大転換の時(『ホーキせよ!〜ポスト3・11を創る』序文)

3・11後の「変わりよう」と「変わらなさ」


  あの3・11からちょうど五〇〇日。改めてその月日を振り返ってみる。すると、ふたつの一見矛盾した思いが、自分のうちに同居しているのがわかる。ひとつは、3・11以後の、ぼくをとり巻く世界の「変わりよう」、もうひとつは自分をとり巻く世界の「変わらなさ」についての感慨だ。試しに、メディアがこの数日にとりあげた原発関連のニュースを並べてみよう。

電気料金九月から八・四七%値上げ/福島第一、四号機燃料二体を搬出/原発比率三案に、脱原発派と推進派双方から批判/大飯三号機に続き、四号機も再起動/保安院、大飯と志賀の断層調査指示/運転開始から四〇年を迎える美浜二号機の一〇年延長を保安院が許可/「連合」原発推進政策を見直し/雨の中、一六回目の官邸前原発抗議行動。全国各地でも/韓国で二二基目の新原発が商業運転開始。福島事故後初

  「変わりよう」と「変わらなさ」が縞模様のようになっている。「変わらなさ」には呆れるばかりだ。しかし、守るべき巨大な既得権益をもつ政官財の権力者たちの「変わらなさ」はまだわかりやすい。問題は、ぼくたち自身の内に居座っているかもしれない「変わらなさ」であり、「変わりたい」自分と「変われない」自分とがつくり出す、内なる縞模様だ。

  さらに、「変わった」という時の、「変化」の質も問題だ。たとえば、政府が二〇三〇年のエネルギーに占める原発の割合を「〇%」「一五%」「二五%」とする三案を示したのは、3・11前にはありえなかった大きな変化だ。でも、経団連や日本商工会議所などに代表される財界が、経済成長を支えるのには最大の二五%でも足りないと言って駄々をこねているのは昔からのおなじみの姿だ。その財界に脅しつけられるようにして、大飯原発を再稼働したり、老朽化した美浜原発二号機の運転延長を認めたりする政府が、広く国民の声を聴いたというアリバイを手にして、一五%と二五%の間で決着しようと企んでいるのも、3・11以前から何も変わらぬやり方だ。

  また、かつては原発推進路線を敷いていた労働組合の中央組織である連合が、そのエネルギー政策の見直し案を発表したのは変化にはちがいない。しかし、よく見ると、原発の新たな増設について「現時点では困難」と言ってはいるものの、その一方で、「電力の安全供給」とか「国内雇用維持」とかのお題目のもと、傘下の労組から上がる脱原発論を退けて、現在停止中の原発の再稼働を容認するのは、これもうんざりするほどの「変わらなさ」だ。

  二五%よりは一五%が、一五%よりは〇%がよい、というのはそのとおりだ。しかし、そうした変化は量的な変化にすぎない。ぼくたちの言う「脱原発」とは、原発に象徴されるような命より金を優先するような社会から脱け出すことであり、もうひとつの社会への質的な飛躍を意味するのだ。ちょうど「脱成長」という言葉が、経済成長率を〇%に近づけることではなく、「成長」というマインドセット(思いこみ、心の習慣)そのものに別れを告げることを意味しているように。

  3・11の直後に、ぼくたちは思ったものだ。これは大転換の時だ、と。「プレ3・11」というひとつの時代が終わり、「ポスト3・11」というもうひとつの時代が始まったのだ、と。巷にあふれる「復興」と言う言葉が、ぼくたちには、新しい時代の到来を認めたくない旧時代人たちの合言葉のように聞こえたものだ。それから一年余、確かに以前よりはるかに多くの人々が「変化」を口にしてきた。しかし、その「変化」のどれだけが、単なる量的変化を超えた、質的な転換を意味していただろうか。

 

マインドセットの転換

  先日(二〇一二年七月一六日)の「さようなら原発」大集会・デモの熱気が、ぼくのうちにまだ冷めやらずに残っている。一七万人といわれる参加者を前に、呼びかけ人の一人であり、ナマケモノ倶楽部の長年の友人でもある音楽家の坂本龍一さんがこうきり出した。
「たかが電気のために、なぜいのちを危険にさらさなければならないのか」
  そう、そのひと言に、すべてが言い尽くされていると思う。こう言い換えてもいい。たかがお金のために、と。坂本さん風に言えば、質的な転換とは、「電気のためのいのち」や「お金のためのいのち」から、「いのちのための電気」や「いのちのためのお金」へと価値観を逆転させることだろう。電気というマインドセットを、そしてお金というマインドセットを転換させるのだ。

  3・11以降、ナマケモノ倶楽部の仲間たちとぼくは、たびたびアルバート・アインシュタインのこんな言葉を思い出しては肝に銘じたものだ。

ある問題を引き起こしたのと同じマインドセットで、その問題を解決することはできない。

  3・11の後、「エネルギーシフト」という言葉が急速に拡がった。「シフト」とは変化や移動を意味する言葉だ。もちろん、ぼくも原発から自然エネルギーにシフトすることには大賛成だ。しかし、そこでぼくたちはふと立ち止まって考えてみるべきなのだ。「原発から代替エネルギーへ」というのは、技術的、物質的な変更にすぎない。それが同時にマインドセットそのものの転換を意味するのでなければ、アインシュタインが言うように、問題の真の解決とはならないだろう。

  これまで原発推進勢力は、化石燃料の大量消費などを原因とする気候変動を口実に、原発を化石燃料に代わる「クリーンエネルギー」だと言い張ってきた。だが、「化石燃料から原発へ」というエネルギーシフトは問題の解決とはならない。なぜなら、化石燃料に絡む様々な問題を引き起こしたのは、経済成長を至上目的とするマインドセットであり、そのためには、ますます多くの安価なエネルギーを消費し続けることが必要だという思いこみだった。それと同じマインドセットのままで、原発をもち出してこようが、その他の代替案をもち出してこようが、問題の解決とはならないのだ。

  有数の地震国であり、原爆による被ばく国である日本が、いつの間にかトップクラスの原発大国になっていたという事実に、世界中が改めて驚きの声をあげている。日本人自身が驚くべきだろう。そして、原発という厄介な問題をぼくたちにもたらした「経済」という名のマインドセットの中に囚われてきたのが、他ならぬ自分たち自身であったという事実を、痛みとともに省みるべきだろう。

  シフトとは、まず何よりもマインドシフトを、自分自身の内なる変化を意味するものであるはずだ。同じように、社会のシフトとは、まず価値観の転換であり、これまでの集団的マインドセットを超える新しい文化の創造のことにちがいない。

 

原発の代替案は何か


  そんな文化創造に向けて、ナマケモノ倶楽部では、震災直後から「ポスト3・11時代を創る」というキャンペーンを開始したのだった。その頃、みんなで回し読みしたのが、ぼくたちが敬愛する政治学者のダグラス・ラミスさんが十数年前に書いた「原子力に替わるもの」という文章だった。次にそれを紹介しよう。

  ある時、英字新聞のコラムで、ラミスさんは「大地震が起こるような場所に原発を建てるなんて気ちがいじみている」と書いた。すると、ある読者から「では、原発に替わる代替案は何か?」という質問が来た。代替案なしの反原発論は説得的でないというわけだった。ラミスさんはそれにこう答える。

原発の代替案とは何か、それは原発をもたないことである。椅子に座っている人を想像してみてほしい。それは快適で、豪華な椅子だ。ただ一つだけ困ったことに、その椅子の下にはダイナマイトの箱があって、点火された導火線につながっている。誰かが言う、「そこにそうやって座っているのはよくないと思うんだけど…」
座っている人がそれにこう答える。「じゃあ、代替案は?」。
そう、椅子に座ることの代替案はもちろん、椅子に座らないこと。

  もちろん、ラミスさんは、質問してきた読者が代替エネルギーのことを訊いているのだということを承知している。

告白すると、私はそんな「椅子」があるかどうか、知らないのである。石炭、石油、水力ダム、天然ガスなどのほかにも、メタンガス、太陽、地熱、風などのエネルギーを使う方法が知られている。これらの「椅子」が、今、私たちが座っているものほど快適かどうか、私は知らない。しかし、大事なのは、実はそんなことではない。

  安価な電気を豊富につくり出す原発を他の発電によって置き換えることは、もしかしたらできないかもしれない。原発をやめると、これまで機械がやってくれたこともまた以前のように手でやらないといけなくなるかもしれない。しかし、「それは私たちにはとても耐えられないことだろうか?」とラミスさんは問う。そして、「私にはそうは思えない」と答える。

  この一六カ月を振り返ってみて思うのは、「原発に反対するには、まず代替案を示すべきだ」という意見が、いまだに大手を振って歩いているということだ。しかしこの意見は、ラミスさんが言うように、原発がつくり出すエネルギーの「必要性」を前提にしている。しかし、とラミスさんは問い返すのだ。もし、原発が本当に「必要」なら、どうやって人間はそれなしに長く生きてこられたのだろうか、と。そして、もっとエネルギーが「必要」だというのは、実は、もっと贅沢が「必要」だ、ということなのだ、と。

  ラミスさんはこう結んでいる。

本当の問いは、原発を廃止するか、存続するか、ではない。いずれ必ず、廃止するしかないのだから。問題は、最悪の事態が起こる前に止めるか、起こった後に止めるか、だ。原子力の代替案とは、そういうことなのである。
(『ダグラス・ラミスの英語読本』(筑摩書房、二〇〇〇年)所収、「Nuclear Alternatives」より。辻信一訳)

  このラミスさんの文章からぼくたちが学ぶべきことは、「これまで化石燃料や原発がつくってきたエネルギーは必要だったし、今後も必要である」という前提から降りるしかないということだ。エネルギー大量消費による経済成長というマインドセットから脱ける、と言ってもいい。本当の変化とは、そういうことだろう。

 

大転換の時は到来した

  「脱原発」とか「脱成長」と言えば、必ず「後ろ向きだ」とか、「過去に戻れというのか」といった反論が聞こえてくる。しかし、なぜぼくたちはそんなに「前向き」にこだわらなければいけないのだろう。進歩や成長の名のもとに、ぼくたちの社会はこれまで前につんのめるように走ってきた。その末に、自分たちの生存の基盤である自然を破壊し、人間同士のつながりからなる織物を引き裂いてきたのである。

  3・11の後に大手新聞社が掲げた標語は「ニッポン、前へ」だった。やれやれ。ぼくたちにとっての転換とは、「前へ」というマインドセットから脱け出して、後ろにもしっかりと目を向けることだろうに。この転換期の中から創り出されようとしている新しい時代の新しい社会とは、きっと懐かしさにあふれるような場所であるにちがいないのだから。

  ぼくたちの親しい友人であり師でもある『懐かしい未来』の著者ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ(五〇ページ参照)の教えが、3・11後のぼくたちを導いてくれる。その本の中で彼女はこんなことを言っていたっけ。この社会では「後戻りできない」という言葉が、まるでお経のように唱えられてきた。もちろん過去へ戻ることなど、望んでもできるものではない。私たちはただ、大昔から続いてきた人と人との、そして人と自然とのつながりへと螺旋を描くように戻っていくだけだ、と。ヘレナによれば、この「懐かしいつながりへの回帰」は、世界中のあちこちですでに大きな流れとなりつつある。

  同じように、アメリカの思想家ジョアンナ・メイシーも、世界に大転換(グレートターニング)が起こっていると言う。それは、環境運動、グローバル化に対抗するローカル運動、そして価値観の転換やスピリチャルな覚醒という三つの次元で同時進行している、と。

  その三つは、やはりぼくたちの友であり師であるサティシュ・クマール(八九ページ参照)が言うソイル(自然)、ソウル(心と魂)、ソサエティ(社会)というSで始まる三つの言葉に対応する。彼は、これまでバラバラだったそれら三つの領域が融合して、ホリスティックな社会変革へと高まってゆくというビジョンを示してくれた。

  さて、それではこの大転換が無事に人類を新しい時代へと導いてくれるだろうか。この問いへのメイシーの答えは楽観的とはいえないが、それでもぼくたちを慰め、励ましてくれるには十分だ。

たとえ、直線的な時間軸の上では、これらの大転換の流れが地球規模のエコロジー革命を成功に導かなかったとしても、無駄ではない。なぜなら、それは自分自身の本性への「里帰り」に他ならないのだから。

  とにもかくにも、大転換の時は到来した。全世界のナマケモノたちよ、ホーキせよ!