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座談会「コロナの向こうを 照らす明かり」(6/8後半)

2020年夏至に向けてキャンドルナイトを再度呼びかけている5人のおしゃべり。

6/8に開催された第二夜の後半になります。(前半はこちら

 



現場性とコンテクストの大切さを再認識する

辻信一 竹村さん、前回のお話、読んでみて改めて刺激的でした。その続きでもいいですし、何か、今後の人類のことを考える上で他にも面白い視点があれば、ぜひ。


竹村真一 僕も動かなくなりました。毎日あちこちに行くモバイルな存在だったのが動かなくなり、ほとんどテレワークで用事ができるようになり。僕だけじゃなくて、いろんな形で社会全体のマイレージが減っていく方向に行こうとしていますよね。無駄に移動して通勤する必要もない、遠くからエネルギーや食料や水を運んでこない社会のほうに行くだろう。


例えば、自立分散型のエネルギーを近場で融通していく方向へ社会が今後向かっていくなら、それをコーディネートする方向に転換しないと業態としてサステナブルじゃないということを、東京電力の中でも考え始めている。全体的にそういう方向に行こうとするでしょう。


でも、そうやって無駄に移動する必要や、現場に行く必要がなくなればなくなるほど、「現場性」に対する希求というか、憧憬というか、が強くなる。英語で言うと“longing”という感じかな。


人と会うことも、ある場所を訪ねるのもそう。僕も大好きなイスタンブールに講演に行くことになっていたのが来年に延期され、その来年も行けるかどうかわからない。ブラジルもそうだし、南アフリカもそうだし、僕には世界中に思い入れのある場所はいろいろあるんですけど。もちろん日本の国内にも。


そういう場所に今まではいつでも行けると思っていたんです。でもこれからは行けるんだろうか。行けるとしても、それが最後になるかもしれない。でもそれが逆に、その場に身を置くことや、現場性を共有することに対する希少感を生む。これからはその現場性が稀少財になってくる感じですよね。


「場所性」や「現場性」、そして「その場のコンテクストの共有」ということに、価値を置かない方向に近代は来たわけです。つまり、アマゾンの鳥とか花とかをサンプリングして帰ってきて、分類して標本にする。でも、そのアマゾンで生きている花は、生態系の現場の中ではある蝶々と、ある鳥と、特別な関係をもち、花だけで孤立して存在できないわけです。蝶も花と切り離されて存在できないはずだけど、標本箱に孤立して入れられる。


つまり、我々は、あるものを「コンテクスト(文脈)」から切り離して、「テクスト」として、アルファベット順に分類して、百科事典に博物館に陳列する。博覧会のために世界中からモノを移動させて、デパートのように世界中で見られるように移動していく。


このように、これまでの基本的な方向は、結局、場所性や現場性というコンテクスト−−その場でしかあり得ない時間的、空間的な関係性から、すべての要素を切り離していくという方向だった。


コロナ以前から 僕は逆に、コンテクストを切り離してテクスト化していく文明から、コンテクストのほうに知を送り返していく文明になっていくんじゃないかと思い始めていて、逆に、現場性をこの上なく体験できるような方向にITを使おうと思っていたんです。


例えば、携帯電話がスマホになる前から、ガラケーでもiモードでインターネット端末になってきたころから、たとえば尾道を歩いている時に、ふっと差しかかった坂道の所で、「志賀直哉がここでこういう体験をして『暗夜行路』にこんなふうに書いている」みたいなことがちょっと聞こえてきたりすると、そこの現場の体験が多重化するよね、と。


そういうのを携帯電話を使ってやろうということを、2000年代の初頭にやっていた。それは「どこでも博物館(ユビキタスミュージアム)」という試みだったんだけど。


人類史的に言うと、2300年ほど前のアレクサンドリア図書館を皮切りに、教会とか寺院とか、古今東西の知を1ヵ所に集めるというメディアが作られていった。それの延長に、さっきのコンテクストを切り離して、全部アルファベット順に百科事典や博物館に陳列していく方向に進化した。でも逆にこれからは、地球全体が生きた博物館になっていく。現場性、場のコンテクストを捨象しないで、その文脈そのものが情報メディアとして多重化してゆく「ユビキタス型」のメディアの時代になる。


その時に、アマゾンに行って実際にいろんな花とか蝶を見ているんだけれども、蝶と花とのお互いの隠れた関係性みたいなことを紐解いていく。スマホやIoTによってそれが可能になる。一人ひとりが現場でナビゲートされていくような、現場が博物館になっていくのが、次の方向ではないか、と。


映画のための映画館ができて、次にそれがパッケージ化されてビデオとかDVDになり、今はオンデマンドになってオンラインで観られるようになっている。こういう3段階論で言うと、アレクサンドリア図書館というのは「シアター型」のメディアの第一段階。それを「パッケージ化」し、百科事典で観られるようにして、机の上で全世界を俯瞰できるようにした近代の発明が第二段階。どれもコンテクストからテクストを分離していく方向だった。


これからは逆に、これだけ豊饒化した知をコンテクストへと送り返していく。そういう方向の情報革命をやりたいと思っていたんです。それがコロナで、現場へなかなか行けないとか、移動できないとかという不自由が生じた。その中で、現場性を体験することへの憧憬が高まり、それが内圧としてすごく強まってきている感じがします。


僕は、アフターコロナというのは、現場に知恵を送り返していく、あるいはコンテクストを復活していく。近代が捨象してきたコンテクスチュアルな科学とか、コンテクスチュアルな知のあり方が、求められる時代だと思う。


たとえば、アストロノミー(天文学)とアストロロジー(占星術)を比較してみる。占星術は迷信的なもので、天文学が科学的だと思われている。例えば、天文学は、万有引力の法則で、月もリンゴも地球の引力という同じ普遍的な法則の中にあるという説明には成功したし、それで人類を月に送ることもできるようになった。


しかし、ある人が今、ある特定の場所にいて、ある状況の中にあるというコンテクストを説明する道具としては、天文学は何の役にも立たないんです。その人がその場所で、今、こんな目に遭っているのが、どういう星回りの影響なのかを、コンテクストの科学である占星術は教えてくれる。もちろん、それが確かかどうかわからないし、普遍的な知にはなり得ないかもしれないけれど。


人類の知の歴史には大きな2つの流れがある。その一つがコンテクスチュアルな知のあり方。この辺は『宇宙樹』という本に書いたんですが、たとえば染織家の志村ふくみさん。どういう植物を採ってどう染めるかという普遍科学や普遍技術としての知よりも、志村さんが大事にしたのは、この植物がどんな場所に生えていて、どんな季節のどんな時期にどういう状態にあるか、植物がどういう状態にある時にそれを頂いて染めるのかというコンテクストとの対話なんです。「その場」、「その時」といった一期一会の出会いにしかあり得ないような仕事をされている。


こういう知のあり方は、工芸や芸能、しかも非常にマイナーな世界に押し込められている。それはグローバルな普遍科学の世界とはまったく無縁な所で動いているようです。僕らは普遍科学の自由をもって世界をコントロールし、指ひとつ、クリックひとつで、誰もが世界中のから古今東西の食材や料理を取り寄せてルイ14世以上の豊かな食生活ができる。グローバリズムです。


一方、藤田さんの「大地」のおかげで、農家の声とかも聞きながら、この野菜を育てている土が、微生物がどうかということまで共有もできる。その畑まで行って場を共有することもできるし、普段の通信で「今年は採れすぎちゃったから、皆で食べて応援しよう」といったことも可能になる。


ローカルとグローバルの両方の自由を総合した上で、もう1回、場所性、現場性に還っていく。そういう“本番”がコロナの後にいよいよ始まるんじゃないかなと思っています。コロナはその始まりを早めてくれたという感じがします。



 面白いですねえ。普遍科学とか、近代的な知というのは、de-contextualize(脱コンテクスト)された知だというわけです。


竹村 そう、そして今度はre-contextualize、つまり再コンテクスト化です。ルネサンスというのは、ご存じの通りルネッサンスは、再び生まれること、復活させるということですが、同じような意味でのre-contextualizationです。14世紀のペストはルネサンスを生む陣痛でしたけど、コロナは「再コンテクスト化」の陣痛としてあるんだと思います。


 久しぶりの竹村節、みなさん、お楽しみいただけましたか。


「グローバルからローカルへ」の転換の好機


 では次はぼくから。最初に、小さいことと大きいこと、ミクロなこととマクロなことを話したいと思っていると言いましたが、そのマクロな方の話です。僕の近年の活動の軸をスローガン的に言えば、「グローバルからローカルへ」というものです。これは前回、藤田さんや枝廣さんも話してくれたことにつながっています。


コロナ危機は、改めて、グローバリゼーションの実態を、僕たちに突きつけたと思う。経済や政治に普段関心を持たない人も、みんな、急にサプライチェーンがズタズタになって、マスクをはじめいろんなものが手に入らなくなって、そもそも、「これってどこから来ていたの?」という疑問をもった。


自動車なんかでも、いろんな部品が方々から供給されているから、ある部分が来なくなると全体が麻痺してしまうという構造を目の当たりにしたわけです。この仕組みの意外な脆さを突きつけられた。


つい最近まで、多くの人がグローバリゼーションしかないと思っていたわけです。それは宿命のようなもので、選択の余地はない、このままこの道を行くしかない、と。グローバリゼーションというものが、不都合なことをいっぱい引き起こしているということを知ってはいても、でも、「他にはないでしょ」という。グローバル化に批判的な人の多くも、まあ、あれこれ手直しをしながら、何とかやっていくつもりでいたんじゃないかな、つい最近まで。


それが今回の予期せぬ危機で、「あれ、僕たちはいつの間にか、思っていたよりもずっと危うい所に連れて来られていたのかもしれないぞ」と。世界中で今、多くの人がそう感じ始めている。その気配のようなものを、ぼくなりのアンテナを通じて感じています。


誤解を恐れずに言えば、これはまたとない好機だとぼくは思っています。でもこの危機を好機に転換するには、ある意味、絶望が必要なんです。コロナ危機というけど、今の人類の現状は、はっきり言えば、コロナ危機どころじゃないくらいの絶望的な状況にあるわけですから。それの何倍、何十倍という巨大な危機を、僕たち人類はすでにいっぱい抱え込んでいるわけです。


たとえば、コロナでどこの国で何人感染し、何人死亡したと、毎日グラフみたいにして出てくる。でも考えてみてください。大気汚染とコロナの感染率が関係ある、という研究をきっかけに、大気などの環境汚染だけで年間900万人が死んでいる、という事実に多くの人が行き当たる。でも、そんなこと、今までもわかっていたはずなのに、誰も大して問題にしなかった。大騒ぎしたことありましたか、ということです。


これもグローバル経済宿命論で、世界中で経済が成長して豊かになっていくためには、環境汚染だの、環境破壊だのは、当然の代償だとは言わないかもしれないけど、仕方のないこととして、暗黙のうちに認めてきたわけです。


日本だけ見たって、この前、水俣を話したけど、ありとあらゆる公害や災害を引き起こして、たくさんの犠牲者を出してきたわけです。そんなことはみんな忘れて、福島が起こっても、何が起こっても、その度に、前を向いて「復興だ!」と。そしてその復興をまた金儲けのチャンスにしていくということを、ずっとやり続けてきた。今度は“コロナ復興特需”ですか?


そういう意味で、ぼくたちはコロナをきっかけにして、いかに人類が絶望的な所に立っているかということに思い当たらなければいけない。最大の危機は気候変動だとぼく自身は考えています。気候変動という問題の特徴は、世代によって自分が被る被害が全然違ってくること。今生きている中高年の人たちより、若い人たち、子どもたち、さらにこれから生まれてくる子どもたちと、エスカレートしていく。自分が被害者だ、という発想の仕方ではもう追いつかない。


自分たちの世代のために、利益を最大化して、地球の資源を使い果たそうとして、これまでやってきたこと、そして今やっていることのツケを全部次の時代に回そうという、これはある意味、“悪魔的“な発想です。


「コロナはチャンスだ」と言う人は多いけど、でも、こういう絶望的な状態に本当に向き合えるかどうかで、人類にとっての本物の好機に転じることができるかどうかが決まるんじゃないかなと思います。そしてそこで起こる転換をぼくなりに一言で言えば、「グローバルからローカルへ」なんです。


グローバリゼーションについては、もちろんいろんな問題が指摘されているけど、多くの人がいまだに話したがらないことがあります。それは自由貿易ということ。自由貿易はある意味、“聖域”になっている。自由貿易を批判すると途端に、「保護主義だ」とか、「ナショナリズムだ」とか、「世界大戦への道だ」とかと責められるわけです。これがいまだに世界の趨勢で、江戸時代の人であるリカードの「比較優位説」から、あんまり変わってない!


でも、ほとんど神聖視されているこの自由貿易が、気候変動のような危機にどれほどの大きな影響を与えているかという議論は、ほとんど聞かれない。


例えば、農と食です。伝統的な農業そのものは、本来ゼロエミッションですよね。でも今では食と農業の分野だけで、少なくとも25%、多い見積りだと40%近くも、温暖化の原因になっているという。僕らの生存を支える食が、ぼくらの生存の基盤である自然環境を壊すという転倒が起こっている。


そんな不条理がなぜ起こるのか、と言えば、食べものをグローバル自由貿易の主要な対象にしたからです。そして、近所でとれた大豆より、地球の裏側でとれた大豆のが安いなんていうトリックがまかり通る仕組みを作っちゃったから。その優等生として日本は食料自給率を37%まで下げてきた。もっと下げていくつもりなんです。


逆に、地産地消、ローカル・フードへの転換が、気候変動に歯止めかける切り札にもなりうるんです。でも、温暖化問題と言えば、自然エネルギーへの転換とか、ハイテクによる省エネみたいな話ばかりに人気が集まる。


一方、「コロナがチャンスだ」とばかりに、この危機のどさくさに紛れて、種苗法の改正――どう考えても改悪――という企みが進められていますね。2年前には種子法の廃止があったでしょう。タネを民営化して、グローバル大企業の金儲けの道具にしようというわけです。


今の日本の政権の根本動機は「世界で一番企業が活躍しやすい国を目指す」ことですから。食べものをまさに「食いもの」にしてきた巨大企業に、僕たちの生存の基盤を売り渡してしまう。これがグローバリゼーションの本質です。


僕が「グローバルからローカルへ」で言いたいのは、少なくとも、食、タネ、空気、水といった生存の要の部分をこそ聖域にして、コミュニティで、地域で、国で、守らなきゃいけない。そして、「自由貿易」というグローバル化の“聖域”から取り戻さないといけない、ということです。


まず食を中心として、経済を思い切ってローカルに転換していく。これがまさに藤田さんたちが昔からやってきたことですね。「国産主義」という言葉もありましたね。そういうことの重要さが今、新しい文脈の中で立ち現れてきているという気がします。

(参考:同じ夏至の6月21日には「世界ローカリゼーション・デー」が開催される)


ということで、次は藤田さんにお願いします。


経済の真ん中から問題の解決を目指す存在として生きる

藤田和芳 辻さんが、「グローバルからローカルへ」という話をされましたが、僕は今、迷いがあるんです。人生そろそろ最後の段階というこの年になってもまだ迷いがあるのかなとも思うんですけど。われわれの会社は、ついこのあいだ、株式を公開して東証の一部上場会社になったんです。この大きな転換で、僕の心の中では、規模の問題ということも含めて、どう自分のうちで整合性をつけようかと考えてきました。


日本の農業を、あるいは環境問題など日本の様々な問題を考える上で、社会を悪い方向に行かせるのも、いい方向に行かせるのも、資本主義社会である限りは、経済中心に回っているわけですから、経済やビジネスのあり方次第だ、と思うんです。デモをしたり、署名運動をしたりして社会を変えるという方法もあるけど、日本の社会のあらゆる問題に大きな影響を与えている株式会社という存在の中から問題の解決を目指す存在が大事だと思ったんです。


辻さんがおっしゃった種子法廃止の問題も種苗法の問題についても、多くの農民の方々からいろんな意見を聞いているし、自分は何ができるかと言うことを考えています。そして、自分の仕事場である株式会社大地を守る会とかオイシックス・ラ・大地を足場にしながら、ビジネスを通じて、農家の人たちと向き合い、農業問題に向き合っていく。それが私の仕事だと、ずっと思ってきました。


それが、たどり着いたところが、東証一部上場会社だったんです。でも、こんなに規模を大きくしていいのかという迷いがあるわけです。


ずっと昔を振り返ってみると、僕は正義とか純粋さを若いころは求めていた。そして自分の純粋さや正義は絶対に正しいと思っていました。ベトナム戦争に反対し、北爆で苦しんでいるベトナムの人たちに連帯するには、自分が存在している日本という国で、日本の政府に働きかけ、米軍基地に圧力をかけて、ベトナムの戦場に戦車を送ったり、空爆したりすることを少しでも軽減させるような活動をすべきだと思って、学生運動の時代を過ごしたんです。


たとえば、東京医科歯科大学から400人の学生たちを引き連れて、六本木にある防衛庁に押しかけたこともあります。巨大な丸太ん棒を4本学生たちにもたせて、、お茶の水から六本木まで駆けつけて、観音開きの扉を、その4本の丸太で突き破って防衛庁に突入する。そうすれば、ベトナム戦争が終わるかもしれないと思ったんです。


それはすごく純粋な気持ちだったし、何としてもやらないといけないと思ったけど、でもそれをやった瞬間に逮捕されれば、自分の人生には大きな影響があるわけです。もちろん、コの字型に待っている機動隊に向かってそれをやるわけですから、失敗すると袋叩きになり、自分の体中が血まみれになるようなことが予想される。でもそういうことをやり続けたんです。


でも、その正義と純粋さを追究すればするほど、反面、多様性が認められない自分に気がついていくんです。自分のすぐ隣に、反戦運動の戦術でちょっと違う意見のある人がいると、そのちょっとした違いのために、自分の純粋さとか正義は保てない、と感じる。本当は、アメリカや日本の国家権力といった敵はもっとずっと向こうにいるにもかかわらず、すぐ近くの、ちょっとだけ違う人の意見が許せない。そしてその人に対する批判とか闘いを始めるわけです。


相手が意見を聞いてくれなければ何度も批判し、駄目なら殴り合って、傷つけて。連合赤軍という組織は、最後は仲間を殺すところまで行ったわけです。それをさせたのも“正義”であり、“純粋さ”だったんです。


あの時に、もっと多様性ということが認められたら、いろんな人たちの意見を聞きながら、それがどんな歴史的な、あるいは文化的な下地から出てきた意見なのかを思うことができたら、僕はもっと大きな人間になれたと思うんです。


それが、学生時代からの僕の心の痛みだった。僕はそこから多様性ということの重要性に気がついていくわけです。そして自分は、自分が立っている基盤の上で精いっぱい生きていこうと。“正義”や“純粋さ”だけを貫くのではなくて、今の生を受けた存在として、与えられた仕事を使命として受け止めて生きていこうと思いました。


ですから僕は今、一部上場の会社の会長になっても、自分が置かれた文脈の中で精いっぱい、考えられる仕事をしていこうと思っています。そのことは、アフターコロナの時代でも変わることはない。それぞれの地域、それぞれの歴史、それぞれの文化をもつ存在として、精いっぱい生きていく。その中で、共同体、身の回りの人間関係、自然などを信頼しながら生きていく。そういうことが保証される社会こそが、アフターコロナの時代に私たちが目指す社会ではないかなと思います。


竹村 毎週、大地にはお世話になっていますが、もう35年になるかもしれません。改めて、本当にお礼申します。


人間のためだけの農業じゃなくて、土の中にいる微生物のためにもなれるような農業を、ということをずっと追究してやってきた会社が、一部上場企業になり、その器を使って、ビジネスというOSで、社会課題を解決したいというわけです。それが若い人たちの共感を生んで、とても人気のある職場になっていると思います。


そういうビジネスのやり方を、多くの人たちが歩けるブロードウェイにしてくれたというのは、大変重要なことです。株式会社という形態になっても、1つの信念や心情を共有したコミュニティです。コミュニティ性を失わず、株式会社というOSと両立させているという、これが大地の新しさであり、藤田さんの新しさで、それはコロナ以前からコロナ後のあり方を先取りしていたと思います。


そこは周りから言われるまでもないと思いますが、自信を持って進んでいただきたいと思います。「迷い」ということを言われたので。


SDGs(国連の持続可能開発目標)でいうダイバーシティ(多様性)とかインクルーシブ(包摂的な)というのは、まだ人間界だけに閉じているんじゃないかな。でも、ほかの動物、植物、微生物、ウィルスまで含めてのインクルーシブを語らないといけない時代に来ている。今度のコロナで、生態系との距離感がおかしくなっていて、インクルーシブという中に、人間以外は入っていなかったということが明らかになった。これが我々の社会のOS、経済のOSの狭さだったわけです。


そこを、もっとインクルーシブでダイバースな、もっとブロードバンドな考え方にしていくのがアフターコロナ時代の鍵だけど、それをこれまで、ビジネスというOSの中でちゃんとやってこられているのが大地なんです。

 藤田さん、竹村さん、ありがとう。では次に枝廣さんのお話に移りたいと思います。


元どおりではなく、コロナの先へと進む流れを

枝廣淳子 インクルーシブというのが人間だけに閉じていた。それを他の生き物やウイルスまで含めるような考え方を、といういいお話でした。人類の歴史は、少しずつインクルーシブの範囲を広げてきている。もともとは男性しか参政権がなかったのが、女性にも広がった。パラリンピックもそうですけど、障害をもった方を、さらに性的な嗜好性を包摂するインクルーシブな社会にだんだん向かってきています。


何年か前からアニマルウェルフェア(動物福祉)のことをやっているんですけど、インクルーシブを、人間だけでなく、動物へと広げていく。家畜を含め、動物に対して「意識ある生き物」としてきちんと向き合おうという流れです。日本では残念ながらまだまだですけど。


この流れは人類のひとつの進化であって、そこで止まることはないと思っています。ウイルスまで包摂するところまで行くには、もう少し時間がかかるかもしれないけど。大きな流れとしてはそういうふうになっているかなと思います。


一方で、今、日本はコロナがだいぶ収束しつつあるということで、東京の人出も戻ってきているし、工場も少しずつ3密を避けながらオペレーションを開始していて、この間にせっかくみんな気がついたことや学んだことがしっかり根を下ろす前に、これまで通りに戻っていくという勢いを感じています。できるだけそうしないためには、何ができるか、無駄な抵抗かもしれないですけど、考えています。


「この状況は一時的に大変な時期で、何とかしのげば元に戻る」と、多くの人が思っているかもしれない。そうではなく、しのいで元に戻るんじゃなくて、コロナの先、その向こうを考えないといけない。でも残念ながら、そういう動きが主流派ではないなと思っています。


先ほどちょっと話した世論調査の話をしようと思います。まだ予備分析なので、スライドとかをお見せすることができませんが。マクロミルというインターネットの調査会社で一般の方々を対象に調査したものと、私のメールニュースを読んでいる環境意識などが高い方々に同じ質問に答えてもらったものと、ふたつの調査を同時に行いました。


「コロナで自由に使える時間が増えましたか」という問いに対して、「増えた」と答える人が、一般の方々では40%ちょっと、メールニュースの読者では70%でした。時間の感じ方もきっと違うのだと思います。「増えた時間を何に使いましたか」という質問への答えもかなり違っていて、一般だと「テレビ」、「動画」、「睡眠」、「趣味」、「在宅勤務」とかが多く、メールニュースの読者だと、「ボランティア活動」、「家庭菜園」、「生活の見直し」、「ヨガ」、「瞑想」、「友だちとの連絡」とかが多い。


食料の入手方法について、「コロナで変わりましたか」という質問に対して、一般の方々で「変わった」という答えは30%ちょっと、メールニュースの読者は半分が変わったと言っています。どう変わったかというと、一般の調査では、「ネット」、「スーパー」、「買い物の回数が減った」、「デリバリーを使うようになった」などが多いですが、メールニュースの方だと、「支援として買う」とか、「農場から直接買う」とか、「地元のお店で買うようになった」とかいった回答が多いです。


最後に、「幸福度はコロナの状況下で上がりましたか、下がりましたか」という質問に対して、一般の方々で「上がった」と答えた人が10%ちょっとに対して、メールニュースの読者で「上がった」という人は49%。半分近くの人が、幸福度が上がったと回答しています。その理由を聞く設問には、「コロナの状況下で幸せが見つかった」、「豊かな暮らしが送れるようになった」、「丁寧な暮らしができるようになった」、「人間関係がいい方向に変わった」といった答えが寄せられています。きちんと分析したら、正式にプレスリリースなりして、皆さんに共有しようと思います。


同じ状況でも、これだけ受け取り方が違う。気がついたものとか、受け取るものがこれだけ違うというのが、すごく興味深いと思っています。つまり、誰に聞くかによって、コロナをどう受け止めるかも全然違う。どこにアンテナを立てているのかも違う。


私たちもこういうグループなので、意識が高い人たちが周りに多いと思うんですけど、でも世の中の大半はそうじゃない。そうじゃない人たちはどう感じているのかを知ることが大切だし、その人たちにとっても、今回のコロナ危機が何かいいきっかけになったらいいなと思っています。そのためにはどういう補助線を引くことができるんだろうか。そんなことを考えています。

 うーむ、そんなに二つの意識調査が違うとは、面白いですね。


以上、2回にわたって行われたオンライン座談会でしたが、たった5人の小さなグループでも、様々な、ユニークな視点からのお話がたくさん出てきて、それこそダイバースでインクルーシブな集いになったと思います。


できたらこれを参考にしていただいて、6月21日にはみなさん一人ひとりがキャンドルの明かりで、コロナの向こうを照らしていただけたら幸いです。(終了)



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