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今日は、“五一(剛一)の日” 辻信一


エクアドルで生態・社会調査に勤しむ大岩剛一

今日から5月。一昨日は兄、大岩剛一の一周忌、そして今日は、“五一(剛一)の日”。”彼に縁の深い者たちが勝手にそう呼んでいる。そんなわけで、ここのところぼくは兄のことばかり思っている。そしてコロナ危機のことも心から離れない。コロナと兄貴が入れ替わり立ち替わり、ぼくの心に去来する。


それにしても、あれから一年! 長かったような短かったような。そして死は、近いと思えば遠く、遠いと思えば近い。兄の死から、コロナ・パンデミックへ、そしてまた兄の一周忌へ。三日前にはぼくのうちのすぐ近所の家の中年の女性が癌で亡くなった。


最近、朝ヨガ後の瞑想の時間に、ティク・ナット・ハンのプラムビレッジの瞑想ソフトを使うことが多くなったが、特に、その中にある「4つのエレメントへの感謝」という短いガイド付き瞑想が気に入っている。自分の身体の四大要素、火、水、土、空気を意識し、それぞれに感謝しながら、微笑みかける。その中に「呼吸を楽しむ」という表現が出てくるのだが、これが特に心に沁みるのだ。うん、たしかに、たしかに。息を吸い込むってなんて楽しく、息を吐くってなんと気持ちいいんだろう、と。


新型コロナによる肺炎は呼吸ができなくなって、まるで溺れているみたいに苦しいのだという。死ぬ前の兄もそうした苦しみを劇薬でなんとか抑えていたっけ。


29日の兄の命日には、小野寺愛さんがパーソナリティーやっている東京FMの番組のインタビューを受けた。 親子向けに環境問題やサステナビリティのことを話す番組なのだが、環境のために「私たちにできることは?」という問いに、とっさに「まずは呼吸を楽しむこと」からと言っている自分がいた。


これを読んでくれているあなたにも言いたい。Have a great day!

一生にもう2度とないこの日だ。Enjoy breathing!

 

兄の命日。また夕暮れの舞岡公園にぼくは一人っきり。奇妙なほどに、澄み切った清々しい気分だ。最近は平日の昼間でも人出が少なくないが、この時間には、まずカラスの群れが続々と巣に帰っていく騒がしい時間を経て、カエルの合唱が次第にあたりを領していく。ぼくは裸足になり、アーシングしながら瞑想する。兄貴を近くに感じる。独りになればなるほど、友は近くなり、つながりは際立ち、自分を成り立たせている関係性の網の目が、この存在を支えてくれていることがひしひしと感じられる。


数日前のzoomによるガイア・エデュケーションのイベントでのこと。ゲスト講師のGEN(グローバル・エコビレッジ・ネットワーク)代表のコーシャ・ジュベールが、「あなたにとってスピリチュアルであることとは?」というぼくの質問に答えて、ひるまず、「まず一人になることが大切だ」と言ったのが心に響いた。そして、思った。うん、たしかに、東日本大震災の時も、今回の危機も、ともすると「つながり」という言葉の方に流されがちな我々だ。でもそれは安易すぎる。独りになれるからこそ、つながれるのであり、つながっているからこそ、独りになれるのだ、ということ。


コロナ危機の「ステイ・ホーム」で、ぼくたちは、独りになる、という一種の修行を集中的にやらせてもらえるいい機会をいただいたことになるのかもしれない。


「独りになる」のは安易なことではない。引きこもりが一種の病だというならなら、独りになれず、つるむことでしか生きられないのも病だろう。思えば、ぼくたちの社会はもう長い間、独りになるのが不得手な人々をたくさん作り出してきたのではないか。そしてそれは、同じ社会が、孤独と孤立に苦しむ人たちを量産してきたことと、表裏一体の関係にあるのだと思う。


ぼくは「スローとはつながり」ともう20年も言い続けてきたが、それはこの社会が、人間存在の本質とも言えるような大切なつながりを、次々に断ち切る方向へと進んできたことへの警鐘のつもりだった。誰かを効率的に愛することはできない。意味ある関係を安易に結び、持続することはできない。血の通ういのちあるつながりを作り出し、支えるのは並々ならない忍耐と寛容の心だ。そしてその心を育むのは独り、ひとりだ。


兄の「命日」。その「命日」という言葉が、夕闇迫る舞岡にポツンと座るぼくのうちで膨らんでいった。死んだ日が「いのちの日」。つまり死によってしかいのちは姿を顕さないということだ。いつまでも死ななかったら、いのちはいつまでも隠されたまま。とすれば、死はまたなんとありがたいことだろう。そう思うとぼくの内側が暖かくなり、ぼくはその暖かさの源である“火”に向かって微笑みを送った。

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