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執筆者の写真辻信一

新スロー・イズ・ビューティフル序論 (4)



見る・見られる

二〇二〇年三月末、やっとぼくの長年の念願がかなって、『常世の舟を漕ぎて(熟成版)』が出版された。それは、漁師で水俣病当事者の緒方正人から、ぼくが二十七年間にわたって続けてきた聞き書きをまとめた本だ。コロナ騒動のあおりを食って、予定されていた出版記念の行事はすべてキャンセルされ、本は静けさのうちに“舟出”した。今思えば、それはそれでこの本にふさわしい旅立ちだったろう。

以来、この本を時々開いては、コロナの時代を行くぼく自身の旅の友としている。一年がかりの「新スロー・イズ・ビューティフル」へと向かうスローな旅でも、度々、緒方正人の言葉を手がかりとすることになるに違いない。


その『常世の舟を漕ぎて』に、緒方正人のこんな言葉がある。

風景を見る時、みんなは見てる側の視点のことを意識している。ところが『見られている』という意識が欠けていることが多い。花を見てるだけでなくて、花からも見られてる。


これを聞いたとき、ぼくがすぐ連想したのは、アメリカの画家、ジョージア・オキーフ(1887〜1986)の言葉だった。世界的に有名なオキーフは、なかでも、大きなキャンバスいっぱいに描く一輪の花の絵で知られた。彼女は花について、そしておそらくは花を描くという行為について、こう言った。


誰も、花を見ていない、本当は。だって花は、見るには小さいし、時間がかかるから。みんな忙しくて時間がない。でも花を見るには時間がかかるの。友だちをもつのに時間がかかるように、ね。


なぜかオキーフは時間のことをもちだしている。花を見るには時間がかかる、というのはどういうことだろう。緒方の言い方に倣えば、オキーフはきっと「花を見る」だけではなく、「花に見られる」ことを語っていたのではないか。だからこそ、「友だちをもつ」ことと「花を見る」こととを並べて、「見る」ということが、「見る者」と「見られる者」の一方的な関係を超えたところにある関係性 — 相互に呼びかけ、それに応答する一種のコミュニケーションを指す、と言いたかったのだろう。関係を結ぶという意味での「見る」は、一方的で非関係的な“見る”と違って手間暇がかかる。スローなのだ。


コミュニケーションという言葉は、語源を辿れば、「一つになる」ことを意味するという。一方的に見るのにも、一方的に話すのにも時間はかからない。だから、一見、手軽で気軽だ。だが、見るものと見られるもの、話す側と話される側は分断されたままだ。その分断を超えた融合について、緒方は、先の発言のすぐ前に、「相思相愛」という言葉を使ってこうも言っていた。


好きにならないと惚れられないですよ。そう思う。俺は酒飲みだから、酒が好きで飲んでたら酒から惚れられちゃった。相思相愛になるんですよ。これは風景もそうだと思う。俺はここに生まれてずっとここで生きてきたけど、今でも海も山もつくづく美しいと思う。惚れてるのね。そして惚れられてるなって。


1953年、不知火海の漁師の家に生まれ、幼くして父を劇症水俣病で失った緒方正人は、若くして水俣病認定訴訟に参加、そのリーダーとして責任企業チッソと政府に対する激しい闘争を展開する。だが、「被害者」対「加害者」という二項対立を前提として、金銭による補償を求める運動のあり方への疑問に苛まれた末、1985年に組織を離脱、その直後に彼が「狂い」と呼ぶ精神的な危機を経て、たった一人の行動に取り組み始める。「常世の舟」という名の木造の帆かけ舟を漕いで、水俣へ通い、チッソ工場正門前に「身を晒す」。水俣病の犠牲となった人々、そして猫、鳥、魚を弔うための石仏を彫る・・・。


彼は言う。

加害者も被害者も全部、同じ輪の中にいる。・・・外はないんです。その中にしかいないので、反対だ、闘争だ、というのには所詮、限界がある。

それが、本の題名ともなった「チッソは私であった」という彼の言葉につながっていく。被害者であるはずの「私」も、加害者であるはずの「チッソ」も、自然界を単なる資源とみなして搾取するこの社会システムという「同じ輪の中にいる」のだから。


緒方は繰り返し、水俣病問題はいのちの問題だと訴える。この問題は、「魚も鳥も猫も、他の多くの生きものたちも巻き込んでるわけですよ」と。


「他の生き物から見たらどう見えるか、と考えてみる」。人間だけでなく、他の生き物たち、そして生き物をも包み込む海や森、山や川。さらに緒方は、水俣病を引き起こした原因物質として忌み嫌われてきた水銀にまで思いをはせる。そして「毒から見たらどう見えるか」と彼は問う。人間が水銀を見る、という一方的な関係の裏側に隠されている「水銀に人間が見られている」という次元に思い至ることが必要なのだ。


毒物の側に立てば、勝手に作っておいて嫌われて、用済みだから出ていけというのはたまらんですよ。俺だったらそう思うな。


誰もが「水銀を悪者にしてきた」。その水銀に対して、しかし、「申し訳なかったな、あんたらばっかり悪者にして」と、水俣病被害者と呼ばれてきた「俺たちも言わないといけないんじゃないか」。そして、ずっと“臭いものに蓋”をしてきたことに対して「詫びを入れる」べきだろう、と。


それを俺は「存在の認定」と言うんです。・・・物には感情も記憶も霊性もないんだと思い込んでるんじゃないか。だけど、それは危険な思い込みで、むしろ物にも感情も記憶も霊性もあると考えたほうがいい。・・・物であろうが人であろうが、存在が求めているのは、結局、その存在が認められるということだと思う。あらゆるものにたいして、その存在を認める。


ここで緒方は、「認定」という、かつて彼自身が深く関わった「患者認定申請運動」と同じ言葉を使って、「患者としての認定」を「存在としての認定」へと生まれ変わらせている。そして、つけ加える。「認めるというのは、いい悪いの話じゃないんですよ」。さらに、それは言わば、「愛してる」と言うことに等しい、と。


存在への愛とは言い換えれば、「畏れの感覚をもって世界を見るということ」だと緒方は言う。


鍵は「共に生きる」だと思う。我々だけ生きるんじゃなくて、あれやこれやのものたちと共に生きるんだということ。・・・何千代、何万代かわからんくらいの生命の運動があって、我々はその中にある。もちろん一人ひとりの存在の意味も大きいでしょうけど、永くて大きな生命世界の中にあるということの意味をつくづく思わされる。・・・世界に帰依する。・・・自分たちを包む大きな世界、その循環のサイクルに帰依していく・・・」


「申し訳なかったな、あんたらばっかり悪者にして」と、ぼくたちが詫びを入れなければならないのは、水銀ばかりではない。害獣と呼ばれる動物たち、害虫と呼ばれる昆虫たち、雑草と呼ばれる植物たち、そして、雑菌とか、病原体などと呼ばれる細菌やウィルスもそうだ。


まずは、この畏怖すべき、そして愛すべきこの世界を共に構成する一員たるこれらの存在に、「見られている」こと、そして呼びかけられていることに気づかなければいけない。責任と訳される「レスポンシビリティ」という言葉の元々の意味は「応答可能性」だ。存在からの呼びかけに目を見張り、耳を傾ける、そして応えようとする。それが緒方のいう「責任」であり、「存在の認定」であり、「愛」だ。

人間世界は今、科学技術の粋をつくして、コロナ・ウィルスを見つめている。その謎に満ちた正体を白日の下に晒そうと。もちろん、その相手が世界をどのように見ているか、そして我々に何を呼びかけているか、などというのんきなお伽話をしている暇はないと言う人は多いだろう。しかし、残念ながら、これは単なるお伽話でも、喩え話でもない。正体を晒さなればならないのは、ぼくたち自身なのだ。


手を洗う

二〇二〇年三月二四日、仏教思想家のジョアンナ・メイシーが、ぼくも入っているメーリングリストで、一編の「美しい詩」を紹介してくれた。それはアメリカの自然療法士でアーティストによる「手を洗おう」という詩だった。以下、抜粋した数節を拙訳で見てもらおう。(注:英語の詩はホームページで公開されている)


この詩の作者はドリ・ミッドナイト。彼女は「魔女」を自称しているらしいが、確かにそれにぴったりの名前だ。冒頭の一節で、彼女はまず読む者を過去へ、そして自らのルーツへと連れ戻してくれる。


私たちは人間、手の洗い方を学び直しているところ

手を洗うのは愛の行為

手を洗うのは思いやり

手を洗うのは、用心しすぎてガチガチの体をほぐすこと

手を洗うのは、不必要なものを水に流して我に還ること


手を洗う

あなたのひいばあちゃんと海を渡った、

たった一つの形見のお茶碗を洗う時のように

死を前にした、愛する人の髪を洗う時のように

大切な人の足を洗う時・・・


まるでこの水が、山を越え、

3マイルも歩いて親友が運んできてくれた

水差しの中から流れ出ているかのように

この水が時間と奇跡によって創られた

貴重な資源だとでもいうように


パンデミックに世界が覆われたとたん、「手を洗おう」という言葉があっという間に世界中の合言葉となった。初めのうち、「手を洗う」というこの上なく平凡な一言を医療専門家や政治エリートたちが口にするときには、拍子抜けするような違和感が覚えたものだ。考えてみると、たしかに、「手を洗う」ことは人類にとって最も根源的な医療と衛生の形かもしれない。詩人は、この行為のうちに潜んでいた原初的なエネルギーをもう一度解き放とうとするかのようだ。彼女はまた、「手を洗う」ことのもつ精神的な意味やその倫理的な意味へ、さらに、水という存在自体のスピリチュアルな本質へと、ぼくたちを導く。


「手を洗う」に限ったことではない。この詩は、一見薄っぺらで退屈な日常や、そこで単調に繰り返されているように見える習慣が秘めている深遠な知恵を、ぼくたちに思い出させてくれる。そうして、“魔女”でもあるという詩人は、ぼくたちの中に眠っている魔法を呼び覚まそうとするかのようだ。


友よ、こういうことが大事なのは今に始まったことじゃない

今だけじゃなく、いつだって“今こそ”だった

慎重に、周囲を気にかけ、言葉をかけながら行動する、

そんなことはみな、昔からずっと大事だった


思い出すのよ、ニンニクの束をドアにかけるのを

ハンカチをタイムのお茶に浸すのを

塩で足を揉みほぐすのを

ロザリオの祈り、メズーザーへの接吻、卵のおまじない・・・

真夜中、お腹に戦慄を感じて目覚めたら

星屑のことや地質学的な時間に思いを馳せよう

レッドウッドの森、ダンスパーティ、

毒を浄化してくれるマッシュルーム・・・


この詩には「もう」、「すでに」、「とっくに」を意味するalreadyという言葉が繰り返し登場する。言われてみればたしかに、コロナがやってくるずっと前から、ぼくたちは、「手を洗う」、「水分をとる」、「窓を開ける」が大切な行為だということくらい、もう、すでに、とっくに「知ってたはず」なのだ。そして、たしかに、誰もが「すでに、危機の時代に生きている」のだし、もう「その時はとっくに来ている」のだし、「今だけじゃなく、いつだって“今こそ”だった」に違いないのだ。


もう、その時は来ている

今のところ障がいがない人たちが

慢性疾患を抱えた人たちのことや障がい者のことを思う時

若い人たちが年寄りのことを思う時 その時はもう来ている

合成芳香剤を振りまいて、体の匂いを隠そうとしたり

まるでいつまでも死なないかのようにふるまうのをやめる時

・・・スローダウンして、自分が抱えている恐れに向き合う時


そして詩は次の一節で終わる。


もうその時よ

互いを思いやる

水に向かって祈る

どうかこの恐怖を洗い流してくれますように

手を洗う、そのたびごとに


「手を洗う」、「マスクをする」「咳をするときは口を覆う」、「家にいる(ステイ・ホーム)」、「身体間距離を保つ(ソーシャル・ディスタンス)」といった行動のマナーから、「いじめない」、「差別をしない」、「思いやる」といった道徳まで、ウィルス禍が世界中に広めたのは、まるで幼稚園児向けのシンプルな合言葉だった。しかしそれらは、ぼくたちの誰もが生物であると同時に、社会的な存在であるという、とっくに知っていたはずなのに、いつも忘れてしまいがちな真実を思い起こさせてくれた。数十年にわたってグローバル資本主義や先端テクノロジーが世界中で進めてきた世界の“フラット化”、均質化、脱身体化に比べて、これはまたなんと小ぶりで、間が抜けているほどプリミティブで、懐かしいほどのどかな“グローバル化”だろう。


往々にして、真実とはこのように、ぼくたちが思い込んでいるよりはずっとスローで、スモールで、シンプルなものなのだろう。 


(「序論」:了)

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