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執筆者の写真ナマケモノ事務局

座談会「コロナの向こうを 照らす明かり」(6/8前半)

2003年に「100万人のキャンドルナイト」を立ち上げた環境活動家、文化人類学者の辻信一、環境ジャーナリストの枝廣淳子、産直運動・大地を守る会の藤田和芳、文化人類学者の竹村真一、環境コピーライターのマエキタミヤコの5人が、コロナ禍を機に久々にチームを再結集、再び、6月21日夏至のキャンドルナイトを呼びかけることになりました。その当日に向けて、彼らがキャンドルナイト運動の意義を再確認し、コロナ危機の中で考えたことを共有しながら、「コロナの向こう」を構想する。それぞれの場所でロウソクを灯しながら、オンラインで集い、話し合う、これが2日目の夜、前半の模様です。


▶「コロナの向こうを照らす明かりーキャンドルナイト2020夏至」はこちら


6月8日 オンライン座談会 「コロナの向こうを 照らす明かり」その1

出席:枝廣淳子、竹村真一、辻信一、藤田和芳、マエキタミヤコ、

記録・コーディネータ:馬場直子

文字おこし:阿部泰子(アトリエ・ミゥ

 

コロナがもたらした制約で、人間の未開発の次元が出てきている


マエキタミヤコ コロナになってありがたいなと思ったのは、ほかに行き場がないので、家族と四六時中一緒にいること。家の中を隅々見る時間ができて、庭を見る時間ができて、自然と向き合う時間が増え、自分の体と向き合う時間が増えた。

柔軟体操をし、骨の位置とか腰とか、四十肩で肩が上がらないとか、そういうものに向き合って、あれも自然、これも自然じゃないですけれども、丁寧に暮らすというのは大事だし、スローってこういうことなんだなと改めて。強制的にスローにさせられているおかげで、気がつくことが多いこのごろです。


庭も、ブドウを植えて6~7年たっているんですけど、ずっとならなかったのがようやく実をつけたり、ユスラウメがなったので、それを家族と一緒に食べたり、都会の中ですけれども、しています。

では、竹村さん。


竹村真一 こうしてぼくが喋っていても、皆さんのリアクションが聞こえないし、ぼくの声が聞こえているのかどうかも分からない。こういう感覚がきっかけになって手話が広がっていってもいいかもしれないね。声が聞こえない時にはサインランゲージを使うとか。人間の言語はモノカルチャー過ぎるね。


言語でも、多くの言語が消滅しつつあって、言語の多様性が失われているということもあるし。聾者の自然手話の研究とかを見ていると、人間の言語本能というのは音声言語だけに展開するわけではない。たとえば、聾者の親の下で育った子どもは自然手話を自然に覚えていくでしょう。

文化人類学の世界では、「技術に石器時代はあっても、化粧文化と言語文化に石器時代はない」という言い方をする。ホモサピエンスの文化はすべて同じです。言語とか化粧という意味では、むしろ現代のわれわれのほうが退化しているようなところがあるかもしれない。


そういう言語本能がどういう表現形を持って展開するか。その回路は音声ばかりではなくて、指のサインランゲージという方向にも、ものすごい形で展開し得るということが、ようやく最近見直されてきた。これはLGBTとかと同様に、人間が本来的に持っている多様性の再発見です。


これ、ミュートにされた皆さんの反応が聞こえないので、急に思いついたことなんだけど。ダイビングしていても声が出せないから、手話が欲しいなと思うし、聴覚障害者と一緒に歩いている時には、同じ道路、同じ交差点に立っても違う風景を見ていることに気づく。向こうの方が目が見えないのに、こっちよりよく見えている部分がある。特定の回路で自由があると、逆に違う次元の自由を殺しているところがある。当たり前だったことができなくなることによって、未開発の部分がいろいろ出てくる。


いろんな制約がある。でも、制約というのは創造のための条件ですよね。サッカーだって、手が使えないということで、逆にいろいろな身体の、手が使えたら開発されないhidden dimension(隠れた次元)が開発されるわけだし。今回コロナがもたらした制約で、人間の未使用の次元がいろいろ出てきていいんじゃないかなと思う。


僕は人間というのはまだまだ未開の存在だと思っているんです。『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)という本がありますが、僕は「全史」より、「前史」と書いて、これまでは、いよいよこれから本番を迎えるホモサピエンスの歴史にとっての前史、プレヒストリーで、本番はこれからだよ、みたいに思っているんです。


今までは、こういう状態が“健常”だとか、これが“正常な人間”だとか、人間の本質はこの程度のものと思っていた。そのrange(幅)があまりにも狭すぎた。


5Gでコミュニケーションの情報伝達の帯域がブロードバンド化するよりも、人間の潜在的な可能性の幅がブロードバンド化していくのが一番大事じゃないかなと思っています。


「人間の5G化」というか。それがコロナを契機に開発され始めるというところがあるんじゃないかな。


辻信一 今日は皆さん、この前とムードが違いますね。竹村さん、誰か指名しませんか。

竹村 辻さん、どうぞ。


「おのが日々を数える」知恵とスローライフ


 今日は、小さいことと大きいこと、ミクロなことと、マクロなことを話したいと思っています。今、お二人とも、日常の中で身近に感じていることを話してくれたので、僕もそうしたいと思う。時間の感覚のことです。


多くの人がこの間、ちょっと不思議な時間を感じてきたんじゃないかな。僕にとってはコロナがやって来たのが、ちょうど大学を退職する時期に当たっていたり、亡くなった兄貴の一周忌がやって来たりで、いきなり、未知の領域に入り込んだような、それでいて、すごく毎日が単調で、変化に乏しく・・・。


ほんの数カ月前のことがものすごく遠いことに思える一方、一日が過ぎ去るのが速くて、取りつく島がないというか、どういうふうに印を付けながら生きていけばいいか、みたいな焦りを感じたり。この年にして、とても不思議な経験をさせてもらっているなという気がしています。


コロナに関する本や記事を、興味深く読んできましたけれども、その中に、日本でも早速訳されたパオロ・ジョルダーノという人の『コロナの時代の僕ら』という本があって、すぐ買って読んだんです。


読んで好感をもった。彼は、文明がコロナ危機によってレントゲンにかけられている、という言い方をしている。僕も同じ表現を、3.11の福島の原発事故の直後に、アメリカの放送局からの急のインタビューで使ったっけ、と思い出したりして。確かにコロナは僕らの文明の本質をあぶり出している気はしますよね。


そのジョルダーノの本の中で、もう1つうれしかったのは、僕が好きな旧約聖書の詩篇の中に出てくるお祈りを引用していたんです。


「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」。僕が若い時に出会って大きな影響を受けた人類学の本のタイトルが『Number Our Days』、つまり、おのが日々を数えよ、です。


この詩句を引用しながらジョルダーノが言っている。「苦痛な休憩時間としか思えないこんな日々も含めて、僕らは人生のすべての日々を価値あるものにする数え方を学ぶべきなのではないだろうか」。


「苦痛は休憩時間」という表現ですが、ロックダウンとか非常事態宣言とかで急にドサッと僕らの上にたくさんの時間が降ってきたわけでしょう。一方では、健康だとか生活だとか、将来についての不安をみんなそれぞれ抱えながら、同時に、どうやってこの押し付けられた宙ぶらりんの時間を生きていけばいいんだ、みたいな。どうやってこれに耐えるか。それが「苦痛な休憩時間」。これは特に活動的な若い世代の人々の心情をよく表しているような気がするんです。


急な時間をたくさんもらったんだから喜んでも良さそうなんだけど、みんなあまり喜べなくて、苦痛に感じちゃうわけです。じゃあ、それは何なのかと言うと、僕らの文明が抱えている大きな問題がそこにあるじゃないかと思ったわけです。


なぜ時間が苦痛なのかと言うと、その人にとって、今まで時間は未来に投資されるものと見なされていたからです。今だとか今日という時間は、未来のための手段に成り下がっていた。時間は、ただ「今、ここ」で享受されるとか、なんていうものであってはいけなくて、いつもほかのあれやこれやのために、お金を稼いだり、何かを手に入れる道具としてのみ存在してきた。そうでなければ、それはただ無駄に浪費された時間。そういうふうに貶められてきたんだと思います。


これって、考えてみればものすごくクレージーなこと。でも現実世界ではそれが当然のことになってしまっていた。気がつけば、時間というのは自分にとってよそよそしいものになっていた。自分が時間から、時間が自分から、疎外されていたわけです。


そこにコロナ危機がやって来て、いきなりドサッと自分の元に時間が帰ってくるわけでしょう。納品したはずのものが、急に注文がキャンセルになって、返品されてきたみたいな感じで。この返品の山としての時間をどうするんだ、とウンザリしている。そういう状態じゃないかと。

本来は自分のものであるはずの時間を苦痛としか感じられないという、悲喜劇的な状況を超えていくことが大事だと、ジョルダーノは言いたかったんでしょう。でも、それこそ僕らが「スローライフ」と呼んできたことじゃないかと。人生の中で、曲がりなりにも自分のものと言えるのは時間くらいしかないわけです。そうだとすれば、もう1回それを自分の元に受け止め、抱きしめる。


あの詩篇のお祈りもそうだけど、同じようなことを、いろんな宗教で大事にしてきたんじゃないかな。仏教でも言うでしょ、未来も過去も幻にすぎない。現実は「今、ここ」にしかないんだと。スローライフもそういうことだったと思うし、キャンドルナイトというのも、もう1回、これまでぞんざいに扱ってきた「今、ここ」を、ロウソクの灯りを通して、自分の周りに浮かび上がらせるということだったんじゃないかと、そんなことを考えています。

では次は藤田さんにお願いします。


これからの社会づくりのキーワードは多様性


藤田和芳 お三方のお話を聞いていて、僕は東北の農村の生まれだということをすごく意識しました。今日のテーマも、キャンドルナイトもそうですけど、コロナの後に僕たちはどう生きていくか、ということだろうと思います。


僕は、東北で農家の二男坊として生まれた。生まれた時から、長男が農家の跡を継いで、自分は大きくなったらこの家を出て東京という所に行くのだ、と動機付けられて、宿命のように決められた将来像とともに子ども時代を過ごしたんです。


その中でいろんなことを経験しました。今考えると、僕は共同体の中で生きていた。たとえば、わが家では味噌も醤油も納豆も自分の家でつくっていた。今で言うスローフードそのもののような中で育っていたんです。


でも僕は、高校を出たら東京という所に行って大学に行くつもりでいたんですが、それは、今の言葉で言うと、グローバリズムの世界に入っていくということだった。グローバリズムの世界に入っていくと、今までとは違う幸せな空間に浸れると思っていたんです。


僕だけじゃなく、日本中の、戦後生まれたわれわれと同じような年代の人たちは、みんなそういうふうに考えていたと思います。小さな狭い封建的な世界で生きていくのではなく、もっと広い世界に行けば、もっと豊かな素晴らしい生活ができるかもしれないと思っていた。

 でもこれは、今から考えると、どこか錯覚があったなと思います。自分の家でつくった味噌や醤油は、買った味噌や醤油よりはまずいと思っていた。でも、盆暮れに大事なお客さんが来た時にしか、買ったものが食べられなかった。買った味噌や醤油で食事をしたら、どんなにおいしいかと思っていたんですけど、今になってみると・・・。


最近は、農村に行って、古い家のご主人がつくった味噌などを食べると、すごくおいしいなと思うんです。でも、当事僕が農村に暮らしていたころには、僕の周りにある人間的な資源とか味噌や醤油や納豆のような豊かな文化とか、地域の歴史とかいうものに、自分は立脚していないで、遠い所に行けば幸せになれると思っていた。これが近代というものが持っている大きな落とし穴だったような気がします。


世界中が単一化した世界を追い求めてきた。効率や生産性をみんな追い求めて、競争に勝ち抜いた者、あるいは他人を蹴落としてでも競争に勝って、モノやお金をたくさん持った者が幸せになれるという幻想にみんな浸っていたんです。


最近アメリカでも人種差別の問題がすごく大きくなっているじゃないですか。ある人たちは、白人が一番優れた人種だとか、世界中にたくさんの通貨があるにもかかわらず、ドルだけになっていくとか。世界にたくさんの宗教があるにもかかわらず、キリスト教でなければいけない、ユダヤ教じゃなくちゃいけないとか。言語だって、本当は世界中にたくさん言語があるのに、英語だけになっていくとか。


単一的な世界をつくることで、それに集中して、うまくいった者だけが果実をたくさん採れるという社会に向かって走ってきた。そしてコロナというところにまで行きついた時に、アメリカでは大きな人種差別問題が、西欧では移民の問題がたくさん起こっています。


では、コロナを機にこれからどういう社会をつくるべきかという時に、キーワードは「多様性」だと思う。いいじゃないですか、みんなが東大に行かなくたって。大工の子は大工でいいし、豆腐屋の子は豆腐屋でいい、その中に幸せを見つけたらいいんだろうなと思うんです


でも、僕も、自分の子どもも、育った経緯から、そういうわけにいかなかったんです。畜産の世界でも、豚や牛にはお金をたくさん使って、いい餌をやって、施設を改造して、「立派な肉をつくれ」と、並肉から中肉へ、上肉へ、さらに特級の肉へと、上位、上位に向かって、畜産農家の人たちを励ますんです。


最後に、特級のところまで行ってはじめて採算が合うようになるんですけど、そこまで行ける人は全体の5%です。5%の人しか畜産をやって利益が出ないのに、みんな努力して上を目指す。でも、残りの95%の人たちは採算が合わない。そういう社会に生きているんです。

グローバリズムの世界で生きようとすると、こういう社会になってしまう。


そうではなく、それぞれの地域の歴史や文化を大事にしながら、私が育ったような田舎で、周りの人間との関係の輪の中で生きていくことを目指したら、もうちょっと違う生き方ができるかもしれない。今、コロナをきっかけにいろんな問題を考える時に、改めてそういうことを考えるようになりました。


では枝廣さん、お願いします。


コロナをきっかけに、地元を発見した!


枝廣淳子 先ほど辻さんがおっしゃっていたたくさんの時間をもらって、どうしていいかわからないという時間の問題にも関係する世論調査をしました。「コロナ状況下での過ごし方」ということで、一般の日本の人たちの、地域、世代、性別などを、日本の人口母集団に合うようにした世論調査と、私のメールニュースを読んでいる環境意識の高い方々への同様の調査と、二つやってみたら全然違う結果が出ているんです。時間とか幸福度についてもそこで聞いています。それは後段でお話しできればと思います。


皆さんそれぞれ身近な話をされたので、私も自分の話を最初にしようと思います。コロナがきっかけになって人生が変わりつつある人、いっぱいいると思います。良きにつけ、悪しきにつけ。自分もその1人です、という話です。今、私は熱海に住んでいて、波の音しか聞こえないくらい、海のすぐそばです。


熱海に、小さな仕事部屋としてマンションの一室を買ったのが7年前です。それは、本を書いたり翻訳したりする時に、自主缶詰と言って、日常の仕事と違う仕事をまとめてやるために、海が好きなので海沿いの場所を探していて、熱海の小さな部屋を買いました。それから6年半くらいはひっそりと。途中から住民票を移したんですけど、熱海に住んでいるということは誰にも言わなかったし、地元の人とのつながりも全然なく、時々来て過ごすだけ。そういう暮らしをずっとしていました。


私にはこれまで、地元というものがなかったんです。親は転勤族だったので2、3年ごとに転勤、小学校4年生の時は、1、2、3学期、全部違う学校に行ったくらいです。子ども心に、どこかに根を下ろしてはいけないと思っていたんです。それは引き抜かれる時につらいから。なので、地元というものを持たないようにして生きてきた。仕事も通訳だったり、今もあちこち旅をしながらする仕事なので、どこかに腰を落ち着けて、というものではない。それが合っていると思っていました。


今、地方創生とか地元経済のお手伝いで、北海道から九州から、地域のお手伝いをしているんですけど。それは、地域の人たちが地元を大切にするお手伝いです。けれど、私自身には地元はない。地元がないから、あちこちの地域のお手伝いができる。そんなふうにずっと思っていました。熱海の仕事場も、匿名性が保てる場所なので、1人でスーパーに買い物に行って、1人で料理をつくって。時々ジョギングしに外に出るくらいで。


コロナの状況になって、小田急線に家があるんですけど、そっちにこもるよりは海のそばの熱海でこもったほうがいいなと思ったので、最低限のものを持って熱海で過ごし始めて、今、4カ月目です。


その中で、初めて地元ができたんです。たまたま、私が環境活動をやっているというのを知った人が熱海にいて、「自分たちもそういうことをやっているから、意見交換しないか」と。コロナ前、忙しく飛び回っていた時は、「意見交換しないか」と言われても行く時間がなかったんですけど、今はそういう時間がたくさんある。熱海は小さい町なので、「どこで集まろう」と言っても歩いて10分あれば行けるので。それで、地元でそういう活動をしている人たちとつながって。



4月1日に、本当は新しい会社をつくろうかと言っていたんですけど、仲間の会社の一部門として、「未来創造部」という部門を立ち上げました。ウェブもできています(https://mirai-sozo.work/)。これからいろいろな環境活動をやろうと思っています。そこの活動をやりながら、ネット通販を立ち上げて、宿泊業の休業で困っている地元の水産会社の商品を都市のみなさんにつないだり。


前回も話したと思いますが、その仲間たちとキャンドルナイトをやることを企画しています。その話がだいぶ固まってきました。今日、市役所にも海岸を使う許可申請を出してきました。ロウソク1000本でキャンドルアートをつくることを考えています。「コロナの向こうを 照らす明かり」というテーマでどういうアートを描くか。キャンドルでキャンドルを描こうか、とか話しています。


1000本のキャンドルのホルダーは、地元の福祉作業所の人たちが、回収した廃品の選別作業を仕事の1つとしてやっていて、いろいろなガラスとかワイングラスとか花瓶とかが集まると聞いて、「キャンドルが入れば何でもいいから」と言って、1個幾らという単価でお願いして、1000個集めてもらっています。


キャンドルナイトに向けてオンラインでも参加できるようにしようと思っていて、寄付を募ろうと思っています(https://mirainotane.stores.jp/)。その寄付を、福祉作業所にもお渡しするつもりです。もう1つ、「国境なき医師団」にも寄付をします。国境なき医師団にも話をしていて、名前を出して良いと言ってもらっています。日本はコロナが収束しつつありますが――もちろん、第2波、第3波あるでしょうけど、途上国が大変な状況になっているので、そういう所で命を張ってやってくださっている方のお手伝いを少しでもしたいと思っています。


昨日も地元のキャンドルナイトの仲間たちと打ち合わせをしていました。私が「100万人のキャンドルナイト」の呼びかけ人代表というのはもちろん知っていて、「最初に、どうしてこの運動を立ち上げたか、その話をしてほしい」と言われたんです。「キャンドルナイトって、好きなようにやっていいよという運動らしい、自分たちもそう思ってやっているけど、最初につくった人たちの思いを聞いて、その上でやりたい」と言われて。

それで、何かに反対するためではなくて、とにかく電気を消してロウソクを灯そうということで広がる豊かな世界があるはずだと思って呼びかけを始めた、という話もしました。私たちは多数決を取らない、徹底的に話をして、記録を取ってくれていた「大地を守る会」の人たちが、「腱鞘炎になるからやめてくれ」と言うくらい、私たちは議論していたんですよ、という話も。


そういう話もした上で、では、「コロナの向こうを 照らす明かり」ということで、今だからできることを、熱海からやっていこう、ということになりました。沼津でも、ほかの地域でもキャンドルナイトを、という話もあって、できるかどうかわからないけど、ドローンか何かで海岸線を飛ばして、あちこちでキャンドルナイトをやっているのがつながって見えるといいな、とか。ただ、3密は避けないといけないので、人数制限をして、灯りを灯す人、キャンドルを並べる人も人数を限って、ほかの人は離れた所から見守ってもらうとか。そんな話をしています。


そういう活動も通じて、自分にも地元ができて、最近では、「私の地元は熱海です」と言えるようになったし、「地元の仲間」とも言えるようになった。コロナで人生が変わった人はたくさんいると思うけど、私の場合は地元が発見できました。


コロナがたくさんの問いと考える時間をもってやってきた


マエキタ 辻さんの言うとおり、時間が不思議です。自分が何もしないのはなまけているのだろうか、それとも何もしないということを積極的にしているのだろうか、みたいなことを延々と考えて、気がつくと夜、みたいな。流れ方が急に速くなったり遅くなったりして、からかわれているんじゃないかというような。一体何だろう。前からこうだったんだろうな、きっと、と思ったり。


前回もお話ししたように、おじが最近亡くなったというのもあるんですけど。おじがいない。いないけど、あちこちに散らばって、おじ的なものを毎日発見したりする。前からそうだったんだろうな、と思いつつ。デモクラTVという所で対談する機会をもらってはいるんですけど。本当はおじを呼びたかったんです。


だけど、この人に聞いてから、あの人に聞いた後で、それからおじに出てもらおうと思っていたのに、逝っちゃったから。こういうのを無念と言うのだろうかと。でも、あらかじめそういうものだったような気もするし。でも、呼んで話をしたいと思っている人は、躊躇なくすぐやったほうがいいことなんだろうなと思いました。



何をするにも、どのタイミングでやるかというのを、前にも増して考えるようになった。不思議です。いろいろ考えて、外から見るとそれほど動いてなくて、小さなエリアをクルクル回っているだけではあるけれども。サティシュ・クマールさんのことを思ったり、人類の歴史について考えたり、文化人類学の話を朝からずっとしていたり。人間はどこに行くのか、とか。


寛容性のことが気になっています。政治も気になっていて、コロナで政治というものがいくつかの層に分解されているような気がしていて、一体どれが本当の政治なんだろう。どれを自分は政治と思いたいんだろう、と。現実と乖離しているのはなぜだろう。いつの日かそのギャップが埋まる時はあるのだろうか、とか。


メディアとかマスコミに関しても、それまではくっついていたパイ生地みたいなものがバラバラに離れてしまった。X線にかけたというのと近いと思うんですけど、いろいろなものが分解されて見える気がする。政治と投票が別腹になっているのはと何でなんだろうか。政治の話と環境問題は、本当は密接にかかわっているのに、なぜ人は一緒に話さないんだろうか・・・。


考える時間がいっぱいできたのはいいことではあるんですけど。死ぬ前に答えが出るといいなと思っています。

 今、何かするべきなのか、いや、しないことが大事なのか。その辺の葛藤は面白いですね。

前にキャンドルナイトをやりながら、「すること」と「いること」について話したことがありますよね。キャンドルナイトというのは、「すること」なんだろうか。イベントをするとか。でも本質は「いること」なんじゃないか。「いること」に光を当てて可視化するというか。本質はそっちだなという気がします。


(後半へ続く)

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