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新年の挨拶 スロー運動の仲間たちへ


ナマケモノ倶楽部の仲間たち、あけましておめでとう。

本年が、みなさんにとって、世界にとって、生きとし生けるものにとって、よき年でありますように。そのために、ぼくたちにもできることがありますように。


新しい年への境界をまたぎながらまず思ったのは、メメントモリーー死を想う、だ。兄、大岩剛一の死から年末で3年と8ヶ月が経った。その兄が生まれてから3年9ヶ月弱で生まれたぼくは、つまり新年早々、兄が死んだのと同じ歳(よわい)に達する。そしてそこからは彼が経験することのなかった領域へと踏み込むことになる。父親が亡くなった年齢も近づいてくる。うれしくはないが、嫌な気分というのでもない。身が引き締まる思いというのはこういうことなのだろう。 韓国の友人が藤原新也の展覧会に行き、『祈り」という写真集を買ってきてみせてくれた。そこに、彼が24歳の時のガンジス河のほとりでの経験を綴った「生きること死ぬこと」という一文があった。火葬を見続けた1日が終わり、人々が立ち去った無人の夜の川辺に坐る。空を見上げると満月。月の明かりで手相を見ると生命線がくっきり見えた。 彼は言う。 「生きることは死ぬこと、 死を意識することはよりよく生きること、 という当たり前のことが 青年の心に刻み込まれた」



去年一年を通じて、書いたり、手直ししたりしていたのが、もうすぐ発売になるぼくの新しい本『ムダのてつがく』だ。正式のタイトルは、『ナマケモノ教授の ムダのてつがくーー役に立つを超える生き方とは』。それは、世界を「役に立つ」ことで覆い尽くす効率一辺倒主義という一種の全体主義ーーそしてその背後にある人間中心主義や反自然主義ーーへの、ぼくなりの抵抗の書だ。 またそれは、気にかける、思いやる、愛することを諦めず、日々、一見何の得にもならない、金にも、名誉にもつながらない、見返りの望めないことに時間を費やしている人びとーー特にナマクラという一見、何の役にも立たない運動に参加しているあなた方のような人びとーーへの、そしてもちろん自分自身に向けた、ぼくなりのエールだ。(詳しい紹介はブログに載せたので読んでほしい)


心配ご無用。ムダについて考えることはムダではない。ムダというのはよくないことだ、とみんな思っている。でも、この常識を、そして「ムダ」という概念そのものを、根本的に考え直してみたほうがいい。アンラーンしてリラーンするのだ。さもないと、あれもムダ、これもムダとやっているうちに、実は自分にとって何よりも大切なものをさえどんどん切り捨てて、しまいには、愛さえも、そして自分自身さえもまたムダな存在だと思えてきてしまう。 自然界にはムダはない。ムダとは、人間がこの世界につくり出した幻想だ。自分たちにとって「役に立たない」ものを「ムダ」と名づけては、省き、切り捨てていく。それはしまいに、「ムダのない世界」に理想郷を見出すという倒錯に至った。しかしその結果はどうだろう!? 実は、この人間中心主義が生み出したのは、ムダで溢れかえった世界だったのだ。ちょっと高いところから、大都会を眺めてみてほしい。目の前に広がっているのは、あれやこれやムダを省きに省いて、効率的に、凄まじいエネルギーと時間を注ぎ込んでつくり出したモノたちが、大地を所狭しと覆い尽くしている様だ。大地はもう息もできない。これこそ、壮大なムダでなくて何だろう。

「無限にムダをつくりだすのが現代の経済だ」(サティシュ・クマール) 「現代世界を支配しているのは、なくていい、ないほうがいいような仕事」 (グレーバー)

そんな経済こそが、自然破壊を、気候危機を引き起こしたのだ。さらに、今や人間がつくり出すムダは空間ばかりでなく、時間のうちにも溢れかえり、人と人との繋がりを切断し、社会をバラバラにし、人間の精神を狂わせている。

この危機に、ぼくたちができることーーしなければならないことーーは、何か。

まず、人間社会がムダとみなし、蔑み、排除し、ゴミばこにぶち込んできたモノ、コト、ヒトに、目を向け、それらと向き合い直すことだ。こうして、「ムダの冒険」が始まる。


希望ーー我が家のすぐそばにタヌキが帰ってきたこと

この知的冒険に挑んだぼくの報告書でもある本書は、みなさんおなじみのナマケモノやハチドリのひとしずくや、レイジーマンなどの話から始まり、終章の「星の王子さま」へ向けて進む。キツネが王子さまに言ったあの深遠な言葉から受け取るメッセージもまたスロームーブメントの仲間であるみなさんにはなじみ深いはずだ。「愛とは時間をムダにすること」

新年の挨拶の終わりに、詩人長田弘の詩句を紹介しよう。雑草(ムダ草)がこう呟く、 「ひとは未だ、この世界を讃える方法を知らない」(「草が語ったこと」) それは悲しい言葉だが、その裏側には希望が光っている。


ちょうど昨夜、友人を励ますために次の長田弘の散文の一節を送ったばかりだ。 「朝が明けて、陽が高くなって、やがて日が暮れてというふうにだんだんと変わってゆく何でもない一日が、平凡過ぎて退屈なだけの一日どころか、本当はとんでもなく大切な一日であり、ありふれた奇跡と言っていいような、かけがえのない一日であるということ」 みなさん、今年もまた一緒に希望を語り、育て続けましょう。



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