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オンライン座談会 「コロナの向こうを 照らす明かり」(6/1後半)

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 今の藤田さんの、地球にとって人間はコロナみたいな存在ではないかいう視点、大事ですね。竹村さんの、AIとかロボットとかの話もすごく面白い。人間がこういう体を持っているからこそ、その体に起こる不都合をも共有する。そういうものとして、改めて人間というコミュニティを再発見するという視点ですね。


お二人の話を聞いていて思うのは、ぼくらの世界を見る視点はだいたいいつも一方的だということなんです。3月末に『常世の舟を漕ぎて』という本が出たんですが、ぼくが26年前から聞き書きしてきた水俣病の被害者でもあり、漁師でもある緒方正人の言葉が、今回のコロナ危機の中で、いよいよ重みを持つようになっていると感じています。その本の中で彼が言ってる。「人は、あれを見るとかこれを見るとかと言うよくけど、同時にその“あれ”や“これ”に見られているということを忘れている」と。たとえば、「花を見る」時に、同時に花に見られている自分もいるということ。


ご存知のように水俣病は、人間だけじゃなく、プランクトンから、魚や鳥や猫まで、食物連鎖に沿って、みんなが病気になり、苦しみ、死んでいった。つながっているわけです。原因は工場で海に廃棄した有機水銀による汚染だったんだけど、その水銀についても緒方さんは言うんです。水銀をみんな悪者にしているけど、でも考えてごらんと。チッソ水俣工場で使われていた水銀が、どうやら、北海道のどこかから来たらしい。その大地に大昔から平和に眠っていたものを勝手に掘り起こして、勝手にいろんなことに使って、その挙げ句に悪者にされて、最後、ヘドロと一緒にドラム缶なんかに死んだ魚と一緒に詰められて、今、公園になっている埋め立て地の下に封印されているんです。それだって、ドラム缶が錆びて、何十年後にどうなることやらわからない。考えてみると水銀に罪はないわけで。


被害者を水俣病患者として認定し、補償せよ、という運動が長く行われてきたわけだけど、それだけでは片手落ちなのではないか、と緒方さんは思う。そもそも水銀という存在を我々の方がちゃんと認定する必要があるのではないか、と。それに倣って言えば、コロナ・ウィルスというものが私たちを見ているだけじゃなくて、コロナからも見られている、と気づく必要がある。そして、自分の存在を認定せよ、というだけではなく、ウィルスの存在をも認定しなければいけない。ウィルスや微生物からすれば、人間なんてほんの新参者。遥か昔からのこの世界の住民であるウィルスをリスペクトしなきゃいけない。緒方さんは、その「存在の認定」が「愛」だという言い方をする。それを思い出しました。


竹村 最近、巣ごもりモードで発酵食品が人気らしい。みんな、自分たちだけで生きているんじゃないよ、ということですね。今度のコロナ騒ぎが、土の微生物とか、腸内の微生物とか、いろんなものの協力で生きているんだということを、認識する機会にもなっているのかもしれない。


辻さんの話と藤田さんの話、まったく賛成です。ウイルスを「抱きしめる」というか。ウイルスの方も、私たちを殺したいわけじゃない。本来は共生したいわけです。でもちょっとした変異で強毒性のものが生まれてしまう、生まれやすいような環境をわれわれがつくってしまっている、ということです。

では、お互い抱きしめ合いやすい状態をどうやってつくれるかと言えば、まずは環境破壊を少しスローダウンして、生態系との距離感を取り直す。もちろん、殺虫剤とか抗生物質とかで殺してしまうのではなく。


今、強毒化したウイルスがいる状態の中で、これからどうソフトランディングしていくかという時に一番大事なことは、スローに生きるということです。これは、ぼくも一度対談させていただいたことのある長崎大学の熱帯医学研究所のウイルスの専門家、山本太郎先生が、『感染症と文明』(岩波新書)などでも展開していることだけど、結局、共生していく道を探るしかない。

われわれがしょっちゅういろんな人と会って、足繁く動くという生活をしていると、強毒性のものも弱毒性のものも、同じように人にうつっていくわけです。ところがこうやって巣ごもりをして、社会をスローダウンして、会う頻度と三密を避けていくとどうか。強毒性のものは誰か1人を殺してしまって、そこで完結してしまい、他の人に飛び移るチャンスを失う。逆に弱毒性であまり症状が出ないで、人を健康にしたままいるようなウイルスは、その分、ほかの人にうつる機会を得やすい。というわけで、結局、われわれがスローダウンして三密を避けることが、弱毒性でわれわれと共生しやすいウイルスを残していくのに適した環境をつくっている。

ぼくは「戦争医学」と呼んでいるんだけど、何でも殺虫剤とか抗生物質で殺してしまうような、ミサイルでバンバンやっつける戦争のようなやり方では、結局、O157みたいなものが暴走するわけです。そうではなくて、多様なものが共生する方向です。SDGsで言うダイバーシティやインクルーシブも、「ほかの微生物まで含めたものにしよう」とぼくはずっと言っているんです。人間の多様性とか、人間だけの包摂性じゃなくて、ほかの生物とか微生物まで含めたインクルーシブにまで拡張しようよ、と。


ウイルスまで抱きしめられる関係をつくるには、僕らがスローダウンすること。それで結果的に弱毒性のもの、われわれと抱きしめ合えるものだけが残りやすい環境をつくっていくことです。

今、キャンドルナイトをやってスローダウンしよういうのは、そういうウイルスとの新しい距離感をつくる道でもあると考えられる。三密を避ける巣ごもりは、ただ単に人と人とが分断され、孤立していく、とネガティブにとらえる必要はない。むしろ、これまで人間同士ばかりでこの世界ができていると錯覚していたような状態から、ほかの動植物やウイルスとのちょうどいい距離感をもった状態へと戻ろうということです。


 ありがとうございます。枝廣さんや藤田さん、お仕事を通じて経済界の人たちとやり取りが多いお2人だと思いますが。最近、世界のあちこちで「経済の回復」ということが叫ばれている。最近の東京は、朝のラッシュアワーの混雑が元に戻ってきているらしいですね。今後の経済に関してどう考えていらっしゃるか、聞きたい人が多いんじゃないかな。いかがでしょう。


藤田 ぼくたちも、食べ物の生産者と消費者の間を、単にモノとモノのやり取りの関係ではなくて、顔の見える関係にしようということでやってきたんですけど、顔の見える関係というのは、自分の顔が見られているということでもあるんですね。匿名の関係でモノが動くのではなくて、自分が見られているという意識を持つことが、これからはとても大事なことだと、辻さんの話を聞いていて思いました。


グローバリズムという言葉で経済のことを考えてみたい。ぼくは近年、TPPの問題とか種苗法の問題とか、日本の農業にかかわる問題に取り組んでいます。政府が取っている方向性は、グローバリズムの流れの中で日本が勝ち抜いて、それで生きていくという発想に立っている。世界中の経済はグローバリズムということを拒否できなくなって、その流れの中であらゆることが組み立てられている時代だと思います。


でも、そのグローバリズムは、実は巨大な格差が生まれてくるし、競争に勝ち抜いた者だけが豊かになるというシステムです。コロナという問題は、そういう経済のあり方についても考え直す時に来ていることを突きつけているんじゃないかと思います。


農産物のことを思っても、世界中で最も安い農産物を出せるのは、一方ではアメリカ型の農業。巨大な土地があって、セスナ機で種を蒔いて、巨大なコンバインで刈り取る。そういう農業の人たちが、世界市場に最も安く農産物を提供するわけです。一方、アジアなどの発展途上国の貧しい国では、環境も破壊され、人件費も30分の1とか、土地の値段も70分の1とかいう貧しい人たちが、身を削るようにしてつくる農産物が最も安い価格で世界市場に出てくるわけです。日本の農家の人たちは、その両方と価格競争を迫られる。


そのことによって農業が成り立たなくなる。日本だけじゃなく、世界中で成り立たなくなって、結果的には環境が破壊されたり、それぞれの国の貧しさとか飢餓とかにつながっていく。これが、グローバリズムが世界に引き起こしている現状だと思います。


こうした分断とか差別につながるようなグローバリズムをもう一度見直すようなきっかけに、コロナの問題がなってくれたらいいなと思っています。


マエキタ 福島の原発事故があってから、電気料金って、ものすごく作為的、人為的、政治的に作ってある価格なんだなということがわかりましたね。私は、大学では経済学部だったので、価格はたくさんとれる所では安くなり、みんなが欲しがるものが少ない所では高くなるから、バランスがとれるんだ、みたいな基本的なことを教わって、世の中に出てみたら、びっくり。需要と供給で価格が決まるんじゃないものがあって、その最たるものが原子力だった。


でも、思えば、農業も結構そうじゃないかと思う。意外と、世の中の値段って作為的じゃないかなと。大学で教えられたことと違うなと思うんです。


仕事を通じて分かってくるのは、平たく言うと、グローバリゼーションにのっとって、外国の富裕層が欲しがる食べ物を作る国になる、みたいなシナリオが国にはあったりするということなんです。以前はグローバリゼーションというのも、もっとナチュラルなものだと思ったけど、実はかなり作為的につくられているんだ、と。


どういう作為かと言うと、わざといい見方をすると、戦争しなくて済む。お互いが貿易で支え合っていれば、この国はなくていいとか思わないで済む。そのために、何としてでもグローバリゼーションを進め、開国させていく。ほかの国と商業的につながっていないといけない、みたいな思い込みがあるのかなと思いながら仕事したりしています。それが言いたかった。というか、言いつけたかった。グローバリゼーションって「手強いぞ」、と言うとおかしいけど。


でも逆に言うと、単なる思い込みだから、底が浅い。だから、グローバリゼーションなんかに負けないよ、とも言える。それは自然の摂理に基づいた秩序ではないから。そんなの価値ないよ、やめたほうがいいよ、と私たちが言えば、案外あっけなく変わるのかなとも。以上です。


枝廣 マエキタさんが今言われた、「お互いが必要だから戦争するのやめよう」という意味での外交、国と国とのつながり方は、EUがつくられた時の考え方ですね。それがどこまで、今のグローバリゼーションに当てはまるかは、わからないけど。

経済についてどうか、という辻さんからの問いだったので、いくつか思っていることを話します。


1つは、先ほども話があったように、今コロナのせいで経済活動が停滞しているので、自然が戻ってきていいねという側面がある一方、失業、倒産が急増して、これを何とか食い止めないといけない。そうしないと自殺が増え、生きていけない人が増えるという側面があります。これは人道的に必要な手立てと思いますが、今、日本も含め、各国がすごいお金を突ぎ込んでいますよね。


私が最も心配していることの一つは、コロナが収束した後、借金を抱えた政府も、企業も、それを取り戻すために経済成長のアクセルを思い切り踏むだろうなと。その時に、今はCO2減っているけど、アクセルの踏み方をちゃんと考えておかないと、CO2の排出もさらに悪化するということです。



そもそもお金は、印刷すれば増やせる。電子的には印刷しなくても恣意的に増やせる。ここにもともと私の問題意識があります。勝手に脹らませたお金が投機に使われる。木を買ったり、水を買ったり、必要なものと交換できる。でも地球は有限だから、無限に大きくなっていくお金に対応できるわけがないのに、そういう仕組みになっている。つまり、有限な地球の上で無限の経済成長はないんだけど、それが行われているというのが、環境問題の大元だと思っています。


なので、コロナ危機のずっと前から、「定常経済」という、規模が大きくならない経済にどう変えていくかという話をしていました。恐らく今の状態は縮小経済ですが、コロナ後はそれを挽回しようと各国がまた拡大経済に向かって走った時にどうなるか。それが心配です。


救いは、EUなどで、コロナ後の経済を戻す時のやり方をできるだけ持続可能な、環境に配慮した方向に誘導しようとはしていることです。どこまでうまくいくかわからないけれど。そうしなかった場合よりはマシだとは思う。でも、恐らくアメリカも日本も、あまりそういう頭はないので、その辺が心配しているところです。


もう1つ、このあいだNHKの「クローズアップ現代+」に出た時も話したんですけど、今、私の住んでいる熱海で、旅館とかホテルがみんな閉じていて、水産加工をやっている人たちが、売り先がなくなって困っている。それを一般消費者につなげるためのウェブサイト、ネットショップを作って応援しているんです。


自分で初めてそういうことをやってみたら、「ありがとう」が行きかうんです。作ったけど買い手がなくて困っている生産者と、なかなか買い物にも行けない消費者。それが宅配によってつながる。「作ってくれてありがとう」、「買ってくれてありがとう」、そして真ん中でつなげている私が両方から感謝されていて。「ありがとう」で成り立つ経済があり得るんだということです。それは生産者もびっくりしている。これまでは、言われた数だけJAに卸すとか、漁協に卸すとかしていたけど、今は消費者から直接「ありがとう」が届く。


消費者も、これまでスーパーに行って買っていたけど、こういう生産者さんがいることを初めて発見した、みたいな話もよく聞きます。誰がどこで作っているかわからないグローバル経済とは違う、この「ありがとうの経済」というものに、価値を見いだし始めている人たちがたくさんいる。それは今後にもつながるだろうなと思っています。


これまでのグローバル経済は、人が自由に移動できることを前提につくられているけれど、それができなくなった現在の状況で、それを前提にしない経済の形が見えてくる。今、ローカルな経済に戻ろうという動きは、前よりも大きくなっています。短期的な効率や儲けよりも、安心やレジリエンス、そして直接やり取りできることの幸せの方が大事だよね、というのが、私たちみたいな“意識高い系”の少数の人だけではなくて、もっと多くの人たちが実感しつつある。そこが救いかなと思っています。


 ありがとうございました。いよいよ面白くなってきましたが、この続きは次回、6月8日のぼくらだけのキャンドルナイトで、やりたいと思います。あまり時間が残ってないですけれども、最後に一言ずつでも言って今晩は終わりたいと思いますが、いかがでしょうか。


ぼくは藤田さんの話を聞いていて、大地を守る会の最初のころの「国産主義」を思い出した。国産、地産地消を改めて掲げなきゃいけないな、と。そしてマエキタさんや枝廣さんが話してくれたグローバリゼーションの中の、価格の操作や投機的な金融の問題ですね。ぼくはグローバリゼーションというのは一つの巨大な詐欺だと思っています。地球の裏側から持ってきたものが、隣の畑で作っているものよりも安いというマジック。助成金や規制緩和などのトリックを駆使した巨大な仕組みです。


コロナ危機を好機として、まともな経済、本来の経済に戻っていくことができればいいんだけど。ぼくはグローバリゼーションに対してローカリゼーションだと言いたい。藤田さんや枝廣さんの話にあったローカル。特に食べ物からローカル化してゆくことが大切だと思います。


竹村 毎日当たり前に必要な最低限の水とか食料を、すべてお金で買わなきゃいけない世界にしたのがグローバリズムですよね。でも、必要最低限のものがお金がなくても手に入るという、そこに帰らなきゃいけないはずです。みんな休業して経済が成り立たないからいくら支給するとか、持続化給付金を何百万円出すとか、そこをただお金で埋めるだけではなく、最低限の暮らしはお金がなくても成立するという社会へ向かうことです。


地産地消は大事だけど、それも結局すべてがお金でやり取りされなきゃいけないという発想を、いかに外していくか。全部お金で買わなきゃいけなくなったのは、この30年ぐらいのことですから。


辻さんやマエキタさんと同様、ぼくも30年以上前に世界をめぐっている時、今とは違って、どれだけの場面でお金を使わなきゃいけなかったか、ということです。お金がなくても回る経済、それが社会のレジリエンス(しなやかな強さ)の根本です。100%、お金がなければ何もできない。毎日の水すら手に入らない。これこそが一番の危うさです。お金のいらない世界を、もう一回、担保し直す。ここに尽きるんじゃないですか。 い世界を、もう一回、担保し直す。ここに尽きるんじゃないですか。




枝廣 今の竹村さんの話、今、地元の熱海でそれを体験しています。漁師さんたちの手伝いをし、オーガニック農家の行き場がなくなった野菜をつなぐお手伝いをしているうちに、お金をあまり使わなくなったんです。スーパーに行かなくなった。水産加工会社の社長がお魚をどんどん持ってきてくれるし、農家さんからもいろいろいただく。直接生産者さんから買う分くらいしかお金は使わなくなりました。


その確かさというのか、安心を実感しています。私が今お手伝いしている水産加工場には、何トンという干物とか海産物を冷凍している倉庫がいくつかあるんです。なので、食糧難になっても、あそこに行くとタンパク質はもらえるなとか、農地を少し借りている仲間と耕したりしているんで、お芋を植えれば死ぬことはないな、とか。そういう確かさを自分で感じられるようになっている。


もう一つ、都市と地方の関係性が大きく変わり始めています。以前は、「都会の人来てくれ」と地方は言っていた。だけど、コロナ危機で、うちの辺りもそうですけど、「都会の人、今は来ないでください」と言っている。このあいだ、フィリピンの友だちとしゃべったら、フィリピンはロックダウンでマニラなどは経済が止まっていて、かつてはみんなマニラに来て働いて地方に仕送りしていたのが今はできないので、逆に、地方でできるだけ経済を回して、そのお金をマニラなどの都市に送金していると言っていました。地方と都会の関係性が変わっている。


もう一つは、フィリピンの友だちが教えてくれたのは、フィリピンの農業省が都市に住む人に、苗とか家庭菜園の道具を一式無料で配っているそうです。自分で食べものを作れるように。


日本の農水省の場合、全然そういうことは考えてないみたいですけど、これは食料自給率を上げるチャンスなんです。絶好のチャンスなのにそれに気がついてない。でもフィリピンの農業省は、都市の人たちが家庭菜園できるように後押ししている。

このようにいろんなことが変わりつつあって、それが希望でもあるなと思っています。


竹村 倉庫にあるやつが、経済が戻ったら、「また売れるようになりました」で元に戻らないようにしないとね。

枝廣 そうなんです。今回、地元の水産加工の人と話すと、「これまで通りには戻らないだろう」と言います。これまでの“インバウンド”や観光客に頼り切っていたのが、直接消費者とつながることの面白さに気がついた。これからはそちらにも力を入れていきたいと言っていました。ただ、それだけでは全部賄えないから、ある程度は戻っていくと思うけど。


 ではマエキタさん、



マエキタ 最後に言いたかったのは、印鑰智哉(いんやくともや)さんから菌根菌の話を聞いてから、土を見るたびに菌根菌に思いが行くということ。


もう一つは、このごろキジバトが窓の外の餌場に来るようになって、たまたまこの間、いつも餌をやっているキジバトにすごく怒られたということ。餌をやりたくて近づいたら、キジバト、結構大きくて、すごいんです。キッと見て、手を挙げるんです。ご飯欲しいと言っているのかなと思ったら、羽を腕のように、こうやって人間を威嚇している。キジバトってすごいなと思いました。コロナ以来、自然が迫ってきているようで、毎日発見が多いです。


藤田 ぼくは会社を経営している立場から、コロナの問題なんかも考えます。かつてのように市民運動的にデモをしたり、署名運動をしたりして社会を変えていくという、もちろんそれも大事ですけど、今は、会社を経営する立場から、ビジネスの手法を通じて社会を変えていくということを考えています。

日本の社会もそうですけど、株式会社が経済の大きな部分を担い、そこから禄を食んで生活している人たちがすごくたくさんいる。さまざまな問題を解決するにも、社会がいい方向に行くにも、株式会社そのものが変わっていかないと、社会は変わっていかない。ぼくの果たすべき役割は、ビジネスを通じて社会のありようを示していくこと。そういう仕事なのかなと思っています。


国連で言っているSDGsも、どこかで金儲けして、儲かったお金で第三世界の植林をするというようなこれまでのやり方ではなくて、ビジネスを通じて農薬を使わなくてもいいような農業をつくるとか、人と人が助け合う社会をつくるとかというやり方が大切です。ビジネスをやりながら、人々の心にそういうものが芽生えていく。われわれも株式会社ですけれども、そういう仕事をしたいと思っています。今度のキャンドルナイトでも、そういうことを訴えていきたいなと。


 ありがとうございます。話を聞いていると「100万人のキャンドルナイト」が懐かしくて。見失いかけていた大事なことを、みなさんの話がもう一度思い起こさせてくれるような気がします。


では、ぜひ次回もお楽しみに。ハッピー・キャンドルナイト!(終了)


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