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執筆者の写真Aya Wada

瞑想   …できない私

 エクアドルでここ20年、環境保全や有機農業にこれまでずっと携わってきた私の周囲には、当然ながら環境保全や有機農業に関わる人が多いのですが、その人たちの多くは、自分の体や心のケアにも関心が高く、しょっちゅう「瞑想」「ヨガ」「ピースダンス」「テマスカル」「○○セラピー」を実践されていたり、ワークショップを企画されたりしています。今まで何度か参加してきましたが、私はおそらく天邪鬼な質で、セッティングされた場所で「瞑想をしましょう」と言われると、瞑想状態に入るどころか、むしろスッと冷め、心はそこから離れ、頭は日常に戻り、瞑想するふりをしながら、「今日のごはん何にしよう(そしてこういう時ほどジャンクなものが食べたくなる)」「眠い」「疲れた」「お金ない」「隣の人は瞑想モード入ってるな。しかしホントに入ってんのかな」「早く帰りたい」などと考え始めます。そういう雑念・邪念をふり払い、自由になるためにやっているのに、むしろそういうことばかりが頭の中を駆け巡ります。終わった後は「その境地」に達したふりをして、ニコニコ「よかった〜」とかなんとかそれっぽいことを口にしながらしらけている自分がいます。そういうことが何度かあってから、私はそういうものに、参加することをやめました。内容が良いとか悪いとかそういうことではなく、自分にとってのお金と時間の無駄遣いに感じられ、さらに自分の偽善者ぶり、その後味の悪さにうんざりしたからです。

 

 そんなスピリチュアルなところからはとても遠い私ですが、それでも「あ」という瞬間はあります。

 

森の中で滝の流れを見ているとき。

朝夕家から見える山の裾野を流れる雲を見ているとき。

寒くてつけた暖炉やロケットストーブの炎を見ているとき。

一生終わらないとも思われる畑の作業をしているとき。

たわわに実ったブラックベリーやチャイニーズチェリーを延々とつんでいるとき。

発酵している果実酢の泡が静かに立ちのぼるのを見ているとき。

外に座って、木々が風に揺れるのを見ているとき。

ふとハチドリのさえずりが聞こえ、空を見上げるとき。

夕方の空の色が刻一刻と変わっていくのを見ているとき。

子どもたちが高い澄んだ声で笑いながら戯れあって、走り回っているのを見ているとき。




 

 最初は、それこそ「今日は何を食べよう」とか考えているのですが、そのうち何も考えなくなります。何かを考えているという意識がなくなる。ただただ流れていく何かを見ている。それは物理的な時計の針を超えた一瞬でもあり、長い長い時間でもあります。ずっと水を、雲を、炎を、木々を、土を、空を、虫たちや鳥たちを見ていて、見ながら「何も変わらない」と「もう二度と同じ時は訪れない」という相反する思いが交錯し、その交錯こそが永遠だと思う。時間とは、永遠とはなんだろう。生まれるものもあれば死にゆくものもある。自分は満たされている。何に向かってはかわからねど、ありがとうと思う。多くの場合は一人でいるときが多いですが、誰かに守られているような気がするときもあります。


 私は「瞑想」の何たるかを知りません。そして嫉妬、怒り、欲望にまみれた短絡的な人間です。でも、振り返ってみればですが、この「あ」という瞬間に私は小さく「瞑想」しているのかなと思いました。そういう瞬間を挙げていけば日常のそこここにある。だけれどもう取り戻せないモノ・コト・時間もある。それを思うと胸が張り裂けそうな気持ちになったり、背筋がブルっとするような不安に襲われたりすることもあるけれど、だからこそその「あ」という瞬間を噛み締めながら、生きていけたら、けっこう心の平和は保たれるのかもしれないと思ったある1日でした。




 

 

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