や成果にがんじがらめにされることなく、我が世の春を謳歌していた活動たちは、現代社会から見れば、無益で何の役にも立たない膨大なムダの山だろう。


彼らの存在はムダであるだけでなく、ジャマなのだ

目的など要らないとか、結果や成果には意味がないとかと言っているのではない。もちろん、それらは大切なことだ。効率性や生産性を否定しようというのでもない。ただ、現代社会の活動が、それらに縛られて、本来の生気を失くしている現状を憂えているだけだ。遊びという子どもの活動の本来の姿を思い出してみるだけでいい。遊びとか、趣味とか、息抜きとか、休息とか、雑談とか、瞑想とかはみんなムダ活。


「役に立つ」とか、「成果」とかいう呪縛から自分を解き放つようにして、このムダ活を意識してやってみる。すると、みんなもっと元気になるんじゃないか。そんな気がしているのだ。やっぱり、最初は意識しないとだめだ。ムダを切り捨て、役に立つことばかりをほとんど自動的に選ぶことに慣れてしまっているぼくたちだから。


古代インドの聖典『バカバット・ギータ』について、わが師サティシュ・クマールはその教えをこう要約している。

「行いを捨てるな。その行いの果実への欲求を捨てよ。けっして世界を捨てるな。世界への執着を捨てよ」


経済にとって森の木々はそこにあるだけではムダ

伐採され売られて初めて役に立つ

その後にはアブラヤシが植えられ金を産む

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