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“ムダ活のすすめ” ーいつ、どこで遊べばいいのか



子どもたちの遊びはいつだってムダだ

タイから戻って、さっそく近くの舞岡公園の森に行く。二週間前にほころび始めていた梅のつぼみがかなり開いた。あちこちに散らばった白梅、紅梅、そしてロウバイやスイセンを辿るようにして歩く。


舞岡公園。戸塚区から港南区にかけて広がる横浜市立の公園だ。面積は約28.5ヘクタール。


舞岡=Dancing Hills。里山の景観をできるだけ忠実に保存することを意図したこの公園が、ぼくにとってどれほど大切なものか、言葉で説明することは難しい。特にコロナ到来後の一年間、ほぼ毎日ここに通ったぼくにとって、ここはぼくの生命線だった。


またここは、ぼくが大学で教えていたころ、20数年にわたってゼミ生たちと田んぼで作業をした場所だ。丘を越え、尾根を伝って、谷戸へと通い、若者たちと泥にまみれた。国際という名のつく学部で、学生たちになんとムダなことをやらせているのかと、冷ややかな視線で見る同僚もいた。でも、今思うと、ぼくの30年に及ぶぼくの教員生活で、これほど意義深い“教育”は、他になかったのではないか、と思える。学生たちにとっても、ここで過ごした時間は、人生最良のもののひとつではなかったか、と。


ぼくのいた大学は舞岡公園に隣接して、そのキャンパスは舞岡の森に寄り添うように長く延びている。この立地こそが、大学にとっての最大の資産であり、魅力である、とぼくは思っていた。しかし、ぼくの推測では、このキャンパスで学び、働いてきた数十万に及ぶ学生や教職員のうち、実際に舞岡公園に足を踏み入れるのは、2、3パーセントにすぎないだろう。いや、すぐそこに広大な森や田園風景が広がっていることさえ、学生のほとんどが気づかないでいるのだ。ああ、なんというムダだろう。


ウィキペディアには、「この地区の特徴である谷戸や、山林、田畑を活かした自然公園で、野鳥や昆虫など多数の動植物も見られ、週末になるとハイキングやバードウォッチングをする人で賑わう」とある。


確かに、桜や紅葉の時期の週末には、家族連れで賑わう。平日に一番目立つのは、谷戸に集まる野鳥を撮影しようと群がるアマチュア写真家たちだ。アマチュアとはいえ、長大なズームレンズを装備したカメラを頑丈な三脚に乗せて、プロに遜色ない服装の人たちばかりだ。しかし、広大な森のどこを歩いても、人とすれ違うことはあまりない。特にぼくが好んで行く平日の夕方ともなると、人間の気配はない。なんという贅沢だろう。




しかし、開発や経済成長という歪なまなざしから世界を見ている人たちにとって、これはまたなんというムダだろう。横浜市のH Pには舞岡公演についてのこんな記述がある。


周辺の市街化が激しい中で、公園区域内には豊かな緑と湧水があり、市内でも残り少なくなった昔ながらの田園風景が残されています。こうした環境や横浜の特徴的景観である谷戸の地形を生かし、市民が「ふるさとの景色」の中で農体験や自然観察を楽しむことができる公園として整備されました。


そうなのだ。そういうものとして、この公園は造られ、1992年、ぼくがすぐ隣の大学に就職したころに開園した。しかし、政府や自治体が率先してこうした大規模の自然公園をつくることはまずない。まして、これは日本有数の巨大都市、横浜なのだ。ぼくが大学に赴任して間もなく、舞岡公園が、開発計画に対する頑強な反対運動と、里山の自然と文化を保存することを目指す非営利団体の粘り強い運動の成果として、実現することになったことを学んだ。




思えば、「公園」というのは実に危ういコンセプトだ。「公」とは何のなのか?


ぼくはほんの一週間前には、タイ北部の豊かな森を歩いていた。何百年にもわたって、少数民族のカレンの人々が住んできた地域だ。太い木にかけられている看板には、「木の得度式」と呼ばれる、森林保全の一大ムーブメントのことが書かれている。カレン族を先頭とするこの草の根運動によって伐採の危機に瀕した五千万本の木が守られたという、その名残りなのだった。そのような努力によってカレン族が守ってきた豊かな自然林を、今、タイ政府や自治体は「国立公園」として保護するという方針を打ち出している。


もし「国立公園」となれば、この森のあちこちに集落を形成して生きてきたカレン族の生活は大きな制限を受けることになる。移住を余儀なくされ、彼らが引き継いできた“ク”(フランス語のRのように、喉の奥を鳴らすように発音するので、人によっては“ク”にも“フ”にも聞こえる)という伝統的な循環型(ローテーション)農業は、“森林破壊”として禁じられることになるだろう。すでに、農的営みと森の保全とを巧みに両立させる独特の森林農業(アグロフォレストリー)によって、豊潤なで広大な森を守ってきたカレン族をはじめとする“部族民”を、“森の破壊者”とする言説が広められてきた。そして、過去の度重なる森林破壊の責任を負うべき政府の側が、今、自然保護やSDGsの名の下に「公園」化を進めているとは!


「木の得度式」運動を先頭で引っ張ったノンタオ村の“レイジーマン”こと、ジョニ・オドチャオはこういって反論してきた。


では、その「部族」が住んでいるところだけ森が何とか残っているのは、なぜなのか。かつて全道覆っていた大の森はどこへ消えたのか。森がなくなったのは、あなた方、大人が暮らす中央区と南部、つまり、部族のいないところばかりではないか。あなた方のいるところまで、我々が気を盗みに行ったと言うのか? (『レイジーマン物語 タイの森で出会ったなまけ者』P46)


タイから戻って、留守中に溜まっていた新聞をめくっていたら、こんな記事が目に入った。


長野市の公園が子どもの「騒音」で撤去されると関心を集めている。

子どもにとって、かつての遊び場だった「生活道路」が自動車の台数増で奪われ、「空き地」もバブル経済で宅地化されて姿を消した。

代わりに提供されたのが「公園」だ。しかし住民1人当たり面積は、東京区部で約3平方メートル。欧米の都市に比べて1桁少ない(ロンドン約27平方メートル、パリ約12平方メートル)。子どもは、一体どこで遊べばよいのか。

(中村攻「公園から『子の騒音』 『地域のリビング』共に育む」2月3日朝日新聞「私の視点」欄)


子どもは、一体どこで遊べばよいのか? まったくだ!

子どもの声が「騒音」だって? 公園が撤去されるのも悲しいが、そもそも、子どもの声を騒音と感じる感性が悲しい。騒音、つまり、ムダな音—あってもなくてもいいが、なければないほうがいい音。ほんの一週間前、ぼくはノンタオ村にいて、ニワトリやウシや水牛やブタ、野鳥やゾウや幼い人間があげる声に満ちた空気の中に安らいでいた。


記事は続く。


十数年前、東京都西東京市の公園で、夏の噴水で遊ぶ子どもの声に、付近の病気療養中の住民が噴水使用停止の仮処分を申請した。東京地裁は「子どもの声は騒音ではない」とした市側の主張を退け、住民側の主張を認める判断を示した。(同上)


この記事の筆者は、子どもの側に立って、けしからん、子どもの遊び場を守ろう、いやむしろ、遊び場をどんどん増やそう、と言いたいのかなと期待していたら、どうもそうではないらしいのだ。


少子高齢化も進む中、鋭く対立する問題に現実的方策を提起しない限り、住みよい街づくりはできない。そこで幾つかの視点を提起したい。

こうした問題の根本的解決のためには、公園の造り方について抜本的な改善が必要だと考える。

一般に、公園は建築物に比べ、周辺環境をあまり配慮せず、利用者に歓迎されることに関心を集中して造られてきた。これからの公園造りには周辺環境との調和が不可欠だ。(同上)


がっかりだ。利用者、つまり、子どもにばかり関心を集中させず、周囲の住民たちのことも考えよう、という、思えば常識的なことを筆者は言っているにすぎない。でもこの程度の常識によって、「子どもはどこで、いつ遊べばいいのか」という、根源的な問いに向き合うことはできない。


この問題の奥には、そもそも、「公園」などというものはムダなのではないか(コンビニでもつくれ)、子どもの遊びはムダなのではないか(塾にでも行かせろ)、という社会の中に潜んでいるシニカルな疑念が感じとれるような気がする。さらに言えば、そもそも、子どもそのものがムダなのではないか、という集団的潜在意識が・・・。とんでもない。社会は今、少子化対策に懸命に取り組んでいる、と言うかもしれない。だったら、そもそも、なんで少子化なんていう人類史上、いや生物史上まれにみる不思議な出来事が起こっているのか?


深読みはこの辺にして、さあ、今日も、舞岡の森を歩き、ムダな時間を楽しみにいこう。そしてなんの役にも立たないムダな写真をとってこよう。




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