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執筆者の写真辻信一

オヤジのこと


先日、奥会津の柳津で縄文遺跡を見学、その午後立ち寄った昭和村のカフェで気に入って買った縄文風カップ


また8月24日が巡ってきた。今は亡き父、大岩俊男(イ・ウンシク)の誕生日だ。生きていれば101歳この半年ばかり、ハマっているスイス人のピアニスト、ティエリー・ラングのアルバムLyoba Revisitedに、A Star to My Fatherという曲が入っている。今日は朝からこのアルバムを繰り返し聞いている。この一年、遅ればせながら、韓流ドラマや映画を片っ端から観てきたが、朝鮮戦争時代のことが出てきたり、そうでなくても父親(アボジ)役が出てくるたびに、自分のオヤジのことが頭をかすめなかったと言えば嘘になる。


さて、去年の今日、オヤジ(とぼくは彼を呼んでいた)オヤジのことを書いて親族にメールを送った。そこにはこんなことを書いた。親戚縁者のために書いたことだが、今日、ふとぼくと縁のある人はみなオヤジとも縁があるんだ、と思えたので、こうしてブログに載せることにした。縁を感じない方はごめん。スキップしてください。


今日、8月24日はオヤジの誕生日、生誕100年だ。少なくとも戸籍の上ではそうなっている。出身は朝鮮の黄海道、それ以上詳しいことはわからないが、ピョンヤンとソウルのちょうどまん中あたりだと、ぼくは聞いたことがある。旧名、というか、元々の朝鮮名は李元植(イ・ウンシク)。日本の植民地だった朝鮮で、一家は「大岩」という和名を名乗っていたが、その大岩とは、一族の発祥地を示す碑(廟?)のある村、大岩里に因んだもの。両班(やんばん)の家の長男として、家を継ぐ義務があったが、彼は17、8歳の時に家出して、日本に渡った。詳しいルートはわからないが、友人や先輩のツテをたどって下関から京都へと、さらに東京へと旅をしたものと思われる。


戦後、父は解放された朝鮮へと一家を連れて戻るという夢を抱いていたが、それは、朝鮮戦争で一族郎党を全て失うことで実現できなくなった。それでも、最後まで、故郷に何らかの形で帰るという夢を捨てていなかったことだけは確かだ。


自分の家族とふるさとを一挙に失った者の深い孤独に、思いを馳せてみてほしい。


今年(2021年)は、兄、剛一の文章をまとめて一冊の本にする予定(2022年3月に『大岩剛一選集 ロスト&ファウンド 懐かしい未来の風景と建築』として出版された)だが、来年以降、父が遺した数々の文章も、何らかの形で整理し、いずれはまとめたいと思っている。


父の遺稿 名前は古代史家としてのペンネーム


以上、メールを書き始めたのが夜更けだったので、これだけ書いて、続きはまたの機会に、と言って送った。でも、それから何も書かないまま一年が過ぎてしまった。今日、ふと思いたって、またオヤジのことを書いて、同じ宛先にメールした。そこにはおよそこんなことを書いた。


1921年、つまり、すでに日本の植民地となって10年以上経っていた朝鮮に生まれたオヤジは、当然、学校では日本語を強制されていた。朝鮮語を使っているところを教師に見つかると、ムチで叩かれたという。オヤジはそれに反発しつつも、自分自身は学業に秀でた生徒だったようだ。ぼくらの親として、また社会人として、オヤジが話す日本語には不自然さはなかったし、読み書きの能力も人並み以上だった。彼の深い学問的素養が、単に日本に来て大学に入ってから培われたものだとはぼくには思えない。


オヤジがこんな話をしてくれた。少年のとき、自分の父親が特高(特別高等警察)に連れて行かれたことがある。激昂した彼は、ためらうことなく、父親を取り戻すために警察へ走った。前に立った日本人の警察官に向かって、父親を迎えにきたと告げる彼に、男はただ無言で薄ら笑いを浮かべていた。その笑顔を見ながら少年が抱いた、自分の願いを聞き入れてくれるのかもしれないという淡い望みは、やがて、何の前触れもなく飛んできた殴打(あるいはムチ?)で断たれた。


その直後に男の目に浮かんでいる「氷のように冷たい目」を、今でも忘れることができない、とオヤジはぼくに言っていた。笑顔と冷酷さ。この一見相反するものの組み合わせが、朝鮮人の少年の心に、“日本人らしさ”として刻まれたらしい。


ぼくがオヤジのことを朝鮮人というのを聞いて戸惑う人が多い。しかし、ぜひ理解してほしいのは、彼が生まれ育ったのは、日本占領下の朝鮮で、まだその頃には、北朝鮮も韓国も、38度線もなかったということ。彼が北朝鮮出身だというのも、だから、正しくない。もちろん韓国人でもない。英語だとKOREANで済むので便利だが。ぼくは北朝鮮とのハーフでも、韓国人とのハーフでもなく、コリアンとのハーフなのだ。


もうひとつ、オヤジに聞いた少年時代の話。少年たちは、そっと学校の裏に集まっては朝鮮語で語り合ったという。さまざまな、時には荒唐無稽な噂話がとびかったという。朝鮮の女性たちに比べて、日本人の女性たちはみんな醜くて、足はこんなに短くて、こんなに太い、と誰かが動作をまじえて言うたびに、みんなで腹を抱えて笑った。また、白頭山(中国と現在の北朝鮮との国境にある朝鮮最高峰)から、無敵の英雄、金日成(キムイルソン)が白馬にまたがって、こちらへ向かっている。朝鮮が日本から解放される日は遠くない・・・


他の多くの少年たちと同様、オヤジの心の内にも、祖国の独立のためにつくしたいという気持ちが強くなっていった。日本に渡ったのは、表向きは留学のためだったが、それを決める前に、葛藤があったという。行先の候補として二つの場所があった。ひとつは上海、もうひとつは東京。どちらも、アジアで最もインターナショナルな街であり、朝鮮独立の地下運動の拠点だった。結局、彼は宗主国である日本の心臓部に飛びこむことを選んだのである。


しかし、オヤジがその後日本で、独立運動にどう参画したのか、しなかったのか、ぼくは聞いていない。東京に来る前に京都にしばらく滞在したというのは聞いた。京都の路地の印象だろう。早朝、前かけ姿の女性たちが家の前の道に出てホウキで掃除して、水をまく。前かけを外すと、ツツッと近くの祠に進み出て、手を合わせる。こうした習慣と、女性たちの所作の美しさに彼は衝撃を受けた。そして何より、ティーンエージャーの彼の心をとらえたのは、女性たちの美しさだった。みんなで大笑いしていた日本人女性の醜さはいったい、何だったんだ!?


やがてオヤジは中央大学の経済学部に入学した。そこから先、オフクロと出会うまでのことはよくわからない。なんでもっと聞いておかなかったんだと思うかもしれないが、オヤジの出自がはっきりしたのは、ぼくが北米に渡ってからのことで、以後、10数年間ぼくは海外で暮らしていた。91年の終わりに帰ってきてからも、以前喧嘩ばかりしていた父と息子が穏やかに話し合う習慣を身につけるのに手間どってしまった。


たしか1994年に、ぼくの師であり友人であるデヴィッド・スズキと二人で『ぼくらの知らなかったニッポン』(未訳)という本のための取材という名目で、オヤジに数時間のインタビューをしたのが良いきっかけになって、オヤジに会うたびに過去の話をいろいろ聞くようになった。でも、始めるのがあまりに遅かった。ぼくは95年の4月から一家でカナダでの研究期間に入り、その年の11月末に、オヤジは亡くなってしまった。


とはいえ、ぼくにもまだオヤジについて言えることはありそうだ。また機会を見つけて話そうと思う。




雑誌「古代文化」に載った2篇の最初のページ



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