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巻頭コラム13 |
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はじめに――さあ、スローなあなたに旅立とう
ミヒャエル・エンデの『モモ』をご存知ですか。この物語では、時間貯蓄銀行からきたと称する「灰色の男たち」が登場して、言葉巧みに町の人々の心の中に入りこんでいきます。「今むだにしている時間を倹約して、私たちの銀行にあずければ、それに利子というものがついて、あずけた時間がどんどんふえて、あなたは使いきれないほどたくさんの時間をもてるようになる」。
たとえば、時間貯蓄銀行員を名乗るある男は、床屋のフージーさんに時間の倹約のしかたをこう説明します。ひとりの客に1時間もかけないで15分ですますこと。店に正確な大きい時計をかけて、使用人の仕事ぶりをよく監督すること。また次のようなムダなことを削ったり、やめたりして、それに使われる時間を少なくすること。ゆっくり食事をすること。年とったお母さんとおしゃべりすること。ペットのボタンインコの世話をすること。映画を見にゆくこと。合唱団の練習に出ること。飲み屋で酒を飲むこと。友だちと会って話すこと。本を読むこと。花をもって好きな女性を訪ねること。寝る前に窓辺にすわって一日のことを思い返すこと・・・。こうしたムダなことのために人生の貴重な時間を使うのはやめて、節約した分の時間を私たちの銀行に預けることだ、と灰色の男はフージーさんに迫りました。
時間を節約すれば、時間は何倍にもなって戻ってくる! そう信じたフージーさんは灰色の男の言うなりになります。さて、フージーさんに何が起こったでしょう。
「彼はだんだんとおこりっぽい、落ちつきのない人になっていきました。・・・彼が倹約した時間は、じっさい、彼の手もとにはひとつものこりませんでした。魔法のようにあとかたもなく消えてしまうのです。彼の一日一日は、はじめはそれとわからないほど、けれどしだいにはっきりと、みじかくなってゆきました。あっというまに一週間たち、ひと月たち、一年たち、また一年、また一年と時が飛びさってゆきます」
床屋のフージーさんに起こったことが、町中の大人たちに起こっていきます。忙しくなった彼らにはもう、家庭の団欒も、子どもと遊ぶ時間もありません。最初のうちは「時間の貯蓄」なんてバカバカしいと思っていた子どもたちも、しまいには「子どもの家」に収容されて、自由気ままに遊ぶこともできなくなり、「小さな時間貯蓄家といった顔つき」になってしまいます。でも、モモという不思議な少女だけは、灰色の
男たちの正体が時間泥棒であることを見破って、人々が盗まれた時間をとり戻すために活躍します。そんなモモの冒険物語、それが『モモ』です。
さて、ぼくが注目したいのは、灰色の男たちに支配されたあの町の様子が、現在の日本社会の様子とあまりにもよく似ていることです。悲しいほど、そっくりなのです。
ぼくたちは無数のフージーさんを身の回りに、いや、自分のうちにさえ見出してゾッとするのです。
それにしてもなぜ、フージーさんや他の大人たちはいともあっさりと灰色の男たちに騙されてしまったのでしょう。母親への愛情や、女性への恋ごころをさえ、ムダなものと見なしてあっさりと切り捨てることができたのでしょう。でもその同じ疑問を、ぼくたちは自分が生きているこの社会の多くの人々に向けることもできます。いや、もしかしたら、自分自身にさえ。
現代世界の時間はますます加速していくようですね。みんな忙しそう。「時間がない」と誰もが不平を言っています。待つこと、待ってもらうことが不得意になってゆきます。お互いを待ち、待ってもらうことなしに、多分、人間と人間の深いつながりは成り立ちません。人を思いやり、大切にすることには時間がかかるもの。しかし、その肝心の時間がない。だから、「それどころではないんだ」と呟くしかないのです。実際、現代人は愛し、愛されることがますます難しいと感じているのではないでしょうか。子どもから老人まで、愛の渇きはいよいよ疫病のように広がっている。ぼくにはそんな気がしてならないのです。
なぜこんなことになっているのでしょう。ぼくはこう考えています。それは多分、時間とお金が手を結んでしまったから。「時は金なり」というルールが支配するこの世界で、人々は競い合って時間を金やモノに変えてきてしまったのです。この時間をめぐる競争は、伝統の中で育まれてきた人間同士のつながりを犠牲にせざるをえませんでした。人間関係ばかりではない。時間競争は、社会の中に紛争の種をまき、戦争の原因となり、自然界にとり返しのつかない破壊を引き起こしています。
時間競争によって加速してゆくファストな世界の真ん中で、ぼくは「スロー」と言うのです。モモに見習って、ぼくたちも時間をとり戻す旅に出なければなりません。遠くへ行く必要はありません。ビックリするほど近くに、ぼくたちが切り捨ててきた時間の破片は転がっているものです。食卓を囲む時間、手をとり合う時間、見つめ合う時間、抱き合う時間、寝転がって空を見る時間、ブラブラと散歩する時間、手紙を書
く時間。
「愛さえお金で買える」といわれる時代にぼくはあえて「スローラブ」と言いたい。愛するには時間がかかるもの。手間ひまがかかるからこそ、愛は愛。その手間ひまを省いたときに愛は萎えてしまう。だから、「スロー」は「愛{ルビ:ラブ}」の本質です。愛なしに生きていけないというのが本当なら、ぼくたちは生きていくためにスローダウンするしかないのです。時間をお金やモノに換えるファストライフのかわりに、お金やモノを減らしてでも豊かな時間をもつスローライフを選びとるのです。
それまでぼんやりとしていたこんなぼくの思いが、くっきりとした輪郭をもち始めたのは、三砂ちづるさんの『オニババ化する女たち』に出会ったときです。オニババとはますます愛し、愛されることが難しくなってゆく女たちのこと、いや、老若男女を問わぬ多くの現代日本人のことなのだ、とぼくには思えたのです。そんな社会全体の愛の枯渇が女性の身体に表れる様を語る三砂さんの語りは衝撃的でした。でも、さらにぼくにとって鮮烈だったのは、その同じ女性の身体が秘めている愛の再生に向けての底力でした。それは暗い世界に差し込んでいる希望の光のようにぼくには感じられたものです。
その三砂さんに初めてお会いしたのは確かバレンタインデーのこと。なぜ覚えているかというと、電話やメールでしか話したことのない初対面のぼくに彼女はチョコレートをくれたから。着物姿の彼女が座るのに苦労するほど高いスツールに、鳥のように並んで腰かけ、ぼくたちはワインで乾杯しました。もう、その時には、この人と一緒に本を書きたい、と思い始めていました。そして、一緒に本が書けるなら、愛について、と。
それがこの本です。まだ愛をあきらめていないあなたにこれを贈ります。
2006年春 八ヶ岳山麓にて
辻 信一 |
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