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パレスチナへの旅を振り返って 辻信一

7月22日(水)夜、オンライン・カフェ&バーゆっくり堂「パレスチナに思いを寄せる夕べ」が行われる。


このイベントに向けての資料にでもなればと、今日から数回に分けて、昨年ぼくが高橋源一郎さんとの対談の中で話した「パレスチナ報告」を抜粋して掲載しようと思う。


 


[2018年の] 11月初めに生まれて初めてイスラエル・パレスチナに行ってきました。衝撃を受けることが多い旅だったんですが、まずこの写真を見てください。美しい写真でしょ。何をやってるんでしょう。楽しいピクニックです。場所はヨルダン川西岸のパレスチナ自治区の中央部、手作りのテーブルを囲んでいるのは、ぼくと同行の二人、それにパレスチナ人が三人。


ぼくたちはパレスチナで最初にオーガニック農業やアグロエコロジーという取り組みを始めたサアド・ダゲールさんを訪ねたんですが、彼が連れていってくれたのが、彼が指導している、パレスチナ側ではまだ珍しいオーガニック農場なんです。この写真の手前側には畑が広がっている。そしてそこでパレスチナ人の若者たちが黙々と作業を続けている。そこでこうしてランチを用意してくれたわけです。このサアドに会って話を聞くのが今回の旅の重要な目的の一つだったんです。



さて、最初の写真の上の方を見てください。丘の方から町が押し寄せてきている。ぼくは一目見た時、これは建物群の津波だ、と思った。これが、イスラエル人によるいわゆる入植地というやつです。占領地に占領している側の人々が入植するのは国際法上違反だ、と非難されながら、ずっと続いてきた入植。ぼくらがこの場所を訪ねた日にも、家や道路の建設が急ピッチに進んでいた。


同じ写真をよく見てください。左上の方から、手前にかけて線が走っている。あれが有名な、というか悪名高い分離壁というやつです。丘を越えてやってくる入植地と、こちら側のパレスチナ人の農地との間に、イスラエル側が壁を立てた。高さは8メートル。ほら、写真の左から右までずっと続いている。


わかってほしいのは、これが、ガザ地区みたいに、パレスチナ自治区を取り囲むような壁ではないということ。イスラエル人入植地とは、パレスチナ自治区の内側のいたるところに、ある日突然作られるものであり、壁はその彼らを守るためにつくられてきた、ということなんです。パレスチナ人のオリーブ畑を耕作放棄地とみなして接収したり、時にはもっと強引に、パレスチナ人が居住している村をブルドーザーで破壊したりして、入植地を何十年にもわたって作り続けてきた。その結果、パレスチナのヨルダン川西岸地区は、そこいら中、壁だらけなんです。


壁とは何か。何かと何かの境界を示すものですね。さっき「雑」の一つの意味が「境界」だとぼくは言ったけど、実は、壁というものこそ「雑」としての境界を否定するものなんですね。それまであった「あいだ」、どっちつかずの曖昧な領域を壊して、ここまでがA、ここからがBと分割する。まさに分離壁です。


アメリカのトランプ大統領のアイデンティティの一つとも言えるものに壁があるでしょ。アメリカとメキシコとの間に建てるという壁。今さらと言われるかもしれないけど、国境に沿ってあるテキサスもカリフォルニアも、もちろんニューメキシコも、かつてはメキシコだったものをアメリカが分捕ったもの。


ご存知のようにこれらの州にはメキシコ系、そしてさらにメキシコより向こうの中南米出身のラティーノが多い。まさにその意味で、国境の両側は良くも悪くも雑然たる文化的中間地帯なんです。そこに壁を打ち立てようする。


もう一つ、ぼくは数日前まで岩手に行ってたんだけど、東日本大震災の沿岸の被災地に入って、いわゆる防潮堤という壁を見てきました。そこの壁は8mくらいだったけど、防潮堤にはもっと高いものもありますね、10m、12m、15m。漁港なんだけど目の前にあるはずの海が見えない。


ある若い漁師に聞いてみたら、いや、かえってあの日のことを思い出さなくてすむから、こ見えない方がいいんじゃないか、って。これにはちょっとショックを受けた。「自然と人間との分離」ということをぼくはテーマにしているんだけど、あの防潮堤はなんか海をなきものにしているような気がして。人間の意識から海が消えちゃえば、事故を起こした福島の原発からの汚染水を海に流すのだって、平気ですからね。


こんなふうに世の中には壁がいっぱいある。実際に物理的に立っている壁だけじゃなくて、心理的な壁まで入れたら、まさに世界は壁だらけ。物理的な壁があるわけじゃなくて、現実にはどっちつかずの曖昧で雑然とした状態があるとしても、人によっては心の中で壁を作って、AとBの間に線を引こうとする。壁はAとBの“間”に作られるんだけど、実は両者の「あいだ」にあった豊かな「雑」の世界を消し去る。


イスラエルとパレスチナについて、今日は詳しい歴史は省きますけど、よく使われる4つの地図だけ見てもらいたい。



最初の地図は1946年で、イスラエルという国が1948年に戦争を経て建国される前です。ここで白く虫食いのように見えるのが、ユダヤ系の人々が住んでいた地域で、もちろん、その頃はナチスドイツの敗北後、ヨーロッパから続々とユダヤ人難民が“父祖の地”にやってきていたわけです。


二番目のが、イスラエルの建国のための国連の分割案。一挙にパレスチナを半分以下に縮めてしまうという案で、これを受け入れないパレスチナ・アラブ諸国側とイスラエル建国の側とが戦ったのが48年の戦争です。


三番目がそれから1967年の戦争までの地図で、黒いのがガザとヨルダン川西岸といういわゆるパレスチナ自治区ですね。最後のが、オスロ合意後、現在にまで至る地図です。


オスロ合意というのは1993年に当時のイスラエルのラビン首相とPLOのアラファトが調印したもので、基本はパレスチナがイスラエルを国家として、同時にイスラエル側もPLOを自治政府として相互に承認するというものだった。


でも、間もなくラビンが暗殺され、現実にはイスラエルによる入植がどんどん進み、なし崩し的にパレスチナ政府が支配している場所はどんどん小さくなった。この地図でも、両者の色分けが最初の地図と真逆になっているでしょ。現在では、これ以上に西岸地区内のイスラエル人入植による虫食いは進み、自治というのは名ばかりになっているのが実情です。


どうやら、壁っていうのはパレスチナをどんどん追い詰めながら、同時に、パレスチナという存在そのものを呑み込んじゃおうとしている。かつてはあんなに豊富にあった「あいだ」がもうなくなってきている。壁が目指しているのは、こちら側の拡張で、あちら側をなくしてしまう、ということなんですね。


ぼくの友人で非暴力平和運動のリーダーであるサミ・アワッドは、エルサレムに住んでいたおじいさんを48年の戦争で亡くしている。戦争前、子供だった彼のお父さんはいつも近所でいろんな民族の、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の子供たちと一緒に遊んでいた。互いを区別しながらも、混然と、雑然と生きていた。境界とはそういうものだった。しかし今では、ガザに住むおじさんやおばさんたち親族と、西岸地区に住むサミは、もう何年も会うことすらできない。


日本にもう40年も住んでいるイスラエル人の元兵士で、家具職人をやりながら熱心に平和活動をしているダニ・ネフセタイという人がいます。彼によると、彼がまだイスラエルに住んでいた頃は誰もが自由に西岸地区やガザに行けた。ユダヤ人でも普通に買い物したり、パレスチナの人々と付き合うことができたって。


1967年の戦争の後なのに、イスラエルとパレスチナの境界とはまだそんなふうに両者が混じり合う曖昧な領域だった。両者は顔の見える関係だったし、お互い、どんな暮らしをしているかが見えていた。でも、今ではイスラエル人には壁の向こう側にあるパレスチナが見えなくなっている。


パレスチナ人は、世界中色んなところに散らばっている。イスラエルの“国内”に六百万、他の国々に七百万。近隣の三国だけでも三百万人以上、イスラエルとの戦争によって出た難民です。まるで昔のディアスポラのユダヤ人ですけど、そのユダヤ人の国イスラエルが今では難民を生み出す側になっている。


エルサレムの”嘆きの壁”

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